砧教会説教2017年2月19日
「荒れ野の40日」
マルコによる福音書1章12~13章
天が裂けて霊が降ってくるのを見たイエスは、同時に「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声も聞いたのだ、とマルコは語る(11節)。その後、しかし実際は、その霊はイエスを荒れ野に送り出すために降りてきたのだ。不思議なことだが、イエスはすでに荒れ野の預言者であるヨハネのもとにいるのに、再び荒れ野に送り出されることになる。これはおそらく別の意味を持つ。それは霊の降臨とその承認を受けたイエスを、本物かどうか試すために「孤独」にしたということだろう。ヨハネのもとではなく、彼ひとりで本当に立てるのか、さまざまは課題や困難を耐えうるのか、すなわち、神ヤハウェに信実であり続けることができるのかを試すのである。
いうまでもなく、このモチーフはヨブ記のプロローグを前提にしている。ヨブ記ではヤハウェとサタンの賭けの対象としてヨブの信仰がもてあそばれているように見える。マルコのこの記事でも直接神自身が登場することはないが、間接的に「霊」がイエスを荒れ野に連れ出すことで、この期間が何らかの試みの時であることは暗示されている。サタンが登場するが、サタン自身が直接イエスに働きかけたのかは、マルコ伝でははっきりしない。「サタンから誘惑を受けられた」と訳されるが、フランシスコ会訳では「サタンによって試みられ」となっている。どちらでもよさそうだが、試練という意味では「試み」のほうがよい気もする。ヨブ記におけるサタンの試みは、ヨブの破産、子供たちの死、そしてヨブ本人の重い病(おそらくハンセン病)であった。
しかし、マルコはイエスの試みの内容については何も語らない。マタイやルカではサタン(誘惑する者)が直接イエスに語りかけ、彼の神への信をこの世の富や権力によって打ち負かそうとする。要するに「信仰」を試すのだが、マルコでは話しとして面白くなるはずの要素が省略されている。このことについて思い出すのは、かつて(といってももう30年くらい前だと思うが)偶然テレビで見た小川国夫のイエスについての講話である。小説家の彼はイエスが「誘惑を受けられた」という個所について、イエスもこの世の様々な経験、よいことも悪いことも経験したのであるという読み方をしていたのである。要するに若いイエスは彼の生きたガリラヤやユダヤの世界で、一人の建築職人としてその時代の価値の中で生きてきたということである。もちろん、それは解釈としては無理もある。なぜなら、40日間という限定がされており、いかにも修業期間とされているからである。しかし、「誘惑を受けられた」という表現の背後にある、イエス自身が酸いも甘いも、辛いも苦いも経験したのだ、という見方はなぜか新鮮であった記憶がある。小川はイエスの人生それ自体が「誘惑」あるいは「試み」のうちにあったと解釈したのであるが、そのことはそれを知ったわたしたちに一つの希望を与えるという感じがしたのである。
もちろん、マルコはそうした意味で書いたのではない。イエスが誘惑に負けないように天使が仕えていたとされる。しかしよく考えてみると、天使に守られているなら、そもそも荒れ野に送り出す必要がない。つまりこのマルコの記事は物語の構造が破たんしているように見えるのである。イエスの強さ、イエスの信仰を見くびっているからこそ、天使によって守らせているように読める。しかしより正確にみれば、天使は仕えていたとされているので、かえってイエスは守られていたのではなく、天使を率いていたと見ることも可能だろう。つまりイエスの方が天使を守っているともいえる。そこまでではないとしても、天使よりも高い地位にいることは間違いない。
マルコにとって誘惑とはやはり、この世の力によるものだろう。ただし、荒れ野であるから「野獣」という素朴な力に還元してはいる。それでも、この野獣は荒れ野での様々な誘惑のメタファーでもあろう。かつて荒れ野のモーセは、様々な試練を受けた。それらはすべて煎じつめれば、事実上この世の権力や富と自由との闘争であった。しかし、イエスの場合は、小川国夫的にみれば、もっと日常的な、その時代の一人の男としてのいろいろなこの世の誘惑を経たということ、しかもそれに翻弄されて終わるのではなく、そこから新しい道を見出したということなのだろう。
