日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2017年1月29日
「つくられたものたちは神の子たちの現れるのを待っている」ローマの信徒への手紙8章12~25節
 一般に宗教と呼ばれるものは、人の生き方を律するものである。律するというのはその宗教の教えによって縛られるということではなく、自らその宗教の教えにそって生きることを意味する。キリスト教も当然人の生涯を律するものである。では、どのように律するのか。
 わたしたちにとって、一番わかりやすいのは「マタイによる福音書」の山上の説教に見られる教えに沿って生きることだろう。しかし、この教えがはたしてキリスト・イエスの教えであるかどうかは定かでない。教会がそう決めているだけである。それでも、これはイエスの教えとして多くの人々に了解されている。そしてその一部は非常に禁欲的であり、反この世的であり、終末論的である。したがって、この教えに忠実であることは、一般に危険である。なぜなら、生きているこの世界を非常に否定的にみるからであり、その結果この世の秩序に逆らうものとみなされ、当然この世の権力によって邪魔者扱いされ、迫害を受けることになった。
 さて、マタイの編集したキリストの教えは非常に禁欲的であり、過激であり、ユダヤ教の律法主義さえ実行しえないほどの極端さを持っている。これを字義どおりに実行するなら、ほとんど常識的な社会生活はままならない。その結果、この世に対してはニヒリスティックになるほかない。この世よりも「天国」の方がリアルであり真実であって、実際に生きている世界は結局、穢れており、罪に満ちた世界となるのだから、この世に対してはニヒルなのである。
 さて、パウロの言葉を読んできて思うのは、上記マタイによる福音書の描くキリストの発言とかなり似たような視点で書かれているのではないかということである。
 先週読んだ8章7―8節には「肉の思いに従う者は、神に敵対しており、…(中略)…肉の支配下にある者は、神によろこばれるはずがありません」とあり、9節には「神の霊があなたがたのうちに宿っている限り、あなたがたは肉ではなく神の霊の支配下にいます」とある。つまり、霊と肉の対立図式を使っているように見える。ただ、この図式は実は彼の理解するこの世、つまり巨大なローマの権力が支配する当時の世界をきわめて堕落した世界であると感じていたがゆえのレトリックであり、この世の支配に負けてなるか、という彼独自の意気込みを反映するものである。これはもちろん、イエス自身の意気込みとも共通する部分があるだろう。しかし、イエス自身がパウロと同様な対立図式で考え、反世界的であったかどうかは疑問である。わたしが思うのは、イエスはパウロに比べ、はるかにおおらかであったのではないかということである。イエスは神の国の実現を、自ら担っているという自負があり、かつ途上であるとも感じていたように見える。イエス自身がパウロのような険しい対立図式を持っていたか否かは三つの福音書を読む限り判然としないが、わたしはそうした険しさは最後の段階においてである気がする。
 しかし、パウロはその最後の段階から出発する。というより、イエスの死と復活信仰から出発するのである。だから、彼にとってこの世はすでに滅んでいるようなものであり、神の支配は実現したとさえ考えている。つまり世の終わりそのものが始まっており、神の勝利は確実であると信じている。だからこそ、今日の8章13節には「肉に従って生きるなら、あなた方は死にます。しかし霊によって体の仕業を絶つならば、あなた方は生きます」というのである。肉に従って生きるとは、この世の習いに従って生きること、この世に隷属することであるが、この世の滅びは決まっているのだから、そのままでは死ぬ。反対に、「霊によって体の仕業を絶つ」なら、つまりこの世の習いを捨てて、キリストを復活させた神の意志に従うなら、生きる。こうして徹底的な対立図式を再び提示し、かつ、そのような生き方を求めるのである。そして「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」(14節)とまで言う。これはもちろん一種の拡大解釈だが、神の霊に満たされた者はキリスト自身と同じく神の子であるとさえ言うが、これは非常に強力な激励であるといってよい。
 この後に、わたしにとって決定的に見える言葉が導入される。すなわち「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」(15節)。人はこの世界の奴隷であってはならない。反対にこの世の支配から自由になるべきである、ということである。だから、パウロは肉や体、世の罪から離れるよう繰り返すが、それは人間的世界の奴隷とされる人間であってはならないというユダヤ教本来の倫理を語っているにすぎないとも言えるのである。
 彼はさらに続ける。「この霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と呼ぶのです」と。つまり神を真の父として、つまり真の創造者として、しかも実に慈愛に溢れた父として感じ取り、了解する。そして子であるなら、キリストと同等な「神の相続人」でもあるという。実にレトリカルなたとえである。ただし、見過ごしてはならないのは、「キリストと共に苦しむなら」という限定がある点である。これはキリスト教信仰が安易な、あるいは気軽なものではなく、結局、この世との対決、というか、この世からの軽蔑や迫害を引き受けることを免れないということだ。
