砧教会説教2017年3月19日
「イエスに響いたミカの預言」
ミカ書3章1~12節
AFPの最近の記事(3月17日)で中国政府に批判的な芸術家として知られるアイ・ウェイウェイの作品が取り上げられていた。現在、チェコのプラハ国立美術館という由緒ある場所で難民をテーマにした巨大アートを展示しているという。なんと長さ70メートルのゴムボートに258体の人形を乗せた大掛かりなもので、全体が黒。写真で見てもすごくインパクトのある作品である。周りには海に飛び込み、救命胴衣やいかだにつかまっている姿の人形もある。地中海におぼれ、沈みゆく難民の悲惨は政治の貧困、無策にあるとする彼は「政治家や政治団体に属する身であれば、目先のことしか見えてないのはだめだ。将来への展望がないのも、人間としての尊厳や人権より政治的利益を優先するのもだめだ」と率直に語る。中国の政治の問題もアフリカや中東の難民の問題も、彼にとって人権の抑圧であり、政治の不作為や失敗、政治家の利得によって引き起こされているのは間違いないという。それを端的に伝えるこの中国系の芸術家の作品は、わたしからみれば極めて預言者的である。芸術家は時に預言者的であるが、彼はまさしくそうである。前世紀末からの劇的なグローバリズムの勝利によって世界の大半は浮かれてしまった。しかし、そうした表層的な喜びとは別の次元で、民衆の貧困、それに対応するファシズムの増長は顕著である。アフリカ、中東だけでなく、この北東アジアも、いつどうなるかわからない、そんな状況が続く。
そんな中、わが国も森友学園の小学校設立にからむ不正の露見とともに、それに関わったと推定される官僚、防衛大臣、首相夫人、はては首相自身まで疑惑が広がっている。多くの日本の国民は驚き呆れ、怒っている。さらに南スーダンの戦闘状況についての報告書が隠ぺいされていたことが露見し、防衛省全体に特別監察が入るという。
こうして政治家も行政も全体として劣化していく中で、多くの人々が不安と疑いを持ち始めている。もちろん、このような状況が若い人々にとってスタートラインなので、そこから始めるほかはない。難民の人々であっても、やはりそこから始めるほかはない。しかし、現状を放置すれば、まともな未来はやってこない。それどころか未来自身が閉ざされてしまうかもしれない。現代はそうしたどん詰まりの時代に差し掛かりつつある。
しかし、こうした閉塞状況を打ち破ることは可能であろうか。わたしはもちろん可能であると思う。そしてその力こそ、わたしたちの信じるキリストの福音なのである。繰り返しお話しした通り、イエス・キリストの時代もまさにそのようなものであった。しかし、そのもっとはるか手前、やはり自分の生きている世界の非常に深刻な退廃と危機の中で、それを真剣に受け止めた人々がいた。その中の一人、紀元前8世紀の預言者ミカはその時代のユダとその首都エルサレムに対して極めて厳しい態度をとったと伝えられている。この時代、台頭してきたアッシリアによって多くの人々の血が流され、北イスラエル王国は滅亡していくが(前722年)、このような世界情勢にあってもなお、実のところエルサレムとユダの住民は、まさか自分たちがそんな破滅に至ることなどあるまいと考えていた節がある。いつの時代でも、自分は、わたしたちは大丈夫という根拠のない漠たる希望を持ちながらたいていの人々は生きていた。しかし、歴史を導く神の意志を深く理解する人々もいたのである。
預言者ミカは、同時代のイザヤと共に、この難局にあたって権力を持つ人間の罪深さを告発する。そして権力者たちのいる都エルサレムそのものの滅亡を預言したのである。
