砧教会説教2017年1月8日
「わたしたちも新しい命に活きる」
ローマの信徒への手紙6章1~14節
今日は話を二つに分けて進めようと思う。最初に今日のテキストの講解、次に今日の説教題そのものからの説教。
さて、3週ぶりにローマ書にもどるが、今日の箇所は5章の20節を受けているので、そこから見ておきたい。5章20節では奇妙なことを言っている。「律法が入り込んできたのは、罪が増し加わるためでした。しかし罪が増したところには、恵みはなお一層満ち溢れました」。前半はパウロがことあるごとに言う律法の機能、すなわち律法を細かく規定すればするほど、罪は細分化され、きりもなく増えるということを前提した発言である。後半が分かりにくい。罪が増せば、恵みは一層あふれるという対応関係はにわかには理解できない。たぶんこう考えたのだろう。一つには、律法が細かくなり、罪が細分化されればされるほど、それに対応する恵みの数も増えるということ。単純なことである。もう一つは、罪が細分化されることによって、逆に義の姿がより厳密になるということ。したがってその義にふさわしい完全な恵みが用意されるはずであるということ。後者は法的思考を知っている方なら想像つくだろう。法が厳密になるのは、単に細かくしているだけではなく、ある事柄に対応するに際して、完全な対応をしようとするからである。
この20節を受けて6章が始まる。「では、……恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」。恵みが増すのなら、罪にとどまるのもよいのではないか、という詭弁に、パウロはまず対応する。もちろんそんなことはないと。恵みが増すとは一般的可能性を言っているだけで、その人に恵みが増すわけではない。もっと自分に合った会社があるのではないかと常に次に期待し続ける人、もっとふさわしい結婚相手がいるのではないかと待ち続ける人。彼らはそのまま停滞するが、それは罪にとどまるのに似ている。要するに、その人が決断したときが、カイロスなのであって、それを前後の時間と比べてどっちが損した得したと考えるべきものではない。
パウロは「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」と語り、すでに罪とは縁を切った私たちが、より大きな恵みを得られるのではないかと欲深い気持ちを起こすなら、それこそ逆戻りでしょう、と言っている。そして改めて次のように確認する。「それともあなた方は知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、またその死にあずかるために洗礼をうけたことを」(3節)。洗礼を受けるということは、イエスの十字架の死に結ばれるということである。さらに4節前半で「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました」と語り、洗礼とはイエスとともに死ぬことである。もちろんこれだけでは意味がない。イエスと共に死んで葬られた者は復活する。すなわち「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させれらたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(4節後半。正確には「新しい命に歩む」)。 洗礼を受けてキリスト者になることは、実はイエスの死の姿にあやかることであり、今までの自分を捨てることである。もちろんこれは極端な言葉であり、このような言葉を真剣に受け取りすぎると、かえって自分も他人も傷つけることになることは注意しておかなければならない。パウロ的な、いわば尖がった言葉、あるいは格好の良い言葉は特に男を魅了するらしいが、言葉に溺れてはならない。
さて、パウロは続ける。洗礼を受けて、「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は罪から解放されています」。キリストと共に死んだ者は、キリストと共に復活する。これは今のところは、比喩である。つまり、洗礼を受ければ、キリストと同じ死を死んだことになり、つまりは自分の罪を担って死んだと同じであり、同時に新しい命、復活の命を獲得したのであるとするのである。こうしてキリスト者は、洗礼によって新し命を歩みだすことになる。きれいさっぱりこれまでの自分に見切りをつけて、新しい命を歩みだす。それは罪の中でもがく生き方ではなく、そこから決別することである。すなわち「このように、あなたがたも、自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに、結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」(11節)と勧告する。
