砧教会説教2017年1月1日
「命の木と善悪の木」
創世記2章4節後半~9節
2017年の最初の主日礼拝。今日は創世記のよく知られた物語を通して、人間の本質について考えてみたい。
旧約聖書を読み始めて初めに目にすることになるのは、神の言葉によって六日間で天地が創造されたとする非常に淡々とした記述である。これは極めて簡潔であり、創造にかかわる具体的な説明はほとんど略されている。ところが、これに続く2章4節後半からの話は、それまでとは違ってずっと具体的・説明的、かつイデオロギー的なものとなる。これは、単に読み物として面白いというレベルをはるかに超えていく。やがて、キリスト教はこの物語に強く囚われ、その結果、それが地中海世界から西欧世界の人間の営みを強く拘束することになる。 要するに人間の罪の源が最初の人間アダムとエヴァにあり、それがその後の人類を規定することになったという考え方である。私たちは去年の秋からパウロの「ローマの信徒への手紙」を読んでいるが、彼こそ、そうした原罪論の最大の提唱者である。
さて、本日の聖書は、アダムとエヴァが禁断の木の実を食べてしまう前の話、まだエヴァがいない段階である。アダムの創造とエデンの園の創造である。天地の創造についてすでに創世記冒頭に概略されていたが、本日のテキストでは改めて始められているように見える。天地創造の直後、まだ地には野の木も草も生えていない。まだ雨が送られていなかったからという。さらに、「土を耕す人もいなかった」と加えられている。この付け加えは重要である。すでにここにこの作者の結論が書かれているのである。つまり、人は「耕す」者であるということ。この「耕す」という言葉は「仕える」という意味もあり、さらに「奴隷となる」という意味もある。要するに人間は大地の奴隷となるということである。しかし、たぶんそれだけではない。人間が農耕、それも大規模な灌漑農業を始めたときに、すでに耕す者は奴隷的な人間である、あるいは「労働する」人間であるという理解が生まれ、同時に耕さない、労働しない人間という対極の人間もいるとする理解も生まれたはずである。こうして、作者はこの第二の物語において、大地の奴隷となり、かつ所有する人間の奴隷となる人間という古代文化・文明を前提とした人間理解をあらかじめ提示したのである。しかしながら、この作者には別の思いもある。「耕す」のは人間のためでなく、神に仕える、神の奴隷となるということがまずあるということも同時に指摘しておかねばならない。エデンの園での人間の生活である。
さて、奇妙なのは、木や草に言及しながら、動物を省略し、「人」まで一気に飛んでいる点。しかし、飛んでいるのではなく、人が先で、動物はそもそも人の後なのである(2章19節参照)。ところが、さらによく見ると、作られた順は人が一番先であり、植物さえそのあとのように見えるのである。6節には雨ではなく、大地からの湧水に言及し、その湧水で地が潤され、その結果粘土状になった土でヤハウェという名のエロヒーム(神)が人型を作ったのである。その人型に「命の息」を吹き込んだところ、人は生きるものとなったのだという。
そのあとでヤハウェは、今度はエデンに園を作り、そこに人を置いたという。さらに神はその園に果樹を生えさせ、さらに園の中央に命の木と善悪の知識の木を生えさせた(9節)。
今日はここまでしか読まないが、作者はここで、「命」と「知識」はヤハウェなる神の支配のもとにあるのだと主張している。ここには作者の神学がはっきりと表明されているといえるだろう。ただし、丁寧に読むと、神は「命」と「知識」を果樹として、つまり客観的なもの、目に見えるモノとして人の前に置いたとしているが、これは何を意味するのかやや疑問である。そもそも「命の息」とは神に直接由来すると初めに書いている。それなのに今度は「命」は手に取って食べるものとなっている。簡単に考えれば、命の木は単に人を生き延びさせるためのいわば養分としての命の源泉のようなものかもしれない。しかし、後に書かれているいるように、これは「命」そのものなのである。その意味は、すなわち神そのものであるという風に考えてよいかもしれない。命の木とは神を象徴するといってもよい。さらに善悪の知識の木は神の属性としての「知恵」あるいは「言葉」を象徴するのだろう。ただし、より限定的に「分別」「識別」を意味するダアトという言葉を用いているので、「知恵」というやや次元を異にする概念をここでは使っていないことに注意しておくべきだろう。