さて、イエスの受けた試み、ないし誘惑には、小川のように一人の人間としての人生の様々な経験、とりわけ自己の人生を混乱させ、ときには破壊するようなことが含まれると考える時、そしてそれらを経てイエスの新しい活動が始まったと考える時、わたしたちは小さな勇気が与えられる気がする。イエスという名の一人のガリラヤの大工が、ヨハネの弟子となり、しかも新しい霊を受け、神の国の到来を告げ始めるが、その前に彼は試みを受けていた、つまり彼自身も大きな困難の中にあり、そこを潜り抜けたうえで、新しい活動を始めたのである。イエスは試みを経ている、だからこそ、彼は試みのうちにある人々を励ますことも自然とできたのではないだろうか。
さて、今わたしたちはどんな試みのうちにあるのだろうか。一人ひとり違うのは当たり前だが、多少とも一般化して言うと、一つには人生の長さと健康への不安ということ、二つには社会の仕組みが急速に代わってしまい、これまでの常識が役に立たないということ。三つ目に、それに伴って日々の暮らしの基盤である家族や地域の関係が壊れ始めたことなどが思い浮かぶ。特に気になるのは、二つ目の社会の仕組みの急速な変化である。わたしも含めて、すべてが分業化され、コンピューターやロボットが変わりに働き、同時に人間もそれと同じように働くようになった結果、生きる意味のようなことを考えることができにくくなった。もはや食料の基本である米や麦は人手がなくても何とかなるほど、効率化された。農民とう言葉ほとんど死語なのではないか。一昨日新聞で見たが、様々な対応ができるようプログラムされたアイドル風の女の子のロボットを作ったということで、いろいろな場面で今後利用されるだろうというのである。そして通称は「アンドロイドル」、つまりアンドロイドとアイドルを重ねた名であった。それを囲んで三人の中年の男がにっこりしている写真が載っていた。もはや生身の人間ではなく、それを模して造られた精巧なアンドロイドルで男たちは満足げである。このようなある種の気持ち悪さが楽しげに語られているのは、恐るべき誘惑、試みではあるまいか。
もうひとつ、東芝というよく知られた巨大企業の破たんの顛末である。ほとんど信じられないが、巨額の損失を隠蔽して去年問題となったが、新たにまた数千億円の損失が生じ、万事休した。原発に手を出し、それを儲けの種にしようとしたのだが、完全に失敗した。ある情報によれば、彼らは3・11以降も、原発への反省は全くなかったようで、東芝の広報を読む限り、彼らの立場は事故以降も全く変えていなかったというのである。要するに、東芝の首脳陣は自分たちが完全にこの世から取り残されていることを認めようとなしなかったのであり、その結果、このような時を迎えるほかなかったのである。
しかし、それは東京電力も同様で、安全にかかわる問題を全く見落としたままで、審査書類を上げていたことが発覚し、原子力委安全委員会の委員長も新潟県知事も怒り心頭のようである。この国の底が抜けたといえるほど、名門とされた企業の退廃が進んでしまった。にもかかわらず、まだこのままいくほかないという勢力というか、その力の誘惑、試みが強いのはどうしたことだろう。
言い始めればきりもないが、このような社会の構造の解体が進む中で、希望はあるか。日本は企業を一つの村として生きてきた時代が長い。つまり企業は共同体であったが、それも終わった。そして都市は巨大なスラムに代わる恐れさえある。あのローマがわずか数日(410年8月24日からの三日間)でゴート族に略奪されてしまったように、砂上の楼閣と化した都市はもろい。例の豊洲市場問題を見ても、危うさは深刻である。
さて、イエスは40日の誘惑を経た。それは40日40夜のノアの時代の洪水や40年に及ぶモーセと民の荒れ野の旅を想起させる。それらは非常に大規模であり、長期に亘るものであるが、両者とも、ある種の試みである。イエスもまた、その経験を経て、新たに出発した。とするなら、今の私たちも、この時代に翻弄されつつも、しかしそれらは超えることのできる試み、ないし誘惑であると考えるべきだろう。ただ嘆いたり、呆れて見せたり、あるいはあきらめたりするのであってはならない。神の霊によって守られつつ、試されているのであるから、きっとわたしたちは新たに始めることができるのである。現にわたしたちは教会に集っているが、ここは(いやここに集うことができない人々も含め)その霊が引き続き降っている場所であり、また時である。そのことに思い至る時、わたしたちはいかなる時代でも、そしていかなる人生の季節であろうとも、新しい、いや完成した世界を感じ取ることができる。いや、そうした世界をすでに実現しているとさえいえるかもしれない。わたしたちはいつも、新しく始めることができる。なぜなら、誘惑や試みは結局、新しい始まりの序曲に過ぎないのだから。これはもちろん、強がりではない。キリスト者は本当に強いのである。なぜなら、すでに完成を知っている、あるいは確信しているのだから。