砧教会説教2016年12月4日
「待つことの強さを」
詩編130編
今日はアドベントの2週目です。ローマの信徒への手紙をいったん離れて、詩編を取り上げます。
この詩編を基に、本日最初にうたった讃美歌の詩と曲をルターは作ったとされます。宗教改革の発端となったルターは、アウグスティヌス修道会の厳格な規則の中で、自分の魂を磨けば磨くほど、自分の救いに対する疑いが深まり、ついにはこのような修行そのものに意味があるのか、という根本的な問いを問う地点まで至った。彼はこのような修道会のシステムを包括するカトリック教会の客観的な救済の仕組み、すなわちサクラメントそのものに救いの効果があるというアウグスティヌスに代表される考え方(事効説)を退ける他ないほど、「この私」の安心立命の確信を欲したのである。これは一説には近代的個人の萌芽、つまり、この世界にただ一人存在する「この私」の単独性の発見ともいわれる。もちろん、ルターはそうした単独性を単なる孤立とはみなしていない。それどころか、彼には自分と相対する神(キリスト)の存在を確信しているのである。ただし、自分がその神によって確かに救われるという確信に至らないというのである。この点で、孤立した近代人の在り方、すなわち、そもそも神そのものの存在を信じていない、あるいはその意味自体を忘却した状態とは全く違う。近代的個人は、人間内部で完結する、言い換えれば人間理性に基づく世界理解で満足しているが、ルターの意識はそういうモノローグ的なものではない。
だから、彼はこの詩編の最初の句に自らを重ねたのだろう。修道会の修行、カトリック教会の儀式、聖書研究を通じて、かえって深い淵、すなわち生と死の狭間のような淵に至ってしまった。それでも、この詩編の詩人は、そこから叫ぶ。「主よ、この声を聞き取ってください」と。このような叫びの背景は、もちろんルターのような宗教的な救いの確信を求める叫びに重ねてもよいが、本来は、イスラエルの民の救いを求める叫びであった。ただ、この詩それ自体が、いったい何からの救いを求めているのか判然としない。3節には「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐え得ましょう」とあり、罪責感情が強烈である。だから簡単にいえばその罪責からの救いである。しかし、この場合そもそも「罪責」自体が何であるのかがはっきりしない。
罪責の内容がわからないのではなく、意図的にそれを具体的に描こうとしないとも考えられる。つまりこの歌はその罪にその人なりの苦悩や恥や罪を重ねることを促しているのかもしれない。以前も述べたとおり、歌とは様々な思いを重ねるための装置なのである。
ただ、そうはいっても、イスラエルの民は人間の罪という問題を切りもなく深く考えているのも事実。創世記のアダムとエヴァの物語(禁断の木の実を食べて楽園から追放される)、カインとアベルの物語(嫉妬に狂うカインがアベルを殺害する)、ノアの洪水物語(人類全体の悪ゆえに神はいったん世界を洪水によって滅ぼす)によって、人間の悪や罪の問題を繰り返し取り上げている。さらに出エジプト記から民数記の中でも、民の弱さや傲慢を罪としてとらえ、そのことへの対処について繰り返し言及している。ヨシュア記から列王記においても、王権の横暴と堕落の罪を取り上げている。最終的に王国が滅んだことに関しても、イスラエル自身の罪の結果であるという理解が受容されていった(エゼキエル書)。おそらくこの詩編も、そうしたイスラエルの罪理解を基に、捕囚の時代かそれ以降の時代の自分たちの置かれた不自由な状況(バビロン捕囚の状況、あるいはペルシア支配)を背景に、自らの苦境を嘆き、その罪を意識し、さらにそこからの解放、つまり赦しを求めているのだろう。
ところで、この詩編ではそれほど主題化されていないが、詩編には嘆きが多い。詩編の基調は嘆きであるといってもよいかもしれない。なぜ、自分たちには、自分にはこんな悲しいことが起こるのか、なぜ私たちの国は敵に滅ぼされるのか、なぜ捕囚となってバビロンに移されたのかなど、個人の嘆き、集団の嘆きが詠われている。もちろん、すでに述べたとおり、その原因はイスラエルの側にある。つまり、彼ら自身の罪の結果として苦難が押し寄せたとする理解がなされる。にもかかわらず、実はそのような答えに満足してはいないとも見えるのである。だからこそ嘆きが繰り返されるのだろう。
私は長い間、なぜこんなに嘆いてばかりいるのだろう、あるいはなぜこんな歌ばかり集めているのだろうと不審な思いを持っていた。旧約聖書の、あるいは古代イスラエルの人々の歴史を知る前のことだ。私はこのような嘆きを歌い続ける前に、あるいは一種の世迷言をくだくだと語るよりも、自分が戦えばよい、戦ってだめならしようがない。その時にはあきらめるほかない。こんな風に単純に考えていた。もちろん、今でもそのように思わないわけではないが、旧約聖書とイスラエル民族の歴史を深く学ぶにつれ、この歌を残したイスラエルの人々は、人生における、あるいは民族全体における、様々な問題や課題を真剣に受け止めたのであり、その結果それらがこうした詩編に表現されているのだということに次第に気づいていった。
