砧教会説教2016年10月16日
「正しい者は一人もいない」
ローマの信徒への手紙3章1~18節
今日のタイトルも、もちろん私の言葉ではない。これはパウロが引用する旧約聖書の言葉である。ただし、この箇所の出どころは詩編14編1-3節とされるが、タイトルのような言葉はなく、「善を行う者はいない」とあるだけである。細かい議論は避けるが、パウロが意図的に語っている言葉かもしれない。
さて、2章の終わりでは「内面がユダヤ人であるものこそがユダヤ人であり、文字ではなく、霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです」と述べ、外形的、儀礼的な区別によってユダヤ人であると主張することに意味はないことを喝破した。それに続くのが今日の聖書である。ここでは一転してユダヤ人の優れた点を話題にし始める。
優れた点の一つとして「彼らが神の言葉をゆだねられた」点を挙げる。これはシナイ契約のことを指している。つまりモーセを通して神の律法が授与されたことを指し、パウロ自身ユダヤ人としてこれは当然のこととしている。もちろん、これさえ独りよがりではあるが、彼らユダヤ人はそのように理解しているということだ。ただし、パウロは問い直す。「それはいったいどういうことか」と。この後の言葉はやや理解に苦しむ。まず、「彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、神の誠実が無にされるとでもいうのですか」と問う。もちろんこれは反語なので、「けっしてそうではない」と続く。ここで「不誠実」と訳されるのはアピステア、「誠実」はピスティン、つまりそれぞれ不信仰、信仰と訳しうる言葉である。ただし、神の「信仰」というのはおかしいので、それぞれ「不誠実」、「誠実」と訳している。このピスティスというのは約束に忠実であるという意味なので、ほかの個所においても(つまり普通に「信仰」と訳されている箇所でも)、ピスティスを「信仰」ではなく「誠実」と訳す可能性もある。この箇所の意味は、神の約束の言葉に誠実でないユダヤ人がいても、その不誠実さゆえに神の誠実さ、つまり神がユダヤ人を救うであろうという約束が反故にされることはないというのである(4節はじめ)。そして「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」と続ける。「すべて偽り者」であるとはいかにもパウロらしい極端な言い方である。ここでは前の「不誠実」を「偽り者」に置き換えている。そしてすべて人は偽り者だとしても「神は真実であるとすべき」、という。つまり、神の人間に対する約束は反故にされない、神は偽り者にはならないというのである。ここにはおそらくパウロの思想の根本がある気がする。彼は自分も含めあらゆる人間が不実であり、偽り者であるという限界のうちにあると確信する一方、神は誠実であり、うそをつかない完全に信頼しうる者であると確信しているのである。
4節後半の詩編51編6節の引用はややわかりにくいが、要するに神の言葉は常に信頼に足り、かつ神が裁かれるようなことはない、ということ(旧約聖書の訳のほうがわかりやすい)。
5節以下は詭弁的な論理の展開となるので、これもまたややわかりにくい。まず「わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対してなんというべきでしょう」と問う(5節前半)。これは対称論法とでもいうべき論理で、人間の不義がはっきりすればするほど、神の義つまり神の正しさがよりはっきりするということ。だから人間が不義であればあるほど、神はいっそう正しい者として栄光に満ちることになるということになる。そして「人間の論法に従って言いますが」とことわりながら、パウロは「怒りを発する神は正しくない」という人間の手前勝手な言葉を取り上げる。つまり、人間が不義を深めれば神はいっそう正しいことになるのだから、人間に怒りを発するのは間違いではないか、人間が不義であることが神の義を証明するのだから、怒るどころかそのままにしておく方が神自身は正しい者でいられるというわけである。
もちろんこれは詭弁なのだが、当時はこういう論理さえあったのだろう。ソフィストの哲学はこのような論理を洗練したとは、哲学史で習うことである。
パウロはこうした詭弁に、「決してそうではない」と否定する。パウロは「神は正しいから、裁くことができる」と常識的な論理に戻す。
しかし、さらに詭弁的論理を例示する。「わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしたちはなおも罪人として裁かれねばならないでしょう。それに、もしそうであれば、「善が生じるために悪をしよう」ともいえるのではないでしょうか」(7,8節)。先ほどと同じように、対称論法とでもいうような屁理屈である。私たち人間が嘘つきであればあるほど、神の真実さは高まるのだから、善悪についてもおなじことで、「善が生じるために悪をしよう」となってもおかしくない、というわけである。これはどの宗教にもある落とし穴で、日本では親鸞の悪人正機の論理を詭弁的に解釈し、悪をなすほど救いが確かになるというのと似ている。あるいは、堕落すればするほど、聖なる者に近づくなどというのもその一つだろう。インド的な、苦しみを味わうことはかえって来世の幸福につながるというのもなんとなく似ている。
