日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2016年11月6日
「父との約束」創世記49章29節~50章6節
 今年も召天者記念礼拝の時を迎えた。ここに並んでいる先達たちの写真を見るにつけ、私は毎年、彼ら、彼女らの生きていた時代を想像し、同時にまた、一人一人の人生についてあれこれと思いめぐらす。年相応で亡くなった方、若くして病気や不慮の事故で亡くなった方、まだ子供のうちに亡くなった方、様々であるが、その一つ一つに、誰にも代わることのできない人生があった。一切交換することのできない不思議な出来事として、それぞれの人生がある。だから人はそのかけがえのないことに非常な重みを感じ、かえって焦るのかもしれない。この人生はだれのものでもない、私のものだ、だからそれを十全に生き切ろう、全うしようとする。これは当然のことのように見える。誰にも代わることはできない、それぞれ全く孤独であり、この人生の先にはただ死が待つだけである。だから命の限り、楽しいこと、立派なこと、好きなこと、良いことをたくさんしよう、と思う。
 それでも、あらかじめ約束された終わり、死というものを乗り越えることができるのでもなければ、忘れることもできない。つまり、この限界によっていつも、私たちはある種のあきらめのようなものも同時に感じ続けている。意欲と同時に、不安や倦怠を抱えて生きているのが、この時代の人間であるといえるだろう。
 しかし、このような孤独や不安は果たして普遍的なものだろうか。あるいは、人生とは本当に交換不可能で、まったく孤立した人間が、ただそれぞれの命の終わりに向かって閉じていくものなのだろうか。今日はこの問に光を当てたいと思う。
 今日お読みいただいた聖書は創世記のほとんど最後の部分で、イスラエルの直接の先祖であるヤコブ(彼がイスラエルと改名された)の臨終の場面である。ヤコブの人生は波乱に富んでいた。彼は生まれたとき、双子の兄のかかとをつかんで生まれたとされるが、これはその後の人生を暗示させる生まれ方であった。やがて兄エサウの長子としての特権をかすめ取り、エサウから憎まれ逃亡するが、逃亡先で伯父ラバンと出会い、その娘ラケルを愛するが、7年働かされる。やっと結婚できると思いきや、伯父はだまして姉のレアをまず嫁にさせ、その後7年働かされてやっとラケルを手に入れるという何ともやや滑稽な顛末である。やがて伯父のラバンのもとから逃亡し、途中、ヤボクの渡しで神と出会って相撲をして勝ったという。このときその神から与えられたのが「イスラエル」(神と格闘する)という名である。
 その後兄エサウと何とか再会するが、結局兄とは袂を分かち、それぞれ独立した民となった。兄エサウがエドム人の祖先である。
 さて、ヤコブには二人の妻と二人の側女がおり、計12人の息子の父となった。これがイスラエルの12部族となったという。ヤコブは年老いてヨセフとベニヤミンをもうけるが、このヨセフが兄たちから疎まれ、亡き者にされそうになるが、結局エジプトに売られる。しかし、やがてエジプトの大臣になる。他方、兄たち、すなわちヤコブの一族は飢饉で没落し、エジプトに難を逃れる。すると、驚くことに自分たちが見捨てたヨセフがエジプトで出世していた。彼らは再会を果たし、和解する。そして年老いたヤコブもエジプトに下り、ヨセフと再会する。臨終の迫るヤコブは息子たちを祝福する。
 今日の場面はそのあとである。
ヤコブは自分の死んだ後のことについて指示している。彼は息子たちに命じる。「まもなく私は先祖の列に加えられる。わたしをヘト人エフロンの畑にある洞穴に、先祖たちと共に葬ってほしい。……」そして「ヤコブは、息子たちに命じ終えると、寝床の上に足をそろえ、息を引き取り、先祖の列に加えられた」。ヨセフはエジプトの王家や貴族の慣習に則り、ヤコブをミイラとするように処置し、その後しばらくしてエジプトの王にカナンの地、つまりヤコブの遺言の地に葬りに行く許可を求め、それが認められたのである。今日はそこまでだが、この後に埋葬までの経過が細かく記されている。
さて、ヤコブは波乱の生涯の最後に、自分を先祖の墓に納めるよう命じている。それは残された息子たちへの遺言であるが、これはいわば約束である。この命令を果たすことが息子たちに求められている。この命令は、息子たちの人生を一部、拘束する。もちろん息子たちにとって当たり前なことかもしれない。父との約束を守ること、これは古代のイスラエルの家族にとって当然なのだろう。
父との約束を果たすという、一見素朴に見える事柄そのものに、根源的なものを私は感じ取る。つまり、一人の人生とは一人では完結しないということ、そして一人の人生は他者との約束によってつながれているということ、さらにその約束ゆえに拘束され、責任を負うということである。このことは、最初に提示した問、すなわち人生とは交換不可能で、孤立した人生が終わり向かって閉じていくという見方を否定するものであるように思う。
