砧教会説教2017年3月12日
「教えるイエス、病を癒し、悪霊を追い出すイエス」
マルコによる福音書1章21~34節
木曜日(3月9日)は二つの行事に参加してまいりました。一つは午前中、玉成保育専門学校の卒業礼拝。こちらは私がこの3年、説教者として招かれております。もう一つは午後、聖公会神学院の卒業式。こちらは初めて参列しました。非常勤講師、しかも教派が違いますし、特に義務でもないので遠慮しておりました。だた、もう講師を初めて4年目となり、多少責任感も出てまいりましたので、今年は参列いたしました。すると、私の斜め前に国安啓二先生もいらっしゃいました。
玉成保育のほうは学生と教職員、理事長。今年の卒業生は少なく、40名程度でしょうか。一年生は実習のためほとんど参加できず、小さな会でした。他方、聖公会神学院のほうは礼拝堂に入りきれないほどで、途中の聖餐式は葡萄酒をつぎ足すため、一時滞るほどでした。
どちらもこの時期ならではの行事です。今年は日本聖書神学校の卒業式には出られなかったのですが、服部基金からの奨学生の大谷昌恵さんには祝意をお伝えしました。彼女からも教会の皆さんに感謝を伝えてほしいとのことでした(ちなみに番町教会の担任教師としてお働きになるそうです)。
こうした行事に触れるたび、わたしはキリスト教の力、可能性を強く感じるのです。それぞれの学校の種がまかれたとき、それは非常に小さいものでした。しかし、時を経るにつれ、そこから多くの学生や教職(牧師や司祭)が巣立ち、様々な場所で働き、また奉仕しているのです。このような場所を創る力はどこから来るのか、なぜそのような場所を創ろうと考えたのか。もちろん、神学校は伝道のためといえます。しかし、日本にそうした学校を創るのは、もっと具体的な目的がある、あるいは伝道の中身自体にもっと具体的な中身があるという気がします。そして玉成保育専門学校のような学校はその目的は明瞭ですが、それでも、単なる保育ではなく、もっと具体的かつ本質的な目的があるような気がします。
一言でいえば、学生たちにイエスの働きを伝え、その実践を働きかけることではないか。そのように思うのです。それぞれ学校ですから、教育や神学に関する理論や様々な方法について学ぶのですが、それらの根っこには非常に素朴な、イエスの働きへの深い感動や驚嘆が絶えず存在していると思うのです。そしてそこからすべてが始まった気がします。そのような感動や驚嘆を最も原初的な形で残したのがマルコによる福音書、つまり最古のイエスの伝記的文書です。私たちはマルコを読み始めたのですが、弟子たちを集め活動し始めたイエスの集団はそもそも何を始めたのか?今日はそのことを顧みながら、原初の感動と驚嘆に私たちも触れたいと思います。
さて、今日の最初のエピソードは悪霊退治です。昨年、ルカ福音書を講解したときはやや深読みをいたしましたが、それが良いかどうか今はわかりません。今日はテキストの字面をしっかりと読みたいと思います。イエスと弟子たちはカファルナウムに来ました。この町もガリラヤ湖のほとりに近い町です。「イエスは安息日に会堂に入って教え始められた」とされています。なんだか不思議な感じです。この会堂とはユダヤ教のシナゴーグのことで、安息日に聖書を読み祈り、学ぶ場所です。イエスはそこでユダヤ教のラビ(先生)のように教えているようです。実際イエスはラビと呼ばれている箇所もあります。しかし、イエスが律法学者のような教師であったわけではない。会堂では自由に人々が語り教えあっていたように見える。だから専門的な教師だけでなく、教えたい人が教え、学びたい人が学ぶという形のようである。イエスは教えたとされますが、いったい何を教えたのでしょうか。そこには触れていません。ただ、人々の驚きがあったことだけ伝えます。「律法学者のようではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。律法学者とはモーセの律法を解釈し、その時代と社会に適用するためにいろいろ解釈し、何が正しい生き方か、生きていくうえで罪とはなにか、犯した罪を帳消しにするためにどんな犠牲をささげるべきか、を縷々と教え、ユダヤ教的な生き方を厳密に教えています。彼らは解釈し、それに従うよう促す教師、導き手です。では、権威ある者とはどのようなものか。それは何かについて解釈するのではなく、自分の言葉で真実を語る者でありましょう。つまりその人の言葉に触れるとその人に従いたくなるような、カリスマを持った人です。解釈ではなく、新しい律法自体を生み出す、新しい規範を生み出す、そういう人物であるということです。その力は単に言葉として心に響くといったレベルのものではありません。その力は実際に威力がある。それがこの悪霊が追い出されるという出来事です。汚れた霊とは何かよくわかりません。しかし、聖霊と反対ですから、これは邪悪な力です。では彼にとりついているその邪悪な、汚れている霊とはどんな悪さをしているのでしょうか。単に精神病のことだろうか。今はやりの言葉でいえば心の病でしょうか。そういう考え方もできますが、それならば医者が必要とされるはずです。