初期キリスト教の罪意識の強調はこのような突飛ともいえる論理で揶揄されたり、否定されたりしたのだろう。だからパウロは「こういう者たちが罰を受けるのは当然です」という。つまり悪を重ねるほどに善が生じるといって悪をなす者は当然罰せられる。
パウロが示したいのはこうした詭弁に翻弄されるような形式的な言葉遊びではない。かれは言葉の向こうに人間の現実を見出しているのだ。それが9節の「私たちに優れた点があるのでしょうか。まったくありません。すでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」という命題である。彼はすでにイスラエル史と人類史を重ねながら、人間の不信心と不義に言及した(1章18節)。そして、本日のタイトルの言葉を導入する。「正しい者はいない。ひとりもいない」と。最初に述べたが、この言葉は詩編14編の冒頭にはない。「善を行う者はいない。ただのひとりもいない」の変奏かもしれない。10-12節に引用される詩編14編の1-3節は旧約聖書では次のようである。
「神を知らぬ者は心に言う、「神などいない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。誰もかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。一人もいない。」
パウロの引用は一部略され、13節以下は別な詩編から断片的に引用しているようである。辛辣な言葉が羅列されるが、このような人間の堕落はパウロの見方では、そもそも人間が自力で救われることがないほどに、罪深いということを示すのであり、したがって善行を行えば次第に彼自身が自らを救う、あるいは神の罰を当然逃れることができるというような、ある種の段階的救済の論理を拒否するということであろう。つまり、罪、不義、偽りから自力では逃れることができないという非常に悲観的な人間観となる。パウロの論理はある種の極端さを常に帯びているが、ここでもそうである。しかし、これはもちろん彼一流のレトリックでもあるが、同時に、ファリサイ派の一人として生きてきて、その視点から自分自身と世の中とを見てきた彼の、実感に基づくともいえる。
彼は人間主義的な世界、概念と論理学と分析的理性と、すでに過ぎ去ったにもかかわらず神話を大切にする伝統的宗教性とが混じりあうヘレニズム世界の嘘くささ、巨大な権力的支配を実現するローマの下であえぐ膨大な民衆、そして自らの存在する意味や目的を失った多くの都市の人間たちをつぶさに見ていたのだろう。だからこそ、その中で自力救済を試みる彼は、独善的に見えるユダヤ教ファリサイ派の、しかし非常に信頼すべき生き方を実践してきた。その根本が神の律法(トーラー)である。そして当然それを順守することによって、すくなくとも未来のいつか、イスラエルへの約束として語られた神の言葉が実現すると信じていた。
しかし、彼は今、ユダヤ人である自分も含め、この世界の現実を見る限り、あらゆる人間は、人間であるある限りにおいて、神のようにまっすぐ、偽りなく、真実で、誠実であるということは一切ありえないのではないか、という極端な結論に至る。それはやがて神学の歴史において神と人間との質的な断絶などと言われたりするが(ルター、そしてバルト)、そうした悲観的とも見える立場に立つことによって、かえって見えてくるものがあったのだろう。それがあのイエスの出来事の意味である。
今日の聖書はまだそこには至らない。他の人間とは違ってユダヤ人として神の律法を授かったから、それを実現するなら救われるというのでもなく、異邦人の知恵や宗教でも、この現実を見る限りにおいては、救われる気がしない。それでは単に絶望なのだが、パウロは、そうした人間の姿を丸ごと認めるほかはないというところに行き着いたということだろう。そしてそのような承認、つまり人間とは救いようのないものであるという気づきにおいて、そしてその気づきにおいてのみ、新たな道が見えたということだろう。
やや、パウロの肩を持ちすぎた。彼のこのような極端さ、そして鋭さは、読む者を刺激する。以前も述べた通り、注意しなければならないのは、彼がユダヤ教ファリサイ派の出であることだ。つまり彼は厳然たる律法主義者であった。それゆえ、それがキリストの側に反転したことで、そのファリサイ派的厳格さが彼のキリスト教に反映されてしまうという点である。このことについては、ローマの信徒への手紙を読む中で折に触れて指摘したいと思う。
ともあれ、彼の語る人間のどうしようもなさについて、深く考えることは重要である。そしてそのどうしようもなさを認めることから出発する勇気も、それ以上に重要なことだ。今日はここまででひとまず終えたいと思う。