1節ではイスラエルの指導者の腐敗や堕落を告発する。「ヤコブの頭、イスラエルの家の指導者」に向かって「正義を知ることが、おまえの務めではないのか」と問い始める。まさしくその通りであるが、そのような問いかけにまともに答える者がどれほどいたのだろうか。そもそも、「正義」とは何か。一言でいえば、モーセの律法に従うことである。ただし律法には煩瑣な規則もたくさんある。それでも、その根幹となるものは誰でも知っている。すなわち十戒である。そのうちの半分、すなわち「殺すな」から「隣人の家を欲してはならない」までの五つの掟がまさに重要だと思う。これらは根源的な法である。つまり、各人の尊厳を守ることを厳しく命じているからである。例えば「殺すな」にある「殺す」という言葉の意味は正確には人間を謀(はかりごと)によって亡き者にすることであり、それによってその人の命だけでなく彼の持つそれ以外の権利を略奪することである。命の尊厳、大切さと一口に言うが、単に命があるということでは十分ではなく、命を前提とした一人の人間の自由と尊厳が確保されなければほとんど意味はない。例えば自民党改憲草案では「個人として尊重される」という文言を「人として尊重される」にしたが、これは種としてのヒトを尊重するというだけのことで猫や犬という種ではなく人として扱うという程度の意味でしかない。つまり人としての命は最低限守るが、それ以外は知らない、あるいはそれ以外は言うことを聞けというものである。
わかりやすく言えば、「殺すな」とは「自由を奪うな」ということである。この第6戒の各論が実は残りの7-10戒律であるといってよいだろう。
残念ながら、この正義は失われている。なにしろこの指導者たちが「善を憎み、悪を愛する者」となり、「人の皮をはぎ、骨から肉をそぎ取るもの」なのである。3節は非常にどぎつい描写に見えるが、家畜の屠殺と解体を日常において行っている世界ではありうる描写である。しかし、それにしても刺激的である。要するにこの指導者たちは民の貧しい人々を搾取し、飢餓に陥れ、結果殺しているのだ、とミカは糾弾している。はたしてこんな悪辣なことが本当にあったのだろうか?そこは神の都ではなかったのか、モーセの律法の板が安置された神殿があったはずではないか?
おそらく現実はこの通りだったのだろう。なぜなら、イザヤもほとんど似たような告発を繰り返しているのである。ということは、モーセの律法など実は力がなく、ほとんどどこにでもあるような差別と貧困、権力ある持てる者とそうでない者の不平等が全く普通の社会であったということだ。
しかし同時に、ミカのような預言者も存在することができたのは、モーセの律法と神の救いの出来事への信仰も生きていたということだ。貧困はその人の弱さの結果であり、病になるのもその人の罪の結果だ、したがってその人の命が失われようと、その権利が略奪されようと、それ自体が宿命であるかのように(奴隷が奴隷として生まれたのが宿命であるとするのと同じように)、権力ある者たちは都合よく考えたいたのかもしれないが、ミカは全く違う。それはお前たち支配者の罪であり、お前たちの悪の結果であるとする。
しかしながら、そのような指導者たちに本来審判を語るべき預言者たちも堕落しているとミカは語る(5-7節)。預言者たちは自分の利益によって預言している。「彼らは歯で何かを噛んでいる間は平和を告げるが、その口に何も与えない人には戦争を宣言する」。これはおそらく、金品をくれるなら平和と勝利の予言を、そうでなければ戦争の敗北を告げるということなのだろう。ありがたい託宣がほしければお金をよこせというわけである。彼らは、権力者たちの慰めの道具と化した、おそらくは神殿の祭儀預言者たちではないだろうか。
彼らに対してミカは審判の言葉を告げる。「それゆえお前たちには夜が望んでも、幻はなく、暗闇が臨んでも託宣は与えられない」。もはや神の言葉は彼らには訪れないという。しかし、そもそも彼らには真の託宣や幻があったのだろうか。彼らはすでに自覚的に神を捨てていたのではないだろうか。いや、そのような自覚があったとは思われない。むしろ、神の言葉を聞く、幻を見るということ自体が形式化ないし儀礼化しており、その中でやはり形式化した託宣をまるで神意であるかのように語りうる技術を身に着けていたのであろう。ミカは神が、そうした儀礼的な預言行為さえできなくなるという「恥」(7節)を預言者たち与えるであろうという。
