日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2016年11月20日
「神の唯一性と、律法に先立つ信仰」ローマの信徒への手紙3章27節~4章12節
 パウロは信仰を強調するが、彼の言う信仰とは「神に対するイエスの誠実さ」のことであった。イエスキリストの信仰、つまりイエス・キリストの誠実が人間に対する神の赦し(あるいは義)を引き出したのである。今日の箇所に先立つ26節では「ご自分(神)が正しい方であることを明らかにして、イエスを信じる者を義となさるためです」とあるが、テキストは「ディカイウーンタ トン エク ピステオース イエスー」であり、「イエスの信から出発する者を正しいとする」つまりイエスの信に連なる者を正しい者と認めようということである。簡単に言えばイエスの誠実さに倣う者が義とされるということ。
 この後に今日の箇所が続くが、いきなり「人の誇りはどこにあるのか」と自問し、答える。「それは取り除かれた」のだと。誇りが取り除かれるとはどういうことだろうか。すでにユダヤ人ではなく、人間全体に拡大している。人間の誇りとは何か。それが取り除かれたら、人間の自由や主体性はどうなるのか。かれは「誇り」ということに何を込めたのだろうか。
 簡単に言えば、誇りとは人間の「高ぶり」、神に対する「自由」の主張、あるいは王や皇帝のように神のようになること、この世の富を一身に集めること、と言ってよいだろう。ユダヤ教はそうした人間となることを根本的に否定してきた。それは預言者的批判の中に最も明確に表れていた。そのような人間的な誇り高ぶり、越権、人間の栄光化によって実は多くの別の人間たちが苦しめられてきた(象徴的に言えばエジプトの奴隷として)。そして奴隷であることにさえ気が付かず、甘んじてきた。そしてそれが古代文明の栄光をもたらしたが、モーセをその起源とするイスラエルの預言者たちはそのような世界を根源的に批判したのである。
 では、そうした批判にこたえるためにイスラエルの人々が行ったことは何か。それがモーセへの啓示に基づいた律法を守ることによってそうした批判に答えようとしたのである。律法を守ることは人間的なおごり高ぶりを抑え込むことである。おごり高ぶりを「罪」とみなすことで、それを細かく規定し、それらの規則をおきてに変えて自ら守り抜く、人に守らせることによってそうした「誇り」つまりおごり高ぶりを取り除こうとしたのである。
 私たちが普通に考える「誇り」とは違うことに注意が必要である。普段何気なく使っているのは、人から馬鹿にされたと感じるときに浮かび上がる怒り、その反対に人よりも高い位置にいることを喜ぶ気持ちのことであるが、そうした相対的な感情のことではなく、もっと強力で恐ろしいものである。それは人を殺してもなお、自然を破壊してもなお、より巨大になろうとする人間の本性のようなものである。もちろん普段私たちが使う「誇り」もその一部かもしれないが。
 このような人間の本性としての「誇り」を打ち砕くことができるのだろうか。「打ち砕かれ悔いる心」(詩編51編19節)を神は嘉するといわれるが、それを実際に可能にするのはどのような力なのか。それが「律法を遵守すること」すなわち、「行い」である。その行い、律法を守り抜くことで、人間の誇りを抑え込むこと、これがユダヤ教の根本的態度であり、それをパウロは「行いの法則」とここでは呼んでいる。この「行いの法則」に対置されるのが「信仰の法則」であるという。そして「わたしたちが義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」と続ける。
 ここからパウロはもう一段、階を上る。いきなり、「神はユダヤ人だけの神でしょうか」と問う。彼にとって神はもはやユダヤ人だけの神ではなく、異邦人の神でもある。なぜなら「実に、神は唯一だからです」。彼はこのように宣言する。神はユダヤ人キリスト者にとって当然念頭にあるのは固有名ヤハウェであるが、ここでいう「神」はギリシア語では普通名詞であって固有名詞ではない。もちろんパウロはすべてわかっている。そしてこのギリシア語で語られた「神」を超越的な唯一神としている。したがって、ユダヤ人にとってヤハウェであり、外の人には「神」であるとしても、それは実際には同じであるとする。