命と知識は神の支配のもとにあったのだ、と作者は考えている。今日はここまでしか読んでいないが、ここから先は物語を読むより、今の私たちの生活を振り返るだけでわかる。つまり、私たちは知識の木の実を食べたのである。つまり、神の支配する領域を一部犯したのである。しかし、これは神の側、つまり創造者・支配者の側からの見方である。人間の側からみると、知識を得たということは、相対的ではあるが、世界の中で大きな自由を得たということである。もっとわかりやすく言えば、以前もお話ししたが、親から子が離れていくこと、子供が成長し、知識をつけて自立していくことに例えられるだろう。
私たちは知識をつけることで自由になる。人間は知識をつけて、農耕や牧畜を始めた。しかし、それは耕す者と所有する者の隔てを生み出した。その結果多くの人間は「耕すだけの者」となり、ごく一部の者は所有する者となる。そして所有する者は所有を巡って争うようになる。それが文明の発展を促す。文化は文明を促すのである。その源が「知識」であると作者は言う。この作者はこの先、文化と文明の批評を行っていく。原初史の物語はすべてそうである。知識は富を豊かにする。国は富む。偉大な建築も作られる。だから見た目は非常に壮観である。エジプトやメソポタミアを中心とする古代オリエント文明はきわめて壮大な文明であった。しかし、知識によって生み出された「耕す者」、あるいは「仕える者」、「奴隷」も膨大であった。つまり、国家は非常に豊かであるが、人々は「貧乏」であった。
そのことを知り抜いていたのがこの作者であり、やがて出エジプトの物語さえ残すことに貢献したのである。神の知識をいただいて自由になったのはいいが、知識を所有する者は大地を所有し、人間を分断し、一部の人間が大多数の人間を搾取する。外観は巨大な文明となるが、それは非常にもろい。しかしその文明の魅力は非常に強い。知識の力は非常に強いのだ。
最近、手元にあった河上肇の『貧乏物語』を読んでいる。これによれば巨大な文明国家であり、当時最も豊かであった英国の6割以上が「貧乏」であるという。この貧乏とは病気や障害などで放っておけばすぐに死んでしまうという絶対的な貧困ではなく、主たる働き手が働いても家族を養っていくことができる瀬戸際以下の人々のことである。この書は大正時代の文章(大正5年9-12月、大阪朝日新聞連載)であるが、この時代の英国は世界帝国であり、世界の富のかなりを所有していた。しかし、人々は貧困である。つまり今はやりの格差社会であるが、それは途方もない格差である。食えればよいではないか、生き延びているならそれでよいのではないか、という反応が当時も今もあるが、それは人間をやめろということである。いまだにこのような反応が多い日本の現状である。
旧約聖書は、こうした人間の分断を人間の知識そのものの持つ危うさによると考えているふしがある。先にのべた、親から自由になる子供という見方も可能だが、子供が知識を得て暴走することもあるということだ。いや、やはりこのレベルの話ではなく、高度な文明批評だろう。人間の知識は、その使いようによってよくもなれば悪くもなるという話ではなく、それは必ず分断と差別を生み、貧困と抑圧を生むということなのではないだろうか。
神は人間をエデンから人間を追い出したと作者は語るが、それは確かに罰である。しかし人間はめげずに文明を作っていく。そしてノアの物語に至り、洪水によって滅ぼされることにさえなる。それにもめげず、バベルの塔を作るのだ。
この知識の力はそれを超える別な知によって制御されなければならない。それが神を知るということ、創造者を知ること、彼の前に謙虚になること、そのことを旧約聖書は限りなく繰り返している。そして知識の前に常に「神への畏れ」を置く。その「畏れ」に裏付けられていない知識は、常に危険である。この物語の作者が「知恵」(ホクマー)用いずを、「知識」(ダアト)を用いたのは象徴的である。知恵とは主を畏れることから始まるという箴言の初めの章の言葉の通り、主への畏れは根源であり出発点である。そのことを忘れたとき、人間は自ら滅んでいくのであろう。
聖書はこのような文明批判を根幹に据えている。だから、それを読むことによって、自分たちが今の時代に何を大事すべきかを想起できるようになっている。私たちは、今この時代こそ、このヤハウィストの創造物語を味読するべきだと思う。もちろん単なる原罪論としてでなく、文明批評として。そして同時に、別の未来を創るためのきっかけとして。
新しい年を平和で生き生きとした、豊かさや喜びを分かち合い、貧しさや苦しさをともに克服していける年にしていきたいと願う。