砧教会説教2017年1月15日
「自分の人生を選びなおす」
ローマの信徒への手紙6章15節~7章6節
パウロは再三、罪と恵みの関係について語る。このような議論に意味があるとも思えないが、6章の冒頭、そして15節で似たような問いを立てる。要するに恵みの下にいるという確信があれば、罪を犯してもよいのかという問いである。原理的に恵みの力が上回っているのなら、罪を犯したところでそれはすでに敗北しているのだから、安心してよい。あるいは安心して罪を犯してかまわないという考え方である。一見馬鹿げた考えに見えるが、実はそうでもない。
プロテスタント、特にルターはすでに存在する恵み(恩寵)を受け入れ、信仰だけによって義とされるとするため、罪の問題は度外視される可能性がある。もちろんそんな単純なことではないが、「罪人にして同時に義人」であるという誤解を招く表現を単純に受け止めてしまうと、罪を犯しても、そもそも罪人なのだからしょうがないし、そのまま救ってくださる神を受け入れるのだから大丈夫といったような安易な救済意識に陥る可能性がある。おそらくパウロの救済論にもそれがあるため、それに防戦を張るために、論を展開しているのだろう。
パウロはこの問題について、比喩的な論法で語る。奴隷論である。これは後に当然ルターも用いることになる(『奴隷意志論』)。パウロはこう語る。「あなたがたは、誰かに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪の奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」(16節)。彼によれば、奴隷の地位に自由はないのだから、選択肢はない。つまり主人に従う以外に道がない。それと同様に、罪に仕えれば、それ以外に道はなく、義を選ぶことさえできない。そして義の奴隷となれば、罪を選ぶことはできない。奴隷とは自由がないということである。自由がないということは、選ぶことがないということである。このような考え方はなんだか危うい気がするが、パウロは結局このような「あれかこれか」のどちらかしかないのだという。パウロは続ける。「あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました」(17節)。これは奴隷論からいえば、仕える相手が変わったのだから、元の主人の支配を受けることもないし、受けてはならないということである。つまり、罪とは縁がなくなったということ。したがって、そもそも罪を犯すことがないということである。
このことについてはすでに前の断章で語っていたことであり、それを奴隷論の比喩で語っているだけである。ただし、ひとつ疑問なのは、「伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり」という言葉である。これはキリスト教の教えのことだろうか、それともユダヤの伝統的な教えのことだろうか。後者であるとすると、それは律法と言い換えてもよい。パウロにとって律法は罪を明らかにするためのものにすぎず、かえって人間を罪に束縛するものではなかったか?その律法のもとでは、人間は救われることがない。それどころかひたすら罪を自覚し続けるほかない。そのような論法で律法主義の限界を語っていた。しかし、パウロの真意は違うのだった。律法は原則的にはモーセを通して神から与えられたものであり、本来それは人間を自由にするはずのものだった。そして今なおそうである。しかし、律法主義的ユダヤ教は、律法の根本的意味を見失い、単に人びとを断罪し、罪の奴隷であるかのように人間を貶めるための力となり下がってしまっている。律法の機能の誤解と誤用によって、パウロ自身もキリストの恵みを当初は理解できなかったのである。だから彼は迫害する側に回っていたのであった。律法は常に人間の罪を暴くために存在する。同時に人間の高まりを要求する。その要求にこたえることが、ユダヤ教ファリサイ派の厳格な生き方を促したのである。そしてそれがすべてであると思っていたパウロ。しかし、律法の起源における意味は、本来人間を解放するものであった。あるいは解放された人間を守るものであった。エジプトから解放されたイスラエルはひ弱な集団にすぎない。その端緒の小さな自由、それを守るために神はモーセを通して十戒を与えた。それは要求のように見えるが、そうではなく、枠のようなものである。それを踏み越えることによって、再びエジプトに戻ってしまう。言い換えれば、再びエジプトの奴隷となるのである。だから、律法は本来、恵みなのである。もちろん、律法は元来、十戒という憲法ないし基本法があり、そのあとに様々な規則が発達したのである。だから律法と一口に言っても、実は無茶な規則もたくさんある。それが「神の律法」と称して人を抑圧する。そうした事態に気がつかず、社会が形成されているとすれば、それは深刻であろう。もちろんこうした事態は、当の社会の内部に生きている人々には気づかれないか、気づいても無視してしまうのだろう。今のわたしたちの時代でも、どう考えてもおかしいと思っても、全体としてはそうではないということもいくらでもある。
