日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2017年2月26日
「たわごとを言う者」ミカ書2章6~13節
 この断章は、支配階級の人々によるミカたちに対する非難があったことを示すとともに、そうした非難に対する皮肉に満ちた反応にもなっている。先行する1-5節で支配層の搾取行為に対する批判と審判が語られたが、それに続くこの断章は、預言者ミカとその仲間に対する、おそらくエルサレムの街頭での揶揄や難癖の風景を想起させる言葉である。
 6節の「『たわごとを言うな』と言いながら、彼らはたわごとを言い、『こんなことについてたわごとをいうな。そんな非難はあたらない。』」という冒頭の言葉にある「たわごとを言う」と訳される言葉(ナーターフ)は元来、「よだれを垂らす」という意味で、これはおそらく神の霊に憑かれた人が忘我状態になって言葉を発する様子をやや軽蔑的に表現したものとみられる。したがってここでは「たわごとを言う」という訳にしたのだろう。フランシスコ会訳は「預言する」という訳にしているが、ニュアンスは同様である。出だしの「たわごとを言うな」という否定命令は、あきらかに前に言及された支配層の金持ちや搾取する者たちからの、ミカたちに対する直接の言葉であろう。2章1-5節でミカに非難された人々からの反応である。この反応をミカは逆に「たわごと」であると断ずる。しかし、相手はさらにいう「こんなことについてたわごとを言うな」と。「こんなこと」とは貧困化した人々から搾取することであろう。この程度のことは別に悪いことではない、貧乏になったのはその人のせいであり、自分たちは恵まれたのである。彼らは何らかの理由があって、つまり罪があってそうなったのだ、だから「そんな非難はあたらない」という。さらにミカたちの預言に対して「ヤコブの家は呪われているのか。主は気短な方だろうか。これが主のなされる業だろうか」(7節前半)と、先のミカの審判預言の内容を小ばかにしている。主はおまえたちがいうほど気短ではない、怒るのに遅い方であるから、そんな裁きの出来事などありえない、というわけである。
 7節後半からミカの言葉。「わたしの言葉は正しく歩む者に益とならないであろうか」(7節後半)と語り、正しく歩む者、すなわちミカの言葉を真の預言として信じる者には有益であるという。これは自画自賛に見えるが、そういうことではなく、ユダ王国の危機をまともに見据えている者たちにとって当然のことである。
 8節は「昨日までわが民であった者が敵となって立ち上がる」と訳されるが、これはテキストをそのまま訳したものだ。ミカ書のテキストの伝承が不完全と思われるが、特に8節は読み替えの指示や読み替えの提案が多い。校定本の注によれば8節の最初の二語は「お前たちがわが民に」と読むべきであるとされている。新共同訳は本文をそのままとしたうえで訳しているが、フランシスコ会訳は読み替えを支持する訳で「お前たちは、わたしの民に対して、敵として立ち上がった」とする。おそらく後者がよいだろう。ミカにとって、自分たちを揶揄し、批判する「たわごとを言う」者たちは、民衆の敵となったのである。ミカは自分たちの民が分断されたことを嘆く。この敵となった者たちは「平和な者から彼らは衣服をはぎ取る、戦いを避け、安らかに過ぎゆこうとする者から。彼らはわが民の女たちを楽しい家から追い出し、幼子たちから、わが誉れを永久に取り去る」(9節)。つまり、女たちは没落し、子供たちは売られていく。
 このような事態に対して、「立ち去れ、ここは安住の地ではない。この地は汚れのゆえに滅びる。その滅びは悲惨である」(10節)と続く。これは誰に向かって言っているのだろうか。おそらくたわごとを言っている者たちにだろう。彼らの罪のせいで、このユダ王国は全体として罰を受けることになるのだ。
 11節は意味がとりにくい。しかし、おそらくこれは皮肉である。ユダの滅びのあと、酔っぱらって預言を聞かせる者こそ、憐れむべき「たわごとを言う者」とされるのである。
 12-13節は明らかに後代の付加的預言である。12節はヤハウェの言葉として語られ、13節は語り手による脱出の描写である。これはミカの非難や審判の言葉の実現、すなわちアッシリアやバビロンによる破壊や占領、捕囚を経験した人々による付加であろう。ミカの預言は実現したが、今度はその先の、未来への希望の言葉を付加したのであろう。「イスラエルの残りの者」とは紀元前722年の北イスラエルの滅亡、紀元前587年のユダ王国の滅亡という2度の破局を経たのちの、残りの者である。しかし単にこの経験を逃れ、かつ世代を超えて子孫として残っているというつながりだけが問題なのではなく、ヤハウェへの信を持ち続けた者たちのことである。そのような者たちが集められ、「羊のように囲いの中に、群れのように、牧場に導いて一つにする」と言われる。さらにおそらくはバビロンの門を打ち破って、外に出る。ついに捕囚の時代と決別する。そして「彼らの王が彼らに先立って進み、主がその先頭に立たれる」と語る。おそらく「彼らの王」と「主」は同格であり、現実の王とヤハウェとが併存しているとみるべきではないと思われる。