古代の共同体は家族が基本にあるように見えるが、もっと大きな部族が主体であった。その一部として家族があった。そして、良かれ悪しかれ、人間はそのシステムの一機能を担わされた。しかし、そうした制度的な関係を超えてなお、古代の人間も現代の人間も、人間である限りにおいて、約束に拘束されている。その最も基底的なもの、根っこを支えているのが、亡き者を弔うこと、葬ることである。もちろん、このヤコブのように、葬りの形がしっかりと言葉によって命じられ、確かな約束として存在する場合だけでなく、なんの言葉もなく、その意思を確認することもできずに、世を去ることのほうが多いだろう。
しかし、その言葉の有無以前に、私たちは先立つ者の人生自体に拘束されているといえるのではないか。言い換えれば、先立つ者の人生は閉じているのではなく、未来に向かって開いている、あるいは残されたものに向かって開かれているということである。ということは、それぞれの人生は死によって閉じるように見えるが、そうではなく、新たに始まるともいえる。彼らは世にはいないが、ほかの世にいて私たちを見ている、という古来の人間の思想は、人間にとって、あるいは人間である限りにおいて、必須なものであると思われるのだ。
天国で魂は神のもとにあるとするのがキリスト教の死生観であるが、このような考え方を笑う人もいる。魂の永遠、天国、そんなものはないと。それは言ってみれば当たり前である。そのようなものはこの世にはない。だから人間はこの世とは別の世界を構想したのである。むしろ、そのことができたとき、人間は人間となったと言いうる。したがって、このようなことを笑う者たちは、すでに人間であることの本質的な意味を忘れているのである。
私たちの多くは、今、自分の人生を、私らしく生きようとか、自分を実現しようとか、限りある人生を精一杯生きようとか言う。それは一見まっとうに見える。しかし、それはすべて閉ざされた言説に過ぎない。私たちはそれぞれ、根本的な約束、命令のもとにある。あるいはそれに知らずに拘束されている。それを逃れることは原理的にできない。なぜなら、自分の命そのものは「父」のつまり親の、さかのぼれば神の働きかけの結果なのだから、自分を自分で全うすることは、その出発点を想起するだけで、不可能であるとわかる。他方、最後の地点を想起しても同様である。人は自分の体を自分で処理することはできない。それは必ず人の手を借りることになる。しかもそれは意図しようとしまいとそうなる。人間は一人ひとり自立すべきだが、孤立しては生きることができない。つまり有形無形の共同体を前提するのである。
私たちは本来、キリスト教的な表現でいえば、「父との約束」のもとに生きているということができると思う。ヤコブの遺言が息子たちを拘束し、それによってかえって自分たちの連帯感が強められて行った。そしてひとまずイスラエル12部族連合がのちにできたとされ、現在まで続くイスラエル民族、あるいは宗教共同体の基礎となったとされるが、これは約束を守り続けるというイスラエルの子孫たちの努力による。同様に、キリスト教もイスラエルの伝統を受け継ぎつつ、あらたな約束としてのイエスの教えとその生涯、そして十字架をずっと大切にしてきた。そのことによって、教会に連なる死者はすべからく、キリストとともに神のもとにあると信じているのである。
私たちはこうした想像力をあざ笑うかのような、この世の富と権力の肥大に目を奪われ、その力を限りなく身にまとうか、さもなくばそのおこぼれにあずかれるようにと、汲々としている。それは自己実現、人生をどこまで豊かにできるか、どこまで富ませられるか、という事実上ニヒリズムを前提した、つまり死によって閉ざされることを意識した競争となっている。もちろんそうでない人もたくさんいるに違いない。しかし、本来の「約束」のもとに生きているという謙虚な、かつ未来や過去とのつながりを想像できる人々が少なくなった気がする。
その中にあって、私たちはこうして年に一度、死者との交流の時を持つ。これは単に記念するだけではなく、約束を確認することである。約束とは死者からの命令である。それは「私を弔うように」ということ、「私を忘れないで」ということ、そして「あなたの人生を未来につないでくれ」、ということの三つである。この三つ目はもちろん、単に家族的、血族的なつながりのことではなく、キリスト教共同体つまり教会に連なるという意味でもある。さらに、それは「人間として」未来の人間に責任を果たす、つまり例えば子供たちに原発や核兵器のような負の遺産を放置しないということである。私たちはこれらの命令を意識できなくなったとき、再び「人間」から動物に戻るのだろう。
この召天者記念礼拝を覚え、私たちは死者からの課題をそれぞれ想起するに違いない。それはヤコブがヨセフはじめ12人の息子に託した自分の葬りの命令から敷衍された「父との約束」、すなわちこの世に生きている者たちが果たす責任であるといってよい。それを今日新たに自覚して明日からの日々を心新たに進みたいと願うものである。