人間の社会や制度はいったん動き出すとなかなか変わらない。世代が交代しても変わらないことも多い。それは伝統や習慣と呼ばれ、それを動かしたり、そこから逸脱することはかなり面倒である。だから、変わらない。ユダヤの伝統は長い。権威もある。古代オリエントの歴史を生き抜いてきた自負もある。自分たちは神に選ばれた集団である。このようなプライドの下に生きていたのが、正統派のユダヤ教徒である。彼らの律法に対する意識は、自分自身の命と引き換えても構わないくらいのものだったのである。このような律法であるが、その本質は「自由であれ」というものである。したがって個々の法を基本において支える律法の本質的意味を知ったうえで、「心から従うようになり」罪から解放されたのである。
パウロは律法について否定するのではなく、その根源的な恵みとしての性格を受け入れるなら、罪から解放されるといっているのだろうか。
他方、この「伝えられた教えの規範」をキリストの教え、あるいは弟子たちのつくった教会の教え(ディダケー)の規範(テュポス)であるとするとどうか。伝えられた教えとはまだ完全には伝統化していない、イエス自身や弟子に由来するものなら、その中に含まれているものは何だろう。山上の説教であろうか。主の祈りだろうか、それとも十字架と復活、聖餐式などの典礼だろうか。そうだとすると、パウロの時代にはすでに、キリスト教の制度化、つまり教育的な配慮がなされていたといえるのかもしれない。
いずれにせよ、すでに義に仕えているのであり、それゆえ義の奴隷として「聖なる生活をおくりなさい」と勧告するのである。ただ、ここでの「かつて自分の五体を穢れと不法の奴隷として、不法の中に生きていた」という表現は、律法に背いてきたというのとは違う。このことについてはさらに7章の最後の部分でより詳しく説明しているが、これはローマ社会の慣習、それも不法の慣習や堕落を指しているのだろう。だから、単にユダヤの律法に照らして罪であるというだけでなく、もっと一般的な意味で、つまりローマ社会における不法な生き方もふくめて罪の奴隷と言っている。パウロは罪の奴隷から神の奴隷になったことを自覚せよという。その際面白い表現を使っている。「罪の奴隷であった時には、義に対して自由の身でした」(20節)と。つまり「義から」解放されているのである。しかし今や神の奴隷であるから、今度は罪から解放されているのである。そして「行きつくところは、永遠の命です、罪の支払う代償は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです」という、一種の殺し文句で締めている。
さらにこのあと、再び律法を引き合いに出している(7章1節から)。律法とは、人を生きている間だけ支配するものであるという。例えば結婚しても、夫が死ねば貫通の罪は問われない。つまり夫が生きている限りにおいて罪を問われる。ややわかりにくいが、パウロはもはや私たちキリスト者は律法に対してすでに死んでいるのだから、そもそも処罰の対象とはなりえないという。これは、罪から解放されているということを意味する。彼はこう言っている「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだものとなり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、霊に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」(7章6節)。要するに、これまでの話をまとめている。
やはりパウロは禁欲的な語り口である。この「肉に従って生きている」という言葉は「霊に従う新しい生き方」と対応するように見えるがそうではない。肉に従って生きることによって、罪の情熱は律法を通して体に働く。だから律法を守ったところで、その情熱は絶えることがない。したがって、結果は敗北、すなわち死である。しかし、律法に対して死んだことにより、すでに肉体従う生き方ともおさらばしたのであり、つまりは「文字に従う古い生き方ではなく、霊に従う新しい生き方で(神に)使えるようになっている」というのである。肉に従うというのは、地上の価値に従うことである。あるいは人間の力に従うことである。あるいは自分自身がその価値自体となったり、その力を集約したりすることも当然含んでいる。そのような「肉に従う生き方」を律法で制御することはできない、それどことろか、その力をより一層拡大することになるかもしれない。しかし、逆に律法それ自体を乗り越えてしまうこと、すなわち、律法以前の神への「信」を想起し、それを体得する、つまり神への信を先に据えるなら、そもそも律法を必要とさえしない、そしてそれにとどまらず、肉に従う生き方それ自体を相対化できる。つまり、すべては被造物であり、それにとらわれて生きることはそもそも勘違いなのだと気づくから。だから、肉に従う生き方は神への信に基づく生き方によって乗り越えられるはずであった(アブラハム)。しかし、世界はそんな甘くない。だから律法が間に入る(モーセ)。そして罪を明らかにする。そして律法が中心となる。しかし、これでは罪の奴隷のままである。しかし、さらに次には再び神自身が行動し、改めて全面的なゆるしを与えた。神の子のイエスの死をもって。その結果人間はもはやそのゆるしによって、つまり完全なる無償の愛によってもはや罪自体を帳消しにされたのである。この物語、いやこの出来事は人間を丸ごと救うのだからもはや律法の介在する余地はない。その目に見えない働きをパウロは霊と呼んだ。それは明らかに律法と対応する。同時にそれを凌駕する。
やや先回りしたが、肉の、つまりこの世界の秩序、論理を超えていく道を、パウロは自分自身の血肉であるユダヤ教を経由しつつ、新たなキリストの出来事を特権化し、意味を付与しながら、切り開いた。さらに、そこから全人間の救済の可能性を導いたのである。