砧教会説教2016年10月23日
「奪う勢力は、もっと大きな奪う勢力によって滅ぶ」
ミカ書2章1~5節
ミカ書のこの箇所とイザヤ書5章8-9節はよく似ている。二人は同時代を生きており、方やエルサレムの神殿の近くにいる貴族的な預言者イザヤ、方やエルサレムの南東モレシェトという地方の町から出たミカ。この二人が期せずして似たような批判を書いていることにまず驚く。
彼らの時代はアッシリア帝国の南下とともに進むオリエント世界の再編と深くかかわっている。そして彼らはアッシリアのパレスチナ支配という極めて大きな欲望と対決せざるを得ない。しかしながら、それ以前にエルサレムという首都の腐敗を正さなければならない。なぜなら、これを放置することは神の審判を招くことになるからだ。その腐敗の元凶はおそらく首都の富める者たちである。
1節ではまず、ホーイという間投詞風の言葉で始める。これはイザヤ書5章以下の出だしと重なっている。このホーイを新共同訳では「災いだ」と訳すが、例えばクリストファーの注解では「warning! (警告!)」と訳している。いずれにせよ、これらエルサレムの都市貴族や金貸しを指すようだ。「寝床の上で悪をたくらみ、悪事を謀る者は」とあるが、これは夜明けの来ぬ間に収奪の計画を練り、それを実行しようとする人々の日常的行動なのだろう。夜が明けてからでは行動に時間が足りない。計画は夜のうちに周到に行う。これが収奪する者たちの抜け目なさである。
ところで、預言者として活動する動機とは何だろうか。そもそも、旧約聖書の存立の動機とはなんだろういか。それは民の叫びではないだろうか。その叫びに応答する神とその口となった預言者の活動が旧約聖書の根本にあると思う。その端緒は言うまでもなく、エジプトの奴隷たちの叫びであった。出エジプト記2章23節「それから長い年月が経ち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はそのうめきを聞き」とあるように、イスラエルの救いとは奴隷の状態にあったイスラエルの苦難を顧みることから始まった。これは簡単に言えば、ある人間が他の人間の自由を奪い、代わりに自分の自由を拡大していくことを容認しないということである。
ところで、古代において、王とは覇者であった。そしてそれは自然的世界の諸力を味方にした結果であるとされた。自然的諸力は神々として表現される。その力を一身に集めた覇者(王)は神ないし神の子であり、その力に服した者はすべて彼の奴隷である。このような単純な構図では不十分とはいえ、古代文明はそのような支配の成立に基づいている。古代イスラエルはこのようなオリエント文明の常識を覆す、新たな世界を構想した。それが存在の源としてのヤハウェ、つまり創造の神ヤハウェであり、その前において自然的世界は人間の下であり、自然的諸力を神として崇拝するこれまでの宗教は無効であり、その自然的諸力とつながった王の力も当然無力である。オリエント的宗教性とは別次元の、地上も天上も支配する、つまり太陽や月や星さえ支配する絶対的なものを構想したのである。そのことは創世記の冒頭にはっきりと描かれている。そしてその神は支配権を完全に独占する者として表象される。絶対的支配者は、相対的支配者を許容しない。だから、相対的支配者が自由を独占し、その他の者が不自由となること、奴隷となることは許さない。だからこの神はイスラエルの叫びを聞き、それに答えたのである。
もちろんこのような神学的構想は、二次的なものである。むしろ第一は叫びそのものであろう。その叫びをはじめに誰が聞いたのだろうか。それは自分自身であろう。自分自身が苦しい、痛いと叫ぶとき、はじめてそこに自分が存在し始める。というより、命の源に触れるということだ。ということはイスラエルの神ヤハウェとは外にいるというようなものではなく、私の「内」にある。それをあたかも外にいるように私たちは考えるほかはないが、外ではない。同時に私自身でもない。それは「外」と「内」を同時に超えるようなものというほかないだろう。
叫びを聞いた神とは結局、叫ぶ人々が戦いを始めたときに現れるというべきだろう。その端緒が預言者の働きであると言える。
さて、ミカ書に戻るが、このテキストはミカ自身が痛んでいる、あるいは怒っていることの表れである。彼は都エルサレムの強欲を見ているのであろう。そこでは高利貸したちがうごめき、不動産を操る人々が暗躍する。先に挙げたイザヤ書5章8節には「災いだ、家に家を建て連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでにこの地を独り占めにしている」とある。そしてこのミカ書2章2節には「彼らは貪欲に畑を奪い、家々を取り上げる」とある。おそらくこの二人の預言者は同じ光景を見ているといってよい。首都を支える近隣の町や村をどんどん収奪し、人々を事実上の奴隷として売るのかもしれない。あるいは自分の奴隷とするのかもしれない。ともかく「住人から家を、人々から嗣業を強奪する」というのである。このような人々に代わって叫ぶ、あるいは嘆くのが預言者ミカ(でありイザヤ)であった。