嘆きを歌うこと、これは一つには自分の悲しみや痛みをとどめておくことである。しかしそれだけではない。これら詩編の嘆きの歌を、ほかのさまざまな人々が詠うことによって、自分の嘆きや痛みをその歌を借りて表現することができるという利点があるのだ。人は自分の痛みや嘆きや悲しみを表現できなければ、やがてそのことのストレスによって心身を病むであろう。互いにその痛みや苦しみを共有できる「歌」を歌うとき、その嘆きや悲しみは少しずつ癒されていくだろう。
さて、もう一つの詩編も含めた旧約の思想として、今日の主題、「待つこと」があげられると思う。今日の詩編はそのことが実は中心である。5節以下では繰り返し「待ち望む」ことに言及している。「わたしは主に望みを置き、わたしの魂は望みを置き、み言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます」と。待ち望むというのは、わかりやすい言葉ではあるが、この前提にあることを考えてみると、以外に深い。待つということは誰かを、あるいは何事かを「待つ」のであるが、待つことができるためには、それ以前にその誰か、何事かにたいして深い信頼を持っていることが前提となる。強い信頼があるからこそ、待ち望むことができる。待望することができるのは信仰が前提であるといえるだろう。
イスラエルの民は自ら自分を救う、自分から立ち上がって、様々な困難に立ち向かう、といった自力救済、ときには八方破れ、といった行動に非常に懐疑的である。そのような自力救済、自分で何とかする、といったことは本質的に神の権威と権力を劣ったものとみることへと導くだろう。つまり出エジプトの神であり、創造の神であるヤハウェへの信仰から離れるということである。バビロン捕囚となるくらいなら戦争も辞さない。という人々もたくさんいたのであるが、例えばエレミヤはこの現実を耐え抜くことを呼び掛けた。この「耐え抜くこと」は言い換えれば神ヤハウェを信じつつ、未来を希望して待つということである。
待つことができるということは、強いということであるのがわかったのは本当に最近のことである。私自身、非常に短気だったし、今もそうであるが、聖書の思想を学び研究する中で、待つことの大切さを知ったのだ。待つというのは一見、何でもないことに見える。しかし、待ち続けることを想像すると、そんなことはダメで、自分からアプローチしたり、戦ったり、探し求めたりする、ことをしたくなるだろう。しかし、よく言われるように、山で道に迷ったら、いったんそこで待つこと、いやしばらく待つことが大切、そうしないと体力失い、さらに危険におちいっていくとされる。
実はキリスト教もこの姿勢を受容している。そして待つこと、すなわち謙虚になること、その果てに真の救いがやってくると固く信じている。みだりに策を弄すること、自分の力を頼りに自分で自分を守ろうとすること、そういうことを危ういことだとみる。むしろ本当の神の救いを「待つこと」言い換えれば、時が満ちて、自分にふさわしい何かに出会うこと、あるいは非常に困難で、絶望的な事態に陥っても、希望を失わないこと、それが待つということである。
ところで、残念がなら、現代社会は待つことのできない社会のように見える。すぐに結果を出すことが求められる。人間は多様なのに、一律の合理的行動が求められ、それに達しない人々は不要なものとされる。人間の作り出したシステムへの信頼が強く、それに合わせるのがすべての人間の義務であるかのように思われている。しかし待つことができないということは、自分の他には信頼すべきものがないということである。とすると、世界は非常に殺伐としたものになるだろう。いや、現になっている。他方で、待望するという謙虚なあり方も、一つ間違えると、待望したものとは違うものを待望していたものと取り違えることに陥る。イスラエルの民は待望するという謙虚さを持ち続け、かつ待望してきた者が現れたとき、それが本物であるかを見極めようともした。そのような周到なプロセスを経て、待望にかなうものを見出そうとしたのである。だから、ただ待っていればよいのではなく、「真に待望すべきもの」を待つということである。キリスト教はもちろんこのよう待望を受け継いでいる。ただし、やがてわかるとおり、其の待望が実現したと主張し始めた(神の国が実現しつつある)。同時に、待望しつづけるのでもある(神の国の完成は未来)。このような二重性をキリスト教は持っているが、待つという姿勢を基本的に持っているといえる。
おりしも、アドベント第二週。キリストの到来を待つ時節、そしてキリスト教の一年の始まりでもある。改めて「待つことの強さ」について思いめぐらしてほしいと願う。