 それゆえ、彼はこう励まさざるを得ない。「現在の苦しみは、将来のわたしたちに現わされるはずの栄光に比べると、取るに足らないとわたしは思います」(18節)と。このような発言を聞くと、わたしたちはやはりパウロを非常に観念的な「天国」を意識した人間と感じてしまう。そして、この世とは無関係に、あるいはこの世はどうせ滅ぶのだから、この世など見捨てて、あるいは無視して、あるいは関心など持たずに、ただ天国に生きることだけを信じて生きて行けばよいのだ、というやや投げやりな、しかし同時に強くもある信仰に、時には陥ってしまう。それでよいのだろうか。
 おそらくそのような信仰は間違いとは言えないが、失敗である。なぜなら、それではキリストの苦難の意味が理解されていないからだ。この世の苦難、「現在の苦しみ」とは、結局この世との深い関係を示している。無関心なら、見捨てるなら、そもそも苦難などわざわざ経験する必要がない。なぜなら滅ぶに決まっているものといかなる形で関わろうが自分とは関係ないからである(残念ながらこうしたキリスト教は多い。グノーシス派も結局そういう態度だったように見える)。
 しかしパウロ自身も、「この世界」の転換と自分の救いをリンクさせているのである。何しろ、救いとか赦しとか義とされるとかいった発言は、すでにこの世界との深い関係を前提としている。この世界との関係の中で赦しや救いがある。つまりこの世に対して別の価値を実践すること、この世に対して別の世界を具体的に提示すること、これなくしてはそもそも救いや赦しを実感することなどできはしないのだ。だからパウロは次にこう言った。「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」と(19節)。被造物とはあまりに漠然としているが、人間およびその思惑によって建てられた国々も含めた世界全体を指す。その被造物が神の子たち、すなわちわたしたちキリスト者が現れるのを待っているというのは、言うまでもなく、キリスト者の働きかけを、神の共同体をこの世に形成し、その仲間に被造物が加えられるのを待っている、つまり新しい命に、新しい世界に転換するのを待っているということだ。なぜなら、「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています」というのだ。わかりにくい表現だが、おそらく次のようなことだ。人間たちや国々は大きな罪の中にあり滅びに至る道にあるが、それは自分の意志で(好きで)そこにいるのではなく、実はそうした罰を与えた方つまり神の裁きによるものだ、だから悔い改めて神の方を向くなら、希望もあるのだ、ということ。自分の意志で滅びに行くならそれは仕方がない。しかしそうではない。それどころか、「被造物も、いつか滅びの道から解放されて、神の子供たちの栄光輝く自由に預かれる」(21節)というのである。
 パウロは被造物世界、現実にはローマ帝国とその世界の人間を敵視しているのではなく、憐れんでいるのである。「被造物がすべて今日まで、ともに呻き、ともに産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」(21節)という言葉は、あきらかにこの世界に同情している。そして自分たちキリスト者も、つまり神の子たちさえ、「体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」というのである。要するに自分たちもこの世界にいる限りにおいて、滅びから脱却することを望んでいるのだ。つまりまだ完全に救われたわけではないというのである。
 しかし、彼は言う。「このような希望によって救われている」と。もちろんこれは矛盾である。希望が実現した時が救いである。なのに彼は、希望によって救われているという。これはすでに以前述べたとおり、この希望とは単なる願望、実現するかしないかはっきりしないがひとまず強く期待するというようなあいまいなものではなく、確信といってよいものだ。
 ただし彼は、彼一流の詭弁で次のように言う「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見えているものを誰が望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(25節)。訳文がわかりにくいが、目に見えているものはすでに実現しているものであるから希望する必要がない、目に見えないものだからこそ、忍耐して待てるのだ、とうい詭弁。わからなくもないが、問題は目に見えないものが何かということだ。それは当然、復活の命、すなわち永遠の救いということ。そんなものは見えはしない。しかし、キリストの出来事を通してすでに実現していると信じた。そして我々はその「初穂」のはずである、その「希望」こそ、結局救いというほかはないのである。そしてこの「希望」という名の救いが、わたしたちのこの世での働き、すなわち世の価値に神の価値を対置していくこと、言い換えればあのイエス・キリストの活動を引き継ぐことを可能にするのである。その希望という名の救いがあるからこそ、キリスト者はめげることなく、この世に神の支配の完成を呼びかけることができる。この呼びかけは今なお続けられるべきである。今の時代ほど、虚無の力が強い時代はなかったとさえいるからだ。
 ただし、パウロは「忍耐して待ち望む」という。これは働きかけないという意味であろうか。そうかもしれない。迫害や殉教といった具体的な、現実的な危機が存在する中で、「待ち望む」というダニエル書的・黙示的発想が優位に立っていたのかもしれない。したがってこれはパウロの戦略的な言説と見るのがよいかもしれない。待ち望むという消極的姿勢は、歴史を耐えるために、次の時代へとつなぐために必要な主体的態度であるかもしれないとも思うのである。