日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2017年1月22日
「わたしたちの中に住む罪を取り除く神の子」ローマの信徒への手紙7章7節~8章11節
 パウロは改めて律法を罪の関係について語りだす。彼は、律法は罪であろうかと自問する。もちろんそうではない。律法は罪を目覚めさせるためにあるのだという。このような論法はすでに何度かでてきたが、なるほど善いのか悪いのか、正しいのか誤っているのかが予めわからないなら、いかなる行為もなんら判定できなくなる。もちろん、そんな馬鹿なと思うかもしれないが、本能や欲望自体に忠実であるだけですむなら、罪など存在しない。しかし、「罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。…(中略)…しかし律法が登場したとき、罪が生き返って、私は死にました」と、いささか極端な表現で語る。律法は罪を明らかにするだけで、その律法によってかえって自分の不完全さだけが際立ち、守ろうとする気持ちがあってもそれとは逆に、かえって反対のことを行ってしまう。神からの律法は本来、命をもたらすはずであるのに、反対に罪を大きくし、かえって自分がそれに飲み込まれていく。だから、彼は非常に皮肉っぽく「律法は聖なるものである、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。」と語る。
 そこで彼はもう一度問う。「善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか」と(13節)。しかしそうではないのだ。彼は「罪がその正体を現すために、善いものを通して私に死をもたらしたのです」という。奇妙な表現だが、パウロにおいて罪はほとんど独立した力のように語られている。罪とは邪悪なものとも言っている。この辺りからパウロは非常に二元論的に語りだす。律法は霊的であるが、「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」という。「わたしは自分のしていることがわかりません」とも言っている。要するに自分で望まないことをあえてしてしまう私がいるということだ。逆説的だが、望まないことをしているという自覚自体が、律法を善いものと認めているのだともいう(16節)。善いことはわかっているのに、それをすることができないという自分。このようなことはパウロほど極端に感じ取るかは別として、私たち自身にとってもよくあることである。
 このような事態について、パウロは「そういうことを行っているのは、もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです」(17節)という。この言葉を彼は二度繰り返している(22節)。善をなそうとしても常に悪に付きまとわれている。この表現はやや過激だが、さらにこれを法則とまで言っている。
 パウロは「肉の人」という言葉を通して、被造物である人間を表すが、彼は地上に住む人間がすべて罪に侵されていることをすでに繰り返し語ってきた(1章18節以下、5章12節以下を参照)。彼においては、地上世界は圧倒的に罪にむしばまれているというやや極端な思いがある。それは何度かこのたびのローマ書講解でも言及したが、おそらくこのような罪感覚は古代帝国の完成と呼ばれるローマ帝国の現実をつぶさに知っていることから由来すると思われる。ローマの、すなわち人間的権力の大きさ、その力による貪欲、快楽、飽食、堕落、犯罪、それらを具体的に知っていたのだろう。そしてこうした世界に住む人間の姿を通じて、古代から伝えられる旧約聖書の罪の物語の本質的な正しさを感じ取り、人間の根源的な罪深さ、いや罪それ自体の力の大きさを強く意識せざるを得なかったのだ。しかも、律法を持っているユダヤ人であるからこそなおさらである。律法を持っていても、それを実現することなどとてもできないほどに、彼は罪に敗北しているという感覚を抱いていたのだろう。
 肉なる者、この世の被造物はすべからく罪に敗北している。しかし罪は独立した実体なのだろうか。パウロは、ペルシア的二元論(善と悪、光と闇)、ギリシア的な二元論(イデアとその投影としての世界、霊魂と物質)といった世界理解から、もちろん影響を受けている。そして外見的にその論法で語っている。これらは1世紀の東地中海世界においてごく一般的な思考様式だったと思われる。しかし、彼は非常に極端に物質的肉的なものと罪(あるいは邪悪)の結びつきを強調しているように見える。さらにこの罪に囚われた被造物は、死という罰をまぬかれないという。
 この死とは、私たちが普通に考えている、生まれ、年老いて死ぬという自然的な死ではない。パウロにおいては肉体の死だけ、つまり自分のこの世での時間の終わりだけでなく、それを超えた、つまり永遠の相における、すなわち、天上の世界を含めた世界において、魂を持ったこの私が終わるということも含んだ死、つまり肉体も魂もすべて無意味に終わるというような全面的・完全な死のことであろう。私たちにはもはや想像しにくい、観念的な死である。その死の原因がこの世の、この肉体を持った人間、被造物としての人間の中に住む「罪」であるという。この罪がある限り、魂の永遠はありえないどころか、全面的な死に終わるのである。人間はひとまず律法が与えられ、心ではそれに仕えているが、「肉では罪の法則に仕えているのです」(25節)。
 このような非常に身もふたもない限界をはたして乗り越えことができるのか。律法という賜物を守る意志だけではどうしてもだめなのか?すくなくともユダヤ人だけはそれで十分なのではないか?