 さて、「たわごとを語る者」というやや侮蔑的に響く表現を使わざるを得ない状況が現在、至る所にある気がする。最近ではアメリカのトランプ大統領の発言を聞くたび、「たわごとを言う者」というにふさわしい気がするが、彼自身、メディアを「たわごとを言う者」とみているのである。そして、彼にとっては「もう一つの真実」があって、そちらが信頼すべきものであるという。こうして事実よりも、その人にとっての真実、自分にとって都合の良い解釈こそが真実である。それを多くの人々が共有すれば、世界を変えることができる。こうして嘘でもなんでもともかく多くの人々が真実らしいと認めれば世界は変えられていく。恐ろしい時代に入ったものだとつくづく思う。しかし、こうしたことは今に始まったことではない。嘘も繰り返していけばいつの間にか真実のようになってしまう。これを用いたのはナチスであり、大日本帝国の参謀たちであった。もちろん中国共産党もスターリニズムのソ連も。しかし現在ではそうした強権的な手法を用いずとも、SNSを駆使すればしろうとでも一定程度「嘘も真実」に変えることができる。人は見たいものだけを見る習性があるようで、なんとなくある事柄にとらわれると、ネット上のその事柄に関する情報に浸ってしまう。その結果いつの間にかその事柄が真実となってしまうといわれる。
 ところで、ごく最近では大阪の国有地払い下げにかかわる非常に奇妙な「事件」が取りざたされている。神道の小学校を作ろうとした学校法人に格安で国がその土地を売ったという「事件」である。これに関して、安倍首相の名を冠した小学校にするという法人側の意向があったとされ、しかも首相の妻が名誉校長だという(昨日辞任したらしい)。あまりにも不可解、かつ不当な行為が平然となされ、それが問題ないかのような答弁を財務省の高官がしている。これを「たわごと」と言わずに何と言おうか。言葉の力が見くびられる時代になってしまった。さらに加えれば、共謀罪をめぐる法務大臣のあまりにずさんな発言、そして以前にも言及した防衛大臣の「戦闘行為では法に触れるから、言葉を変えた」という趣旨のトンデモな答弁。もはや予算委員会は「たわごと」であふれてしまった。
 言葉の力が見くびられているということは、それを聞く人間も、もはや見くびられているということだ。非常に深刻な時代となったと思う。しかし、わたしはやはり「言葉」で勝負しなくてはならないと思う。預言者ミカはおそらく当時の支配層の腐敗した姿、悪辣な行動に対して、言葉で戦ったのだと思う。そしてその言葉を、その当時から、信頼に足るものであることを感じ取った者たちがいた。
 話は飛ぶが、こうした言葉の真実性に関して、長崎と別府を訪れた中でいろいろと考えた。日本とヨーロッパが初めて出会った16世紀後半の九州地方を思い浮かべたとき、確かにヨーロッパとの貿易の利もあったとしても、つまりは実利への関心が強いとしても、それとは別の次元の、「言葉」への、すなわち福音への信頼が確かにあったと思う。むしろその力が勝ったからこそ、キリスト教は一時、隆盛となったのだろう。しかし、その言葉はほとんど完全に排除された。豊臣から徳川の初期にかけて、キリスト教はたわごととされ、弾圧された。裏を返せばその「たわごと」を恐れたのである。なぜ恐れたのだろうか。一つには日本の独立性を脅かす植民地主義と結びついた宗教であったからだが、もちろんそれだけではない。それが日本の文化それ自体を破壊する力が持つと見切ったからかもしれない。では日本の文化とは何か。それは差別と排除を前提した社会システムと巨大な奴隷制ではないだろうか。私たちは瑞穂の国として弥生時代以来米作を基本に豊かな田畑を耕し生きてきたが、しかしそれは膨大な数の農奴と一握りの貴族・豪族の支配する巨大な奴隷制国家だったのではないか。それがほころびを見せたのが応仁の乱以降の戦国の日本であった。だから一向一揆もおこった。そしてキリスト教の言葉も確かな手ごたえをもって広まったのだろう。一向宗もキリスト教も、現世否定と平等を基本に据えている。そしてそれは言葉による革命である。ただし一向宗は武力闘争に至った点で、限界を露呈したともいえる。キリスト教は最後まで言葉で勝負した観がある。その強さにたじろいだのが豊臣と徳川であった。日本システムのほころびを繕った二人は、それゆえキリスト教を「たわごと」と決めつけるほかはない。そしてその「たわごと」のない日本こそが真の日本であると考えたのだ。
 今、文脈は違えども、そうした「たわごと」を排除したいという流れが強まっている。「たわごと」すなわち「福音」を守る力が試されている時代になっていると、短い旅を終えてつくづく感じている。