そのうえで彼は「神は割礼のあるものを信仰のゆえに義とし、割礼のない者をも信仰によって義としてくださるのです」と語り、ユダヤ人も異邦人も条件は「信仰」であることを宣言する。しかし、これは単に彼の主張に過ぎない。これを証明するのは32節以下だが、その前に彼は弁明する。すなわち「わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。けっしてそうではない。むしろ律法を確立するのです」と。これは意味がよくわからない。マタイの伝えるイエスは律法を完成するという。おそらくこれはユダヤ人キリスト者へのリップサービスだろう。自分も含め、ユダヤ人であることは律法という圧倒的な賜物をいただいてるという自負をそう簡単に捨てることもできないから。ただし、すでにパウロは律法と関係なく神の義が示されたと21節で言っているのである。パウロはおそらく次に語ることによって、「確立する」ことの意味を示そうとしたのだろう。要するに律法に信仰が先立つことを示すことによって。
 「肉による私たちの先祖アブラハムは何を得たというべきでしょうか」と問いはじめる。彼は創世記の記事のアブラハムを想起させる。アブラハムの生涯は父とともにカルデアのウルを旅立つことから始まったとみてよい。その旅はカナン地方を目指す旅であった。その途中彼は何度も神の啓示を受けている。一つ目はハラン滞在中に起こった。それはその地(父の家)を出てカナンに向かえというものであった。さらにカナンに入りシケムに来ると、そこで再び啓示があった。今度はカナン地方の土地を与えるという一方的な約束であった。この後アブラハムは祭壇を築いたという。ただ、これらの場面ではこれ以上神の側の反応はなかった。15章で再び啓示を受ける。今度は老齢となったアブラムとサライの夫婦に子供が生まれること、そして子孫が天の星のように増えるであろうという祝福の約束である。これを受けたアブラハムは「主を信じた」とされている。その「信」に対して神は「それを彼の義と認めた」という。つまりアブラハムは神の言葉に信を置くことによって正しい者とみなされた、あるいは義とされたということである。
 要するに、律法がモーセに与えられる前に、あるいはアブラハムに割礼の掟の遵守を求められる前に、すでに神はアブラハムを、その信仰によって正しい者と認めていたのである。パウロはこうして、律法以前の、神への信こそ、義とされる条件であることを、旧約聖書を通して論証した。信仰が律法に先立つこと、このことによって、ユダヤ教律法主義を、旧約聖書自体を用いてひっくりかえしたのである。これは屁理屈にも見えるが、順序だっている。律法が存在する前から「信仰」の有効性は明らかなのである。
パウロはさらに詩編32編を引用しながら、行いによらずに赦されたに言及している。さらに加えて割礼の掟が示される前にすでにアブラハムの信仰が義とされたのだから、事実上信仰と割礼は無関係であることを喝破する。(4章10節)
 信仰の始まりとしてのアブラハム。これがすべてなら、いったいキリストの信がなぜ必要なのか。単にアブラハムを模範とすればよいだけではないか。それはおそらく「信」の第一次性が忘れられていたことによるのではないだろうか。律法主義が前景化し、律法が救いの根拠となる、義の根拠となる。これは古代オリエントの法的思考からみても十分納得がいく。法は契約のかなめである。イスラエルは神と契約することによって自分が生きていけるのだと信じた。だから片時も神を忘れることはできない。そのためにモーセを通して与えられた律法を遵守し続けるのである。そしてそれは極めて重要なことだった。パウロは十分それを承知しているはずだ。だから、前に戻るが、律法と信仰は無関係ではなく、密接に関係する。それを彼は信仰が律法を確立するといったのだろう。この場合確立するということの意味は、律法の基礎となるのが信仰だということだろう。
 ここまででわかったような気になるのだが、では、キリストの信はどうなったのか。おそらくこの問いに答えるためには、信仰と律法の弁証法、言い換えればイスラエルの歴史を振り返る必要があるのだろう。もちろんパウロはそれを行うのだが、今日のところではそこまでいかない。一言だけ言えば、律法は本来、神の恵み、つまりエジプトからの導き出しによるイスラエルの解放を忘れないための、そして解放されたイスラエルの共同体を維持し守り続けるためのものであるのだから、律法なくしては結局イスラエルのもととなった信さえ、消えてしまうのだ。
 ともあれ、パウロは信仰の一次性に強くこだわる。アブラハムの信とイエス・キリストの信はどう違うのか、それとも同じなのか。もちろん同じはずはない。ひとことだけ先取りしていえば、イエスの信はアブラハム以前、すなわち、イスラエル以前を射程に入れているのである。もちろんパウロの見方だが、要するに、イエスの信は人類全体とかかわるのである。そのような射程であるからこそ、ユダヤ人キリスト者に向けた手紙でありながらも、遠く時と場所を隔ててこれを読む私たちにも、どこか通じるところがあるのだろう。つまり、イスラエル以前の人間の信と罪の問題は、ユダヤ教とは関係のない私たちにも響いてくる問題意識なのだと思うのである。