もちろん、これは理想的な言葉であり、具体的でない。罪に対して死ぬとは具体的にどういうことか、神に対して生きるとは具体的にどういうことか。
12節以下にわずかに書かれている。ここからは肉体をもった一人一人の人間が前面に出る。それまでは「死ぬ」とか「生きる」とか言ってもそれは当然精神的な意味、いわば魂の事柄であった。新しい魂になったのだ。したがって「死ぬべき体」とはこれは精神的な意味ではなく、物質的な意味である。新しい魂にふさわしい肉体の用い方をせよ、とパウロは言う。その核心は「五体を義のための道具として神にささげなさい」であるが、もちろんこの解釈はさまざまである。一般的なのは禁欲的な生き方に徹してその生涯を祈りや労働にささげる修道士的生き方への勧告とする解釈。あるいは、義のための道具という言葉からすれば、この世に神の義を実現する働き手となることを勧めているとする解釈もあろう。
いずれにせよ、すでに新しい命を獲得したのだから、それにふさわしい体の用い方を心掛けるべきであるということである。
さて、今日のお話の二つ目は直接今日の聖書にかかわるのではないが、キリスト教の持つ非常にポジティブな考え方に関して、多少ともわかりやすく語ってみたい。そのことを思ったのはほかでもない、今日のタイトルそのものと昨今の身の回りの出来事がつながったからである。
「わたしたちも新しい命を生きる」という題は当然4節からとったのであるが、正確には「新しい命に歩む」であり、「歩く」という動詞が使われている。これはどっちでもよいが、要するにキリスト教は新しいということを常に意識する宗教である。
私たちは一般に次第に老いていく。これは当然である。老いるとはいろいろなことができなくなることである。もちろんそれには個人差があり、年の数に比例するのではない。もともとハンデを背負っていることもある。しかし、どちらも次第に衰え、能力は低下する。そしてそれは誰しもつらくみじめに感じるだろう。昨年末、私の母が背骨を圧迫骨折し、安静を余儀なくされた。教会の皆さんの中にもかなりいらっしゃると思う。非常に活動的な人で、83を過ぎた今まで卓球をするほどだった。しかし、よく見ると、それはすでに周りの仲間に支えられてのことだった。だから、私が想像していたほど活力があったのではない。だから骨折もしたのだろう。そして入院は頑として拒み、自宅療養となったが、次第にマイナス思考になり、もう生きていてもしょうがないと繰り返している。
私も、気持ちはわかるが誰しも衰え、次第にできないことも増える、それが一気に来たのだから仕方がないことのように思えた。しかし、全く違う見方に気が付いた。それが今日のタイトルからである。つまり「新しい命を生きる」ということである。要するに簡単なことで、骨折し動けなくなった自分は、老い衰えたのだとしても、それは「新しい」自分である。それは今までとは違う自分の姿である。そう思いついたとき、生きるとは、生まれ、成長し、大人になり、次第に老いて、動けなくなり、やがて死に至るというありふれた見方にとどまるべきではなく、人間の歩みは常に新しいものに変わっていくというダイナミックな過程であるとみるべきであるということだ。
だから「老いる」ということを「一段と新しい自分となる」とみるべきであり、死ぬということはそもそも最も新しい自分に至ったということである。だからこそ肉体の死はその長短は問わず、ある種の完成とみるのが良い。
逆にに言えば、「老いない」ということは「新しくならない」「停滞している」ということでもある。しばらく前に流行った「美白」という言葉があるが、その流行の先端にいた女性の老人はもちろんテレビでしか見ていないが、年にもかかわらず非常に白かった。それはすごいことかもしれないが、わたしは単に不気味であった。その不気味さは、「変わらない」ことそれ自体にある。つまり停滞し、新しくならないということ。これは昨今の終末期の医療にも言える。その人が老い、衰える過程を中断し、すなわち新しくなることを妨害することに執心している。これでは本人も周りも先に進むことができない。新しい自分を生きることができないのである。これは今日の聖書につなげて言えば、罪の中にとどまり続けてしまう状態と対応する。
わたしたちは常識の中で生きているから、人生行路を「生まれ、成長し、やがて死ぬ」という言葉を真理として受け入れてしまうが、キリスト教はこれを否定した。いや、「人間は新しくなるのである」「死んでも復活するのだ」と。だから、いかなる罪びとであっても、その人が悔い改め、今までの自分を十字架につけるなら、新しい命が与えられるとまで言い切ったのである。
キリスト教は人生の見方の転換を促す。それは誰しもが疑わないような常識を捨てることを求める。だからこそ、つまずくことも多いが、「新しい命」を確信することは私はなにものにも代えがたく重要なことと感じている。