砧教会説教2016年12月25日
「マリアの歌と天使の賛美」
ルカによる福音書1章46~55節、2章~14節
以前もお話ししましたが、マリアの賛歌はサムエル記上2章のハンナの祈りからインスピレーションを受けている。ハンナはサムエルの誕生した後、感謝の祈りをささげたのですが、祈っているというより、神の支配とは世の秩序の転換であるということを讃えている。同様に、マリアの賛歌も、最終的には主の支配とはこの世の秩序の転換であることを歌っている。
どちらの作品も、挿入された感があります。この祈りや賛歌によって、これから始まる出来事の方向付けをしている。これらは、文学的な技法でありましょう。詩文によって聞き手や読み手を新しい時代・世界へと誘うこと。サムエル記は明確にそのようなもくろみを持って書かれている。他方、ルカはマリアをクローズアップしている。なぜだろうか。
ルカは洗礼者ヨハネの誕生物語も加えている。しかもヨハネの母エリサベトとイエスの母マリアが親類であるとも言っている。真偽は定かでないが、ルカは女同士の絆を強調します。なにしろ、マリアはエリサベトを訪問しているのである。エリサベトはマリアの訪問に恐縮しつつ、「主のお母様」が来てくれたなどと将来を見越して言葉をかけている(1章43節)。明らかに創作である。あるいはファンタジーである。ルカはこのような「お話し」が大好きである。そして将来のイスラエルの解放を担う二人の男の母となる二人の女性の働きを非常に印象的に描いている。このような導入を書いたのはなぜであろうか。母の働きへの一般的な関心なのか、それともこれら二人の特別な事情の故なのか。おそらく後者でしょう。エリサベトは不妊の女とされ、マリアは聖霊によって身ごもったとされている。つまり誕生に関する奇跡が働くための器のように見える。二人に起こったことは、神の力の偉大さを示すための、あるいはこの世の秩序の転換を予想させるための奇蹟であるといえる。
さて、マリアの賛歌を読みたい。「私の魂(プシュケー)は主をあがめ、わたしの霊(プネウマ)は救い主である神を喜びたたえます」(2章47節)という対句で歌い始めます。そのあとに非常に問題のある訳にぶつかる。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」。「はしためにも」の「も」が不要である。これでは後半のとの整合性がなくなる。つまり、「も」があると他のひと、あるいは身分の低くない者にまず現れ、そのあとで「身分の低い」者に現れたという感じになる。つまり、おこぼれに預かった、預からせていただいたという、卑屈さ、謙遜さである。しかし、テキストは単に「主のはしため」の「低さ」に神が目を留めたということである。彼女の低さ、みじめさ「に」目を留めたのであり、「にも」ではない。つまり、マリアにおいて世の転換が始まったことを強調している。だから「いつの世の人もわたしを幸いな人と呼ぶでしょう。力ある方がわたしに偉大なことをなさいましたから」と高らかにうたうのである。こちらには「も」はなく、「わたしに」である。
要するに、身分の低い私にも、そうでない人と同じように恵みが与えられたというのではなく、身分の低い私に偉大な事が行われたのである。つまり、常識的にはあり得ないような喜ばしい出来事がこの奴隷のようなわたしに起こった、つまり、彼女から新しい救いがはじまったということだ。いや、世の転換が始まったのだ。だから「も」ではない。
ただし、マリアが身分の低い女性であったことははっきり書かれていない。彼女は天使のお告げを受けた後、自分で「主のはしため」と言っているだけだ(1章38節)。これは単に彼女の信仰告白にすぎない。彼女はガリラヤ地方のナザレの町の女で、ヨセフのいいなずけであった。不思議なのはヨセフがダビデ家に属するとされていることだ。これはメシアの系譜に連なることを証言するものであるが、これはルカの想像力に由来するだろう。ヨセフは単に大工であったというのが正解だろう。とすると、マリアもヨセフも庶民という感じだろうか。
ともあれ、マリアの賛歌の後半では、「(主は)思いあがる者を打倒し、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人をよい者で満たし、富める者を空腹で追い返されます」と歌われている。これはほとんどハンナの歌のモチーフである。要するに世界の転換、あるいは革命である。
ルカはこうして世の転換の期待をマリアの賛歌に乗せて描いたのである。最後に、このような革命がだれのためであるが語られている。すなわち「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに」と祈らせているように、イスラエルの解放であることがはっきりする。ルカの思いはイスラエルの現実の全面的な転換だが、観念的な転換ではなく、物資的転換、経済的転換であるように歌われている。