 しかしすでに語ってきた通り、パウロ自身かつてユダヤ教ファリサイ派だった者として、それが無駄なあがきであると結論しているとおり、ユダヤ人もギリシア人もなく、すべて罪に服している。罪を自力で逃れること、抑え込むことはできない。なぜなら、意志の力は罪の力より弱いから(心は燃えても肉体は弱い)。言い換えればこの世界の誘惑のほうがはるかに強力であるから。
 それでは結局人間は罪(邪悪)に敗北して永遠に死に続けるのか。そうではないという。パウロは「イエス・キリストに結ばれている者は、罪に定められることはありません」といい、キリスト者であることの圧倒的な利益を語りだす。神は改めて人間を救う。それが「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則」である(8章2節)。これが「罪と死の法則からあなたを解放した」のであるという。これは神の新たな介入である。この介入、あらたな働きかけによって、「肉の弱さのため律法がなしえなかったこと」を神がしてくれたのである。「つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(8章3節)。このことはすでに3章25節、5章8節で語られている。つまり、神は人間を救うために、自分の独り子イエスをキリストとして送り、人間の罪をすべてその体に背負って、その罪もろとも死んだのであるという。パウロはここではそのことの目的をこう言っている。「それは、肉ではなく霊にしたがって歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした」(4節)。こうして自分の努力ではなく、神の新たな恵みとしてのイエスの十字架の死によって律法の理想が私たちに実現されたのだという。
 パウロは畳みかけるように続ける。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。いや従いえないのです。」と。
 彼はこの辺りからやたらと霊と肉の対立図式で語っていく。パウロにおけるこの世離脱的、反世界的、(あるいはのちにニーチェが喝破した弱いニヒリズム)なトーンが明瞭である。全体としてパウロは被造物の世界が罪に覆われているとみなしている。これは彼の生きた1世紀の東地中海世界全体を彼は否定的なものととらえているからだろう。その否定的な世界において罪に覆われ、敗北して生きるのではなく、この世界の罪を丸ごと滅ぼしたとするキリストの出来事、いやそのように解釈されたキリストの十字架と復活の物語を、彼は考えられるあらゆる修辞を動員して弁証あるいは解説したのである。
 彼は霊の命をことさら強調する。この命は「イエスを復活させた方の霊」(11節)、すなわち神の霊である。この霊が「あなたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださる」のだという。これは二重の意味がある。それはいま生きているこの世界で、もう一度新たに生きなおすということと、キリスト者としてこの世に生きていく中で、この世の罪に翻弄され、時に実際に迫害を受け、場合によっては命を落としたとしても、霊の命は「死ぬはずの体をも生かす」のである、つまり神の支配の完成の時に永遠の命を得ることができるのである。ただ、ここではそこまで踏み込んではいないようでもある。
 いずれにせよ、罪に覆われた肉の私たちは神の新たな働きかけによって、つまり神からの再びの恵み、すなわちイエス・キリストによる贖罪によって、罪それ自体が滅ぼされたのであると「信じる」ことによって、律法とは無関係に、かつ律法の要求を満たす、すなわち正しいもの、赦されたもの、永遠の命を継ぐものに生まれ変わることができるのである。