このような事態に直面するミカは、いやミカだけが真の預言を語るのである。それは最も深刻で険しい言葉であった。すなわち都の崩壊、エルサレムの終わりである。彼は9節以下でイザヤと並ぶ辛辣さで現状を描写している。「ヤコブの家の頭たち、イスラエルの家の指導者たちよ。正義を忌み嫌い、まっすぐなものを曲げ、流血をもってシオンを、不正をもってエルサレムを立てる者よ。頭たちは賄賂をとって裁判をし、祭司たちは代価を取って教え、預言者たちは金をとって託宣を告げる。しかも主を頼りにして言う。主がわれらのうちにおられるではないか、災いが我々に及ぶことはない、と」(9-11節)。頭とはこの場合、王の官僚の一部だろう。王に裁判権はあるが、もちろんいちいち王が裁定するのではない。司法権が独立してはいないので、エルサレムでは官僚だろう。他方、地方の町々では長老の権威のもとに裁判が行われていたはずである。
ミカによれば、指導者たちの言う口先だけの神への信頼など無意味である。すでに神の審判は決まっている。「それゆえ、お前たちのゆえにシオンは耕されて畑となり、エルサレムは石塚に変わり、神殿の山は木の生い茂る聖なる高台となる」(12節)。ミカは都エルサレムの完全な破壊を預言したのである。これは非常に深刻なことばであり、一体このような預言を語ってなお、生きていることができたのであろうか。
ミカの預言はやがて実現した。もちろんしばらくたってからである。それはエレミヤの時代、紀元前6世紀前半のことである。エレミヤがミカのこの預言を引用している(エレ26章18節)ことから、ミカの預言は120年後も伝えられていた。ということは、こうした預言を語り、伝える人々が確かにいたということである。そして、今日の題のとおり、おそらくこのミカの預言は、イエスの神殿崩壊の預言にまで響くことになった(マコ13章1-2節、ルカ21章5-6節)。イエスも、彼の生きた時代のエルサレムの支配者、神殿の祭司たちの堕落を深刻に受け止めたのである。それだけでなく、時代そのものを全くの邪悪な時とみなしていたのだろう。それゆえ神の意思から離れてしまっている神殿など単なる人の業に過ぎないものとみなした。そして神の真の支配の前に現在の堕落したエルサレムの神殿などとるに足らないものだと決めつけたのだろう。ミカとは時代も状況もう違うが、民族の精神的宗教的な原点の破滅を預言することは深刻な対立を招来しただろう。
果たしてミカはどうなったのかわからない。あるいはひそかに語っただけなのかもしれない。後世への証言として。しかしイエスは公然と語ったと思われる。それゆえ、エルサレムとその支配者にとって完全に敵となったのである。そして彼は十字架への道を歩むほかなかった。
多くの者は彼らのような深刻な預言を前に何をどうしたらよいのか途方に暮れただろう。そして今を生きる私たちも同様である。それどころか、彼らのような預言者を全く愚かなたわごとを言う者とみなして、相手にしないかもしれない。そして彼らを裁き、十字架につけてしまう側に回ってしまうかもしれない。しかし、このテキストを読み、そしてキリストの思いを聖霊として受け取る人々は、必ず自分たちの生きている場所、時代の困難に立ち向かうであろう。なぜなら、そうしなくては自分たちの自由を、すなわちキリストとともにある命を捨てることになってしまうからである。もちろんその命とは、惜しんでいる自分の今の命ではない。それは「復活の命」というべき、新たな命のことである。私たちはミカのこの深刻な預言とその実現を覚え、さらにイエスの預言とその歩みに倣い、同時に復活の命にあずかる者として、自分の生きているこの場所と時代の真の姿と向き合うことが求められているのである。もちろんそれはなにも大きな課題やメディアを賑わす話題ということではない。自分にかかわる真の課題、自分の向き合うべき課題でよい。それこそ、自分の生きている場所と時代の問題であり、実はそうした小さな問題こそ、時代の、世界の真の問題である。というのも、神は最も小さき者、小さき場所に現れるのだから。その小さな問題を見過ごすものは、実は最も神から遠いのである。そもそもミカの問題意識は、あるいはイエスの問題意識は、最も小さき者、いや小さくされた者たちの痛みを見失わないことだったのだ。