砧教会説教2016年11月13日
「イエス・キリストの信によってもたらされた神の救いのわざ」
ローマの信徒への手紙3章19~26節
「ローマの信徒への手紙」はフランシスコ会訳では「ローマの人々への手紙」となっている。しかし、ローマの人々という一般的な対象に向けているわけではない。かといって、「ローマの信徒」というのを、私たちが普通想像するキリスト教徒とみるのも少し違う。パウロが相手にしているのは、元来ユダヤ教徒であったが、キリスト教に改宗した人々を念頭に置いていると思われる。つまり、ユダヤ人キリスト者と一般に呼ばれる人々である。3章前半までに、パウロは律法の限界について論じていた。ユダヤ人は律法を与えられた民として優位にあるのであり、つまりは選ばれた民としてのプライドを持っている。しかし、律法は自と他を分け、優劣をつけるために用いられて行く。律法はその外形的・形式的な遵守を要求し、そのことによって人々は神ヤハウェによって「正しい者」と認められ、最後の裁きにおいて無罪とされ、神の国に入れるという。ファリサイ派であったパウロはおそらく自己批判や反省を含めて、ローマのユダヤ人キリスト者に対して、語り掛けているのだろう。律法は確かに大切である。しかし、外形的・形式的に守ることとあなたの救いが直接関係あるかどうか、いやそれ以前に律法を守り切ることなどできるのかどうか、そして守ることで救いに至るのかどうかさえわからない。
さて、ここで律法主義といっても、私たちの感覚では理解することがやや難しい。彼らは神ヤハウェに対する信を前提に、その律法を絶対的なものとみなし、それを守り抜くことに、そして共同体にそれを守らせることに命を懸けていたほどのものである。彼ら、特にファリサイ派や律法学者はその責任を負っていたと言いうる。パウロはこうした感覚、あるいは思想を十分に理解したうえで、批判を展開した。律法を守ることは結局何になるのか、そもそも完全な遵守など可能なのか、と。
本日の箇所の初めに「わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています」とある。つまり原則としてユダヤ教徒ということである。そして「すべての人々の口が塞がれて、全世界が神に服するようになるためです」と言う。しかし、これは神の支配の貫徹、神の勝利、人間の敗北なのであって、これ自体は良いことではないか。そして「人間は誰一人神に義とされない」「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」という。これは残念なことに見えるが、人間の敗北が神の勝利だとすれば、神にとってこれで良いということにもなる。しかし、これは完全なアイロニーである。このような論理について、すでに3章前半にも出ていたが、このような考え方は結局、神の創造のわざ、人間の創造の意味自体を失わせることになる。神と人間の関係は一方が他方の勝利で終わるゲームではない。というのも、神が人間を造った意味や目的認めず、責任を負わないとしたら、神の行為自体が無意味化することになってしまうのだから。したがって、律法の遵守の限界を知ったことで、すべて終わりになるというのではなく、かえってそこを出発点とすべきなのであろう。
パウロは続ける。21節で彼は「ところが今や律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証され、神の義が示されました」。「神の義」という概念をつい漠然と使ってしまうが、この意味を正確にとらえなくてはならない。「神の義が示される」とは「義理を立てる、義理を果たす」という日本語表現にみられる意味と同じと考えてよい。つまり、ある人とひとたび関係を結んだら、とりわけ約束を交わしたら、それは決して反故にされてはならず、かえってそのかかわりの中で何としても相手に責任を負う、あるいは果たすべきであるとする考え方である。イスラエルではこれを「契約を守る」というが、私たちなら「義理を立てる」と言うだろう。神ヤハウェとイスラエルの関係とはこのような感覚でとらえるべきであり、当然パウロもその中にいる。これはより一般的に言えば、親子の関係にみられるような、切っても切れぬ、つまり表面的には関わりを切ったように見えて、その実、深いところでつながっているという感覚とも近いだろう。
ところで、この神の義の実現、神がイスラエル(人間)に対する新たな働きかけが、つまり律法を守れないからだめだ、罪人だという決めつけすなわち人間の敗北や無意味化から救うことが、どうして可能となったのか、なぜ神ヤハウェは思い直し、顧みたのだろうか。
