日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2017年2月5日
「キリストを通して示された神の愛によって、わたしたちはこの世界に勝利する」ローマの信徒への手紙8章26~39節
 「希望」がわたしたちを救うというのが前の断章の主題であった。それに続く今日の断章の前半は「霊」の執り成しの力について語る。希望が助けとなると同様に、「霊も弱い私たちを助けて下さいます」と言う。背景には「現在の苦しみ」(18節)によって弱くされている「わたしたち」の姿がある。その弱い状態では、もはや「どう祈るべきか」わからない。迫害や中傷によって自信を喪失した今、祈る言葉さえ出てこない。祈る言葉さえ出ない弱い状況は、普通なら人間を鬱屈や自暴自棄、そして絶望へと追いやるだろう。立つ瀬がないのである。
 しかしパウロは言う。「霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成して下さる」から安心せよと。これはどういう意味だろうか。パウロによればキリスト者はすでに神の霊に満たされ、導かれているのであるから、肉のわたしには祈るすべがわからなくても、霊自身が「ことばにあらわせないうめき」によって神に祈りを届けているのだという。これはややわかりにくいことだが、これは根源的なことである。出エジプト記3章のモーセの召命の記事にヒントがあるように思う。出3章7節に「わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の故に叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」という神ヤハウェの言葉があるが、これは祈りや願いのような言葉にすることが不可能な、すなわち反省的な、いわば冷静になった状況で、自分を客観的に振り返って課題を言葉にすることなど不可能な、それ以前のむき出しの状況の中での叫び、痛み、苦しみそのものを神ヤハウェが知ったということだ。言い換えれば、叫び、痛み、苦しみというのは、実は根源的には霊の働きであるということだ。パウロはことさら「霊」を強調するが、すでにキリスト教的背景において、聖霊は非常に自律的であるように考えられているからだ(同様に悪霊も)。しかし、霊は本来、人間において初めから存在するとも言えるものだ。霊とは元来、イスラエルの伝統では神の息であった。だからこそ、「人の心を見抜く方」すなわち神自身は「霊の思いが何であるか知っている」というのは当然のことである。いわば知らず知らずに、霊自身のうめきが神への橋渡しになっているということだ。苦難の中にいる当事者のその魂の叫び、うめき、痛みそれ自体が、霊の執り成しとなっているのだ。
 これらの発言はもちろん、激励にすぎないように見える。だからそんなうまいことがあるはずないと普通は思ってしまう。しかし聖書の宗教はパウロのこの表現に見られるような考え方をずっと持ってきた。痛みや嘆き、苦しみとはもちろん多様であり、様々な次元で解釈されるが、そのような言葉以前の、一人の人間の不自由な、抑圧された状況を、ただの運命や自然の摂理などとは考えなかった。一つにはそれらは罪に対する罰として考えるという見方がある。そしてもう一つは、神ヤハウェに選ばれたが故の、つまりこの世とは別の世界、神の国の実現に仕えるがゆえの、この世との軋轢による苦難、さらに、あらゆる人間をその愛によって包もうとする際に与えられる試練として受け止めるということ。パウロはおそらくこれらすべてを知っているが、ここでは第二、第三の意味で考えているのだろう。
 このような「霊の執り成し」の結果から「神を愛する者たち、すなわち御計画によって召された者たちには、万事が益となるよう働くということをわたしたちは知っています」(28節)と確言する。ここにはいわゆる予定説が提示されている。あるいは選びの信仰と言ってもよい。そのあとの29節でも「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たようなものにしようとあらかじめ定められました」と語る。もちろんこれも激励にすぎないが、やがて一種の選民思想となる。キリスト者は救いに与る者としてあらかじめ選ばれているのである。
 このような考え方はやがてキリスト教の教義として確立することになるが、元来は危機的状況におけるパウロらしい激励の発言であろう。しかし、終末論的歴史、この世の終わりと神の世界の完成という構想を前提にし、一人ひとりの人生が神の選びによってどこかを分岐点に行くべき方向が決まってしまうというのは、なかなか魅力的な思考ではある。しかし、このような危機的状況での激励という視点をはずしてしまうと、全く独善的な思考となる。事実こうした予定説は、自分たちのこの世での成功を説明するための道具、つまりわたしがこのような恵まれた状態なのは、すでに選ばれたものである、このように予定された者であるからだなどという理屈になっていく(例えばかつての南アフリカのアパルトヘイトを合理化したカルヴァン派のキリスト教、アメリカの先住民を殲滅したピューリタン)。だから「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し」(30節)といった発言には注意が必要である。