しかし、悪霊憑きのような状態は医者を必要とするより、何か丸ごとその人を転換させてしまうような権力が必要な状態です。身体的精神的病というより、もっと広がりのある病理、共同体全体を覆う力に翻弄されていた人々の一部に現れる社会的共同体的病理のようなものでしょう。だから部分的な、対症療法的な医術ではどうにもならない。もっと根本的でかつ広く無意識にまで広がっている何かにまで迫る圧倒的な権力、支配力が必要なのです。ここで「権威」と訳されている言葉はエクスウシアで、何かをなしうる自由、権威、権能、支配力などの意味です。権威という訳ですと何となく「とても偉い」「近づきがたい重みある」という感覚がありますが、それよりも「圧倒的な支配力」があるというのが正確な意味です。つまりイエスにはそのような大きな力があった。人々にとりついて排斥されるか、逆に人々を恐れさせている悪霊の力などものともしない圧倒的な能力あるいは自由を、イエスは帯びていたということです。だから悪霊はこう叫ぶのです。「ナザレのイエス、我々を滅ぼしに来たのか。正体はわかっている。神の聖者だ」(24節)。すでに悪霊のほうがイエスを正確に理解しています。「神の聖者」つまりイエスはすでに人間を超えた力を帯びているということ。彼は部分的な力、例えば医者だとか大工だとか、律法学者だとか、預言者だとか、そうした一属性に従って呼ぶことのできない人間である。だから「神の聖者」である。イエスが悪霊に命じると、彼らはその人から出て行ったという。「権威ある新しい教えだ」と人々は驚きます。しかし、これは教えというべきものでしょうか。これは業(わざ)というべきでしょう。しかしやはりそれは言葉の力、つまり「命じる」という言葉の力です。命令するというのは言葉の利用ですが。挨拶する、説明する、出来事を伝えるとかいう言葉の働きとは違います。命令するとは、それによって動作が始まるということです。つまり命令された人間が活動するということです(逆に活動を拒否するという強い意思表示も促す可能性もある)。イエスは説明したり、お話したりすることもありますが、基本は命令です。つまり「何事かをなせ」と相手に要求するのです。「この人から出ていけ」という命令こそ、民衆には新しい言葉、新しい教えなのです。彼には行動を促す力ある言葉がある。すでにマタイ伝でみたように、山上の説教もやはりほとんどが「命令」でした。その命令の言葉になぜ従うのでしょうか。従わないと恐ろしい目に遭うから、つまり罰を受けるから、でしょうか。つまりイエスは罰する力を持っているのでしょうか。そうかもしれません。すくなくともマルコもマタイもそう考えていると思います。しかし、本当はそうではない気がします。それに従うのは、喜ばしい、あるいは頼もしい、安心であるからではないでしょうか。彼の命令に従ったほうが「有利」である。幸福になれそうだ。そういう直感です。なぜなら、イエスは単に大工の子であり、ヨハネの弟子にすぎません。彼には人を従わせるこの世の力、つまりお金の力や武器の力はもともとない。それなのに悪霊は従う。そして人々も従うのです。だから彼に従うほうが幸福になれるというのが本当のところだと思います。もちろんそう感じない人もいるのですが。
さて、イエスの権威の評判は瞬く間にガリラヤ地方に広まったようです。その後一行はシモンとアンデレ兄弟の家に行く。ヤコブもヨハネも行く。つまり漁師4人が行くのです。するとシモンの姑(しゅうとめ)が熱を出して寝ていたといいます。シモンの姑とはやや変な表現ですが、シモンには妻がいてその母親と暮らしているということでしょう。イエスはさっそく彼女を癒します。「夕方になって日が沈むと、人々は病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れてきた」といいます。一見、イエスを医者に見立てているようですが、この人々は病気も悪霊憑きもこの世界の悪や自分自身の罪の結果とみていたのでしょう。だから医者ではなく、この世の権威を超えた、つまり悪も罪も取り除く真の神の権威の到来であると直感したのです。
さて、人々を教え、病を癒し、悪霊を追い出すイエスの姿は、実はこの世の力、この世の罪、この世の束縛を乗り越え、清める、解き放つ「神の聖者」といいうるものです。このイエスの働きを、教会は2000年にわたって守り、引継ぎ、実現してきたのです。そして冒頭に述べましたように、神学校や専門学校のような教育機関を基礎教育の場として建てたのです。
最後に一言触れておきます。7年前の3月11日の東日本大震災と原発の巨大事故によって今なお多くの人々が大変な思いをしています。特に原発事故は故郷を追われ、離散した家族も多い。しかも数十年にわたって帰ることが困難な場所がある。このことを大きな悲しみ、怒りをもって思い起こすとき、その思いをしっかりと行動に結び付けなくてはなりません。「あなたは誰の隣人になったか」、イエスの命令を聞いて、実行したか、問われる時が必ず来ることをキリスト者は信じています。その問いに堂々と答えることができるよう、改めてイエスの働きに思いをはせたいと願うものです。