砧教会説教2016年11月27日
「私たちを義とするためにイエスを復活させた神」
ローマの信徒への手紙4章13~25節
信仰によって義とされる、つまり神からみて正しい、無罪である、赦されているということは、パウロの論理では、律法が与えられるよりも前に、アブラハムが神の告げた約束を「信じた」ことから始まったという。これは単にその言葉の内容を信じたというだけではない。アブラハムは約束を告げた神に従うということも含んでいる。そのことは創世記22章のイサクの奉献の挿話からはっきりする。要するに「信仰」と呼んでいるものは、神との関係に入ると同時にその言葉に従うということである。老夫婦に子どもが生まれるであろうというおよそあり得ないことをアブラハムが「信じた」ゆえに神は彼を私の側に立つ者として正しい者としたのだが、そこに律法は関与しない。言い換えれば条件がないのである。しかし、「律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになる」とは何を言いたいのだろうか。特に約束が廃止されるということの意味である。おそらくこういうことだ。律法を守ることで義となるのだから、律法自体が基準となり、アブラハムへの約束は不要であるということ。あるいはアブラハムを無視して良いということ。
これに対して「実に律法は怒りを招くものであり、律法のないとことには違反もありません」という屁理屈を語った後「信仰によってこそ世界を受け継ぐものとなるのです」と語る。つまりここで言いたいのは、モーセの啓示、シナイ契約がすべてであり、そこから派生していく祭司とレビ人による犠牲と祭儀、諸規則(家族法や社会法)の遵守によってイスラエルの救いは確実であるというユダヤ教の基本思想を旧約聖書の順序に従って覆し、アブラハムの信を宣揚することで、世界を受け継ぐのはユダヤ教主流派の律法主義者たちではなく、自分たちのような「信仰」から出発する者であるとする。はっきりとは言っていないが、これは象徴的にいえばモーセとの対決であるといえるだろう。
パウロはアブラハムを持ち上げるが、これはアブラハムが旧約の伝承ではイシマエルやエドムの先祖であり、必ずしもイスラエルだけの先祖ではないことに注目するからである。イスラエルはヤコブであり、またその子らであって、アブラハムは太祖ではあるが、直接性はやや薄い。そのアブラハムから「信仰」が始まったのである。したがってより広い世界を受け継ぐのは、イスラエル、それも遥か後のモーセに率いられた民ではなく、はるかに先立つアブラハムなのである。これは旧約の読み方としては間違っていない。
それゆえ、「アブラハムすべての子孫、つまり単に律法に頼る者〔ユダヤ人〕だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです」というのである。
さて、神を信じること、誠実であること、従うこと、これが律法に先立つことはわかったが、そもそも「神」に従うといっても、神自体が何なのかはっきりしない。もちろんパウロが語り掛けている相手は、それはわかっているが、私たち読者は神といってもはっきりしない。もちろんすでにキリスト教になじんできた人々はわかるとしても、そうでない人にはわからない。日本人には特にそうである。幸いなことに、17節以下に明快に記されている。「死者に命を与え、存在していないものを呼び起こして存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前で私たちの父となったのです」と。もちろん創世記にはそんな説明はない。ただ、神の言葉があるだけだ。パウロははるかに隔たったヘレニズム世界の中で、アブラハムの神を抽象的に説明する。つまり「存在していないものを存在させる」者であると。アブラハムが信じたのは、もちろん約束の内容だが、その内容とは「存在していないものを存在させる」ということであり、彼はそのような力ある者を信じたのである。ここには旧約以来の創造信仰が明瞭である。創造とは「存在していないものを存在させる」ことである。世界がある、人々がいる、星が天にある、動物や植物が生きている、これらすべてを存在させている者こそ神である。だからこそ、その者は地上や天上の者ではない。そのような超越的な「方(かた)」を信じるということは、言い換えると、私たちが及びもしないこと、想像しえないことも、引き起こすことを信じるということ。それはさらに言えば奇跡を信じることといってもよい。
バザーの終わった晩、私はパソコンで映画を見た。ルルドの泉で有名な聖ベルナデットの生涯を描いた古い作品で、第16回アカデミー賞(主演女優賞、作品賞)を受賞した。同じ年「カサブランカ」もノミネートされていたがそれを凌いだという。知っている方も多いと思うが、これはひとりの少女に起こった幻を通して病気治しの泉が湧いて、そこが聖なる場所となるも、彼女自身はこの世では幸福がないことも同時に悟り、やがてその通り夭折したのである。科学も精神医学も彼女を当然認めない、カトリック教会も認めない。啓示から始まり、事が生じ、やがて人々の信仰が始まる過程において、初めはほとんどの人が彼女を押しつぶそうとしたのである。しかし、わずかな人々が彼女に味方し、やがて泉がわくと今度は聖人のように扱われていく。しかし、彼女は映画では全く純真なままであり、しかも教会からのいかなる圧力にも屈せず、自分の見たものを裏切ることがない。もちろん、これは病気治しのことが問題なのではない、治る治らないは二の次であり、本質は病もその治癒も、そして生きているという全く不可思議な事実も、彼女が見たであろう「レイディ」(きっと聖母マリアなのだろう)要するに「神」の業であること、その力に基づくということに気がついたということであり、そのことに気がついたとき自分の意志や努力を超えた「信仰」が呼び起こされたのである。したがって、それ(信仰)は自分に奇跡を期待するというようなことではない。あらゆることが奇跡であると感じ取れる魂に達するということだ。