その後にはヨハネ誕生の話とヨハネの父ザカリアの預言が続く。ザカリアは、神がアブラハム契約を想起し、ヨハネが神の憐れみによる罪の赦しを知らせる者となることを預言した。
これと並行する形でイエスの誕生の話しを展開する。ヨセフがダビデ家の血筋である事に再度触れながら、皇帝から出された住民登録令のためにガリラヤのナザレから故郷のベツレヘムにもどったという。このあたりはダビデと結びつけるためのフィクションのようである。マリアは旅の途中で月が満ち、初めての子を産んだ。宿には泊る場所がないので飼い葉おけに寝かせたという。
さて、羊飼いが夜通し家畜の番をしていると、天使が現れたという。そして「今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と告げた。つまり、羊飼いのメシアとして現れたのだという(ただし「主メシア」は挿入だろう。クリストス・キュリオスがテキスト)。しかし丁寧にみると「民全体に与えられる大きな喜び」とあるので、このメシアはイスラエル全体のメシアである。そして「しるし」がこの赤ん坊であるという。すると「突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。いと高き所には栄光、神にあり、地には平和、みこころに適う人にあれ」(14節)。このようなファンタジーをなぜルカは置いたのだろうか。
ルカはこの書の冒頭で順序正しく書く旨宣言している。しかしその言葉とは裏腹に、ファンタジーで脚色されている。むしろルカ伝の良さはこのファンタジーであるとさえ思う。
ルカ自身は何かを見たのだろうか。いや、彼は想像したのである。あのしばらく前のイエスの出来事は、その始まりにおいて、決定的なことであった。イエスの終わり、十字架ではなく、その始まりこそが尊い。そう考えた。つまり、人間イエスの諸活動ではなく、イエス自身が神の介入、あるいは啓示である。そのことを伝えようとするのがルカの文学であろう。彼はユダヤの預言者伝にならい、メシアの到来を語る。時代を画する者は常に神と直結していた。そのことを前提に、乳飲み子イエスを圧倒的な権威の下におこうとする。もっとも小さなもの、弱い者の象徴であるとともに、いかなる人間も、その弱さからしか始まらないという根源的な事実とも重ねながら、身分の低いマリアから生まれ、飼い葉おけに寝かされたイエスをイスラエルのメシアと宣言する。これは奇想天外なこと、法外なことである。ルカはもちろん、イエスの生涯が終わった後に書いている。そして、イエスの教えと活動、弟子たちの働き、そして使徒パウロの活動さえ知っている。彼は原始キリスト教が曲折を経ながらも、地中海世界に広がっていく姿を見、その力をすでに知っていたのである。
その力の強さ、本物らしさを傍で見ながら、彼は新しい世界権力ができるのだ、と感じ取ったのだろう。その本物らしさを高めるために、彼は想像したのである。イエスの生涯は、その誕生から神に祝福されたものであったと。そして古代イスラエルの預言者伝とくにサムエル伝に重ね、イエスの誕生物語と幼年期の物語を描いたのである。しかし、イエスは預言者ではない。預言者はバプテスマのヨハネである。イエスはその預言者によって油注がれるメシアでなくてはならない。他方、このメシアは、昔の伝統では人間の王であるが、ルカの時代ではもはや人間ではなく、神とともにいる「子」である。つまりメシアとは神の代理とみなされていた。それゆえ、古代イスラエルの預言者とメシアの関係が逆転した。ヨハネはイエスに洗礼を授けたに過ぎず、イエスは預言者ヨハネによって油注がれた者(メシア)として権威づけられたというのではない(それどころか、マグダラのマリアによって香油注がれた?)。だからこそ、天使たちが、天の軍勢を連れて、つまりあらゆる星の光とともに、グロリアを讃えるのだ。星の光は歌である。真に暗い夜に、星だけが人の慰めとなる。星々の瞬き、きらめきと、惑星の輝き、これらの違いを古代の人々は明確に知っていた。これらの星星によって季節を知り、自分の場所を知り、やがて自分の運命を知ったのだ。しかし、真の支配者は星ではない。星を作りだしたヤハウェである。
天の軍勢とともに天使が賛美するという光景は宮廷や野外劇場で開かれた悲喜劇の合唱隊をイメージしたのかもしれない。人々の歌声、特に女性の高い声は人を至福へと誘う。そのような賛美がこの天使の預言を聞いた星星によって神にささげられたという。ルカはイスラエルの遠い先祖の姿として羊飼いを呼び起こし、つまりヤコブの一家を想起させ、その救いの始まりに据えた。そして賛美を歌う天使と天の軍勢とともに、新しいカイロス、時、季節の始まりを告げたのである。
このメシアの誕生の知らせを私たちは今年も寿ぐのです。改めましてクリスマスおめでとうございます。