砧教会説教2017年2月12日
「悔い改めの洗礼」
マルコによる福音書1章1~11節
先週まで「ローマの信徒への手紙」を取り上げ、8章まで読み解いてきたが、この手紙ついては前半部で主な主張は終えているので、いったん切り上げておき、福音書に戻ろうと思う。わたしが砧教会にお世話になり始めて、間もなく2年半となるが、この間、福音書についてはルカとマタイを取り上げ、それぞれ主要な個所を読み説いた。本日からマルコによる福音書を取り上げたいと思う。
さて、ローマの信徒への手紙はパウロのキリスト理解が前面に押し出されていたが、そこには実際のイエスの生きた姿はほとんど顧みられていない。むしろ彼の十字架の死と復活信仰にのみ焦点が絞られ、その出来事の中にあらゆる人間のための贖罪の働きが全面的に展開されて、人間はその働きに対する信仰をもつことを通じて、最後の裁きを経て神のもとに憩うことができるとする救済論に至るのであった。もちろん、その救いは単に観念的独善的なものではなく、常にこの世界との、すなわちパウロの生きた1世紀後半のローマ帝国との対決を余儀なくされる。なぜなら、この世界こそが、罪(邪悪)に満ちているからである。それにしてもパウロの救済論は人間イエスの生涯をほとんど顧みていないが、それはパウロ自身がイエスをあまり知らないことによるのだろう。しかし、その弟子たちの働きを通して、イエスの現れた意味を知った(ダマスコ途上の回心が起点だとされるが、おそらくそうではない。彼はイエス運動の本質を分かっていたのだ)。そして彼はファリサイ派であることをやめたのである。すなわち、このイエスがイザヤの預言した「苦難の僕」、自己犠牲的メシアと理解し、世の完全な救済が彼において実現したことを確信したのであった。
しかし、このパウロの論理は結局、旧約聖書の贖罪論と救済史の図式を援用しているに過ぎず、イエスの活動のリアリティを看過しているように見える。もしパウロのキリスト論で十分なら、福音書はいらないのかもしれない。しかし、キリスト論の前提にはイエスの現実の活動がある。リアルな運動がある。その運動の中から人々の喜びと安心と「復活」が起こったのである。そのあとで、それを抽象化し、普遍化する中でキリスト論が完成していったのである。だから、旧約の伝統とは断絶がある。同時に旧約の枠組みにおいてキリストは受容されることになる。福音書は、その断絶の姿をとどめるが、残念ながらそれは部分的であり、かえって旧約的すなわち律法主義的(マタイ)・救済史的(ルカ)になるか、あるいはヘレニズム的な観念論(ヨハネ)へと展開した。しかし、最古の福音書とされる「マルコによる福音書」はかろうじてイエスのリアリティをとどめているように見える。例えば、マタイやルカにある誕生物語がなく、復活も微妙である。すなわちイエスの神格化の程度が高くない。もちろん、「神の子」としての観念化が見えるが、それはあくまで比喩であり、ヘレニズム的イデア論、観念の先行という考え方からは隔たっているように思う。
さて、マルコ伝の冒頭は「神の子イエス・キリストの福音の初め」とある。神の子という称号はおそらく付加。本来は「イエス・キリストの福音の始まり」。ただし、ギリシア語のテキストは日本語の語順とは全く逆。テキストの冒頭はアルケー(初め)だが、これはギリシア語訳創世記1章のエン・アルケー(初めに)を呼び起こす感じがする。
2節には「預言者イザヤの書にこう書いてある」とあるが、引用されるのは出エジプト記23章20節、マラキ書3章1節、そしてイザヤ書40章3節である。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」とあるが、「わたし」は神、「あなた」はイエスを指すように見える。しかし、出23章20節では「わたしはあなたの前に使いを遣わし」と訳されており、空間的先駆の意味合いで訳すが、こちらは時間的先行者の意味合いで訳す。それでも間違いとはいえないが、テキストは「あなたの顔の前」であるから、空間的先駆という感じがある(出エジプト記の文脈ではそう)。しかし実際はヨハネが時間的に先行するので、「あなたより先に」でもよいかもしれない。3節の「荒れ野で叫ぶ者の声がする」とは預言者の声だが、彼の預言はこれから出現する神ヤハウェのために道を整備せよという命令である。しかし著者はこのテキストを、バプテスマのヨハネとイエスの関係を表すために用いた。
そしてこの預言の通りに洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、「罪の赦しをえさせるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(4節)という。しかも、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆」とあり、非常に誇張しているものの、結構な人々を糾合していたように見える。