彼は地主や高利貸しに威嚇を語り始める。「主はこう言われる」と。これは使者の定式と呼ばれ、預言書によくあらわれる言い回しである。ミカは戦争になって捕虜がたくさん生まれることを予期している。そして、それはヤハウェのたくらみである。捕虜は「くびき」をはめられ、身動きができない。したがってもはやくびきのゆえに上を向くことさえできない。
このように、奪う勢力はさらに強力な奪う勢力によって自分自身の自由を奪われることになる。この奪う勢力はイスラエルの領土それ自体を奪うのである。ここにはアッシリア帝国が想定されている。エルサレムの金持ちたちが自分たちの仲間を収奪するといった規模ではない。領土を丸ごと奪っていくのだ。これは途方もない力である。アッシリアはすべてを従属させる。それゆえ、このエルサレムの富者たちの苦い嘆きの言葉が言い伝えのように歌われるようになるだろう。「われらは打ちのめされた。主は我が民の土地を人手に渡される」と。そして「お前のためにくじを投げ、縄を張って土地を分け与える者はひとりもいなくなる」。要するに、自分たちの領土をつかさどる者がなくなるのだから、土地を自分たちで分け合うことはできない。つまり自国の領土でなくなってしまう。それは丸ごとアッシリアの物となるのだ。
土地をめぐる争いは至る所にある。日本の昨今の話題の中心は東京オリンピックと豊洲市場問題である。この両者とも土地をめぐる争いが根にある。オリンピックのほうはいまだ会場をめぐる誘致合戦が続く。これは土地というより、オリンピック利権のようなものかもしれない。豊洲のほうはまさに土地問題である。価値の非常に低い土地、化学物質で汚染されていた土地を法外な価格で取引したのではないか、などの疑惑のほか、設計変更をごまかしていたことなどもある。しかしわが国で一番問題なこと、同時に多くの本土の国民には無関係に見えること、つまり沖縄の基地問題である。これはアメリカ軍が沖縄を第二次大戦後占領したことによる。戦後71年を経てもなお、日本国は沖縄の基地問題を処理できない。アメリカというあまりに大きな権力があるので、そう簡単には、動かない。しかし沖縄の人々の叫びは届いている(はずだ)。ただ沖縄の内部では住民独立という動きはない。巨大権力アメリカに実質上占領され、中国台湾に挟まれたような琉球列島は、その小さな島の中で利権の争いがある。しかしそうした内側の論理では新しい戦いは始まらない。琉球は新しい国として独立する覚悟が求められているとさえ見える。
話が錯綜するが、私の息子が東京中野区高円寺に部屋を借りることになったが、仕事を辞めての部屋探しは困難だった。信用のない人間には絶対に貸さない。連帯保証人を立ててもなかなか難しい(特に勤続2年の私ではなおさら)。このたびの経過を思い起こすと、雇用からいったん離れると再就職どころかまともなアルバイトさえ見つからない。一方、こき使いたい仕事は増えている。そうした企業はブラックが多い。そしてそこで搾り取られ、捨てられる。昨日は蔵前にあるカフェエクレシアのクラスがあったが、受講者の一人はサラリーマンで、彼はこのところ連日終電だそうである。息子の話をすると、やはり仕事を離れるのは恐ろしいと改めて思ったらしく、今の仕事にしがみつくほかないかな、と言っていた。明らかに収奪が行われているのに、「仕事があるだけまし」と思わされ、自分がすでに貧困であることさえ、気づけないまま年を重ねている人々。住む場所さえない人々もいる。カフェエクレシアは聖ヨハネ教会の倉庫を借りてやっているが、この教会は毎週炊き出しを行っているという。多いときは600人も来たという。今でも200~300人の人々が来るという。それほど路上生活者が多いということだろう。ミカの時代に劣らず貪欲な時代に私たちは生きている。しかしその日本さえ、より上部の権力によって支配されている。この力はTPPを通じて日本の産業構造を変えていくだろう。そして気づいた時には自分の受け継ぐべきものや次に伝えるものがないことに気づくだろう。
ミカの預言は過激だが、それは今の時代にも当てはまる言葉である。貪欲がとどまるところをしらないこの時代。それを乗り越えていくために、まずは身近のことをしっかり見ていきたい。そしてそのことに萎えるのでなく、もちろんあきらめるのでもなく、嘆き、怒り、そして叫ぶこと。それを聞いてきたのが聖書の神なのだから。私たちはそれを信じて未来を照らしていくことにしよう。