 さて、31節以下の断章では、パウロはなにか非常に高揚した語り口になっているように見える。すでに神の救いの計画のうちにあるキリスト者にとって「神はわたしたちの味方である」のだから、誰も敵対することはできない、という。神は自分の独り子さえ惜しまずに死にわたされたほどにわたしたちに目をかけたのだから、今度は御子を復活させたように、わたしたちにすべてのものを賜るはずである。
そして神に選ばれたものである以上、もはやだれもわたしたちを訴えることはできない、という。これは相対的なこの世の裁判、つまりローマの司法権など、神の司法権に比べたらとるに足らない、いや無価値なものである。「人を義として下さるのは神なのです」とは、要するに人が人を義とするなどあり得ないということ。言い換えると、キリスト者がキリスト者であるがゆえに、この世で迫害され、捕えられ、裁判にかけられ、有罪とされたとしても、そのような判定自体が無効である。この世はキリスト者を罪に定めることはできない。そして、たとえそうされたとしても、「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座ってとりなして下さるのです」(34節)。わたしたちに代わって罪を負って死んだ方、そして復活させられた方であるキリストが、そのキリストの名のために艱難と迫害にあった者たちを執り成してくれる。これを「キリストの愛」とパウロは言う。だれが、キリストの愛からわたしたちを切り離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」と反語的な問いかけを行う。そして詩編44編23節(ただしパウロの引用は70人訳なので43編となる)を引用する。しかし、屠られる羊のような者に見えたとしても、それは全く違う。このような地上の艱難、苦難、その他は、逆にキリスト者にとっては勝利のしるしでさえある。すなわち「これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛して下さる方によって輝かしい勝利を収めています」(37節)。これは普通に考えれば全くの敗北にしか見えない。しかしキリスト教において艱難は逆に勝利のしるしである。このような考えは全く倒錯しているように見える。しかしパウロにおいてはそうではない。一見敗北や失敗に見えるこの世の艱難や苦難、恥、そして飢えや裸、そして戦争による死は、キリストの十字架と復活、すなわち罪(邪悪)の滅びと命の復活によってすでに勝利を収めている。つまり、勝敗は決まっている。だから、もはや心配することはない。だから、彼は次のように非常に高揚して宣言する。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(38-39節)。
 このような宣言はもちろん、一方的に見える。あるいはパウロの思い込みが強すぎるように感じられる。パウロのこの圧倒的な語り口は、ローマ帝国の首都にいる小さなキリスト者の群れ、それもおそらくユダヤ人キリスト者を抱えた群れに向けられている。この群れは、迫害や異端視が始まった帝国の首都という特別な状況の中にあるが、パウロは彼らに対してキリスト教の弁証とこれに連なることによる救いの確かさを、手を変え、品を変えて雄弁に語った。これらの言葉は、全体として「激励」であるように思う。それは一つ間違えば、殉教の勧めともなる。パウロは漠然と人生一般の事を語っているのではなく、新たに生まれたキリスト教共同体が困難の中にある中で、この共同体の存在する意義だけでなく、そしてその崩壊を防ぐために語り続けている。もちろん問題は外側にあるだけでなく、教会の内部にもある。ユダヤ教の特権性を主張する人々は他のキリスト者としての平等性を認められなかったのである。それにしても、パウロの二元論的な語り口、あるいは対決の図式は強烈である。そして非常に終末論的な観念的救済にふれている。そしてある種の決断を要求する。ローマの信徒への手紙の前半は非常に険しい印象がある。このテキストをわたしたちがどのような視点、あるいは切り口で読むべきかは、それぞれであるが、彼自身の意図にそって読むとき、わたしは彼の生きた時代とその共同体の人々の姿が浮かんでくる。彼らは、信仰をもった自分たちの未来にはっきりとした自信を持てなかったのではないか。そしてかえってユダヤ教的選民意識や律法の確かさになびくほかなかったのではないか。これに対して、パウロは終末論的な感覚を強く持ちながら、律法ではなく、神の霊に満たされた信仰というあり方によって、全く自由で互いに自然といたわり、励まし、仕えあう生き方を、様々な比喩や論理、時には詭弁をもちいて語り続けたのだと思う。このパウロの姿勢は、キリスト教が下火になった、あるいはまったく理解されなくなった時代において、かえって重要であるように思う。キリスト教の、あるいは聖書の新たな力は、まだ潜在性にとどまっているとわたしは思う。これまでの「ザ・キリスト教」というある種の権威や正統性にこだわるのではなく、パウロが生きた「ア・キリスト教」、権威も何もない、裸の教会をイメージしながら、キリスト教の豊かさを伝えなければと思うのである。