さて、ヨハネはヨルダン川で洗礼を授けたというが、それは罪の告白と一体となっている。つまり罪を言葉によって外に出すことと、洗礼すなわち水に浸かって身をきれいにすることによって、儀礼的・象徴的に罪は赦されるのである。この罪とは、ユダヤの律法違反のことであり、一般的な法令違反とはレベルを異にする場合もあるが、基本は同じである。しかしなぜヨハネの下に集まり、祭司のもとに行かないのか。ここが不思議なところ。本来、律法違反の取り締まりはもちろんレビ人、律法学者であるが、彼らは律法に基づいて判定するだけであり、それを赦すことなどできない。そこで祭司に頼って祭儀的に、つまり犠牲をささげることで贖うのである。つまり罪の赦しは「買う」のである。贖うとは実は負債を何らかの形で帳消しにしてもらうことだが、実際は(支払って)買い取る、買い戻すということ。この場合、罪といっても、それは単に犯罪ではなく、むしろ何らかの意味での不浄さ、穢れを意味する。それは儀礼的な律法に違反することであり、排除されるべきである。その結果、病気、生涯、職業に基づく差別が強化されていく。そしてその差別化、言い換えればカースト化が1世紀のユダヤ社会の病理であった。
洗礼者ヨハネはそのような宗教的社会的な制度的差別とカースト化を根本的に解体しようとしたように見える。彼はまず、人々を社会あるいは世間から引き離し、荒れ野へと呼び寄せる。そして罪の赦しとして、まず告白させ、犠牲ではなく、単にヨルダン川の水につかるだけでよしとする。これは支配層にとって、明らかに当時の宗教的制度を逸脱する非常に危険なものと映っただろう。ヨハネの運動についてはそれほど細かく書いてはいないが、当時のユダヤ世界においては画期的な宗教運動、あるいは体制批判的な運動であり、しかも新しい共同体形成をしたとも見えるので、大きな脅威となったに違いない。後に見るイエスの活動の本質は、かなりの部分をこの洗礼者ヨハネに負っているように見える。祭儀や儀礼を無効化し、ただ告白と洗礼だけで罪も赦され、自由となる。これは画期的な簡便さ、経済性(つまり犠牲など買う必要がない。おカネがかからない)を兼ね備えた宗教であった。
5節ではヨハネの風体が記されているが、荒れ野の修行者のようである。簡便な救済制度を作った背景には、都市的・文明的な社会とは反対の、非常に簡素で禁欲的な道を選んだヨハネの生き方がある。クムランの洞窟に隠れ、世の終末を待望した集団もあったらしいが、そうした荒れ野の隠遁者を想像することもできる。しかし、ヨハネはたぶんそうではない。彼はもっと過激だった。対決的であった。それは後に明らかとなる。
6-7節で、ヨハネはこう言っている。「わたしより優れた方が、後から来られる。わたしはその方の履物のひもを解く値打もない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。もちろんこれは彼の発言ではなく、後のイエスを格上げするための言葉であろう。要するに、ヨハネはメシアではなく、先駆者、あるいは露払いにすぎないことを示す。だから彼の洗礼運動はまだ真の救いには至っていないということである。後半の「聖霊で洗礼をお授けになる」ことの意味は何か。これは簡単なことである。つまり神の直接的な働きかけによってその人自身が丸ごと新しい人間に生まれ変わるということだ。水の洗礼は外形的なものにすぎない。真の洗礼は神の霊の降臨である。
真のメシアがやってくるというヨハネの宣言の後、イエスが登場する。彼は「ガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受け」たという。正確に書かれているように感じられる。しかし、より丁寧に考えると、イエスも罪を告白し、ヨルダン川に身を沈めたということだろう。イエス自身も、当時のガリラヤ、そして自分の故郷から離脱してきたのであり、さらに自分を新たにするために、罪を取り除きたいと願い、ヨハネのもとを訪れ、彼の指導のもと、ヨルダンの水に浸かったのである。しかし、マルコはそのあと、次のように脚色した。「水の中からあがるとすぐ、天が裂けて、霊が鳩のようにご自分に下ってくるのを、ご覧になった。そして「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた」。イエスは水の洗礼だけでなく、霊の洗礼を受け、さらに神の子として受け入れられたというのである。このように、イエスの洗礼は、単に悔い改めの洗礼によるイエス自身の問題解決という個人的な事柄ではなく、同時に霊による洗礼、すなわち神自身による「選び」あるいは「召命」というより大きな意味を担う事柄と重ねられたのであった。イエスの洗礼は、実は「召命」であるといえるかもしれない。
さて、悔い改めの洗礼が同時に召命であるということはイエスにおいて極まっているように見えるが、必ずしもそうではないような気がする。わたしたち自身の洗礼も、単に悔い改め、あるいは人生の区切り、あるいは再出発という主観的・個人的な意味づけを超えて、より大きな意味を持っているのではないだろうか。洗礼を受けることがこの世に対する新しい証しとなる、あるいはこの世に対する光として生きることを促すことにつながっていくということ。悔い改めの洗礼とは、新しい自分になるということだけでなく、神の国の実現に参与するということでもあるのだ。もちろん、そのことはこのイエスの洗礼の記事からはまだ何とも言えないが、やがてイエスに連なっていくことになる者たちは、ただの客ではない。自分の救い・利益だけを求めたのではない。自分も含めたこの世の人々の苦しみそれ自体のなくなる世界を幻に見たのである。
洗礼を受けるという外形的な事柄は、もちろん主観的には自分の生き方の転換を確認することであるが、実はそれだけでなく、この世の救いに自分も参与するという召命の側面もあると思う。だからこそ、「聖霊で洗礼をお授けになる」とヨハネに言わせたのだろう。イエスの洗礼とは水の洗礼ではなく、神との直接的なつながりを確認することである。それゆえ、わたしたちキリスト者は単なる神の客ではなく、神の霊によって共に働く者となるのである。