さて、「ローマの信徒への手紙」に戻ろう。アブラハムは信仰、すなわち神の言葉に誠実であろう、あるいはこれに賭けてみようと決意した。彼は子どもを授かる望みを抱き、実際その通りになった。アブラハムについてパウロは自分なりに想像しながら書いているが、要するにアブラハムは神を疑うことをしなかったという。それでこそ神が義としたのであろう。
パウロはここで飛躍する。「しかし「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、私たちのためにも記されているのです」(23―24節)と語り、さらに「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、私たちも義と認められます」と続ける。飛躍があると言ったのは、アブラハムにおいては一方的な未来の約束を信じたということであるのに対し、パウロは復活させたという完了した出来事を信じると言っている点である。将来の子どもの誕生の預言を信じて、期待するのに対し、復活したという出来事自体を信じるというのは大きな違いである。ところで、パウロは直弟子ではない。彼はそれこそベルナデットと同じく、幻においてイエスの声に接しただけである。それゆえ復活については弟子の証言を「信じる」他はない。しかし、注意して読むと、彼が信じたのは「イエスを復活させた神」である。要するに「神」すなわち「存在していないものを存在させる」力の源を信じたと言っている。イエスを信じたのではなく、やはり「神」を信じたというのである。
パウロの信仰は基本的にはユダヤ教の伝統に中にある。創造信仰に基づく、万物を存在させる力としての神を信じるのである。その神の言葉に誠実であろうとする。ただし、彼は単にアブラハムを反復すればよいとは考えていない。パウロはイエスの出来事がわたしたちの罪の犠牲であることをまず書く。それに続けて、イエスは「わたしたちが義とされるために復活させられた」と書く。これは何を意味するのか。法的に考えれば、犠牲として一度十字架にかかって死んだがゆえに民の罪は彼が担った事にされる(代理贖罪)。レビ記16章のスケープゴートの宗教的論理と同じである。転移された罪が死とともに滅ぼされたということか。罪を人格化し、だれかに負わせるということか。それゆえに身代わりとなった者にかわって、その教えを受けていた者が生き延びる。地上の権力はイエスに従った者たちを「赦す」あるいは「無罪」とするだろう。だから弟子もイエスの民衆もこの世的には救われた(難を逃れた)。
しかし、くりかえすが、パウロは、「わたしたちが義とされるために」イエスが身代わりとなって死んだとは、ここでは言わない。「わたしたちが義とされるために」神がイエスを「復活させた」というのである。義とされるために、正しい者とされるために、復活させられたとはどういうことか。それはおそらく私たち(あるいは弟子たち、民衆たち)は犠牲となってしまったイエスの重荷に耐ええない。だから、神はイエスを復活させることによって、弟子や民を義とした、つまり罪なき者としたのである。もうくよくよしなくていいと。復活とはここでのパウロにおいては、罪の意識のうちにある弟子たちをもう一度立ち上がらせようとする、神からの恩恵である。
この構図を彼はユダヤ人だけでなく異邦人も含めたすべての人々に効力があることとして拡大した。すなわち、「わたしたちが義とされるために」としたのである。もちろんこの「わたしたち」が誰であるかは明確でない。パウロを含めたユダヤ人キリスト者のことなのかもしれない。ひとまずはそうだろう。しかしこれは人間の最終的で最も無残な行動である、無垢な人間を十字架につけてしまったという大きな罪の故に苦しむ人間たちをその苦しみゆえに、つまりその苦しみこそが信仰のあかしであるがゆえに、神はイエスを復活させることで、彼らを癒した、あるいは義としたのである。だからあらゆる罪は二重の意味で乗り越えら得る。つまり一つには十字架上の死による罪のリアル化と担った人の死による贖いということ、二つ目には、十字架によってのがれた人々の負い目(これも罪だが)を、イエスを復活させることによって赦し(癒し)、再び起きあがらせたということにおいて。
もちろんパウロはこんな説明をしているわけではない。ただ、人間は罪の二重性において生きていることを知っていると思う。悪いと思ってあるいはそれも分からず起こしてしまい、それを誰かに負わせてしまう罪、しかしそれに耐えきれず今度は自分自身を責めさいなむ罪、これらを乗り越えるのは、希望の神ともう一度再出発させる神、言い換えれば創造と再創造の神、誕生と復活の神への信仰である。
おりしも、今日はアドベントの1週目。誕生の方を思い起こす、キリスト教の新年の開始である。神の創造の深みに、改めて思いを寄せていただけるなら幸いである。