その問いへの答えのカギとなるのが23節の決定的な言葉である。すなわち「イエス・キリストを信じることにより、信じるものすべてに与えられる神の義です」。この箇所の初めの部分を新共同訳は「イエス・キリストを信じること」とし、岩波訳もフランシスコ会訳は「イエス・キリストへの信仰」と訳すが、ほぼ意味は同じである。そして多くの英訳・独訳もそうしている。しかし、テキストは「イエス・キリストの信仰」である。この箇所については当然議論があるが、この「信仰」をヘブライ語に置き換えれば、これは「エムーナー」、つまり「アーマン」の名詞化であり、忠実、誠実の意味である。つまり、向けるべき方向にしっかり向かうということである。とすると「イエス・キリストの信」とはイエス自身の神への誠実・忠実な生き方ということになる。イエスの信とは、イエスが人間の思惑ではなく神ヤハウェの意思に従って歩み、十字架にまで至ったという出来事全体を指している。つまり、「信」「誠実」とは、単に信じているという心の在り方ではなく、言葉と行動全体を意味するのである。
パウロは、十字架に至るまで誠実に歩んだというイエスのその誠実さに免じて、神ヤハウェが新たに神自身の責任を果たすこと、つまり人間を罪人として切り捨てるのではなく、人間を救う、つまりは罪を赦すこと、イスラエル(人間)を再び立ち上がらせることにしたのである、と考えている。これが「神の義が与えられた」ということの意味である。
24節では別な表現で解説している。すなわち「ただキリスト・イエスによる贖いのわざを通して、神の恵みにより、無償で義とされるのです」と。ここでキリスト・イエスの贖いのわざとされているのは、当然ヤハウェに誠実なイエスの生涯のことである。それを犠牲宗教に基づく表現、つまり捧げものとして理解させている。つまり、イエスがいわば完全なる誠実を身をもって示したこと、つまり十字架で死に至るほどまで忠実であったということによって、神は再び人間を顧みることにした、ないしは神の恵みとして救うことにしたのである。これが順序である。
もちろん、ヤハウェを信じるという大前提があることに注意しなくてはならない。22節の「信じる者」とはキリストを信じる者ではない。前提としての神ヤハウェを信じる者を指している。この信なくしては、キリストの信(誠実)の効力には何の意味もなくなる。したがって、パウロはやがて律法の前に「信仰」があるとはっきり言うようになる(まだ先だが)。
しかしこのあと、さらに驚くべき解説をする。25節で「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」と語る。これはユダヤ教、キリスト教における神の支配とは何かを考えるうえで重要である。要するに、イエスは人間の代表として神に向かって最後まで誠実であったことによって神の赦しを導いたと前に書いてあるが、今度は、パウロはイエスの誠実な生涯の前提として、実は神自身がイエスを人間のために立てたという解釈を提示するのである。これはなぜか?答えは簡単である。イエスが人間の代表では、結局人間の努力によって、神の義、すなわち赦しが与えられたことになってしまうからだ。これでは人間の勝利になってしまうではないか。すると結局人間は再び傲慢になるに違いない。だからこそ、パウロは解釈を転換したのである。キリストも実は神が人間のために立てたのである、と。こうしてキリストは人であり神であるという、後のキリスト論の基礎ができたように見えるのである。
こうしてキリスト自身が「神の恵み」として理想化され、やがてそれを「信じる」ことが肝要とされるのである。
しかしすでに述べた通り、順序がある。イエスの誠実さが神の思い直しをもたらした、あるいは神に約束と責任を思い起こさせたのである。そしてそのイエスの誠実を自分の誠実に重ねることができたとき、人はキリスト者になるのだろう。もちろん、これはたいへんなことである。だからイエス・キリストを「信じる」という、やや緩やかな解釈に変更したのだ。もちろん私はそれでも十分であるようにも思う。イエスを信じることはもちろん神を信じることにつながり、かつ、そのイエスの教えに従うだけで私たちは十分である。もちろんまれにイエスの誠実さを自分に重ねることもあろう。つまりイエスの十字架を担うこと、この世と対決すること、この世の苦難を担うこともありうる。もちろんその時、わたしたちはその「イエスに誠実な人々」を見捨てることがあってはならない。わたしたちは、あのイエスの出来事を最後の恵みとしているのだから、イエスの十字架を繰り返させてはならないのである。なぜなら、あの時の出来事、彼の生涯こそがすでに弟子たちや周囲の人々を救っていたのだから。そして私たちを含め後の時代の者はあの出来事を通じて彼の痛みを想起することによって、自分の様々な罪や限界を明るみに出すとともに、その罪や限界をイエスの十字架に重ねることを通して、再び回復する。つまりは解き放たれる、自由になるのである。これが「イエス・キリストの信」によって自由になるということだ。だからパウロのひどく抽象的な義認論は、ついにイエスの生涯、つまりそれ自体が福音であり恵みであるその生涯に戻る以外、理解することはできない。
しかし「理解すること」に執着する必要は全くない。やはりあのイエスの誠実、イエスの信を自分に少しでも重ねること、それが根本であり、自由となる近道であることは言うまでもない。