砧教会説教2017年4月2日
「イエスと共に新しい人生を歩み出す」
マルコによる福音書2章13~22節
今年度の標語の最初は「人生行路の諸段階にふさわしい信仰生活を送る」とした。日本の暦では、4月から年度の開始であり、進級、進学によって学生・生徒は新しい段階に入る。子供のうちは、人生が階段を上るように上昇していくという感じがはっきりしている。子供から少年へ、そしておとなへという身体的精神的な成長と重なって、確かに目に見える。だからそれぞれの段階にふさわしい教育がなされる。しかし、大人になると、そうした段階別の教育などは行われない。教育は終わり、今度は社会の一員となり、責任ある主体として仕事をすることになります。そして大人は大人としてしばらくの間、いわば平たく人生を歩む。当然、成長という大きく高くなっていく感覚は終わり、かえって衰え、小さく、低くなっていくという漠たる感覚の中で生きて行く。
しかし、人生行路とは成長という生物学的(特に植物に見られる)概念で語るべきことではないという気がする。人間は他の生き物とはおそらく違って、発展や進化という概念で語るべきである。今回「段階」という言葉を用いたが、私の中では成長という継続的な変化とはちがって、ある段階へと一時に飛躍する、あるいは進化するという感覚を込めている。それは生きていく過程の中で、誰かかけがえのない人と出会ったことによって、それ以前とそれ以後が変わったとか、親しい人の死を経験して、それ以前とそれ以後が変わった、あるいは、大きな病・大きな災害を経て、それ以前とそれ以後が変わった、あるいは聖書の言葉に出会って、キリスト教に出会って、それ以前とそれ以後が変わった、といった感覚である。私はこれらの経験を通して、人間の段階が変わるのだと思う。そしてその段階の違いは、高くもなれば低くもなる、ということだ。
ところで、最後の、聖書やキリスト教に出会って、段階が変わるというのは、人との出会い、人の死、病や災害といった、物質的・自然的あるいは偶然的経験と少しちがって、誰もが経験することではない。これは一般に宗教的経験と言われるが、普遍的なものではないのである。かえってそれは主体的に選ぶ、あるいは決心するという前もってのこちらの心構えのようなものがある。もちろん偶然的な出会いから始まるとしても、どこかで自分の決心という主体的な契機が背後にあるということだ。実は、この宗教的経験は、それ以外の人生行路の諸段階の上り下り、すなわち人との出会い、死、病や災害を経た後の段階の意味を新たに問い直すことができるだろう。宗教的経験を経た段階の人間は人生そのものの意味を新たに知る。正確に言えば、宗教的経験はそれ以外の、それ以前の人生経験に意味を新たに与えるということができる。そしてそれ以後の人生経験の諸段階に意味を与え続ける。意味を与えるということは、その先の人生を変えていくことにつながる。しかも、より高い段階へと変えていく(はずである)。
さて、今日の聖書の前半は、イエスに出会い、誘われた徴税人レビとそれを見ていたファリサイ派の律法学者の話である。レビはイエスに誘われると、「立ちあがってイエスに従った」。彼はイエスと出会って、新しい段階に入った。これまでの人生、そしてこれから先の徴税人としての人生を捨てたのだ。ローマ帝国の手先となってユダヤの中で差別されているあり方から脱する。これは彼にとって実存的、宗教的な経験であった。やがてイエスはこのレビの家で食事をするが、すでに彼には「多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである」という。イエスに出会って新しい人生を歩み出した人々が、あるいはそれを望む人々がたくさんいた。他方、それを見たファリサイ派の律法学者は「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問うた。これに対してイエスは答えた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と(17節)。
この言葉はもちろん、問いかけた律法学者への皮肉である。まず、前半は当然のことを言っているだけである。後半は正しい人が丈夫な人、病人が罪人に置き換わる。そして正しい人とは、律法を遵守しているファリサイ派の人々のことである。したがってこの言葉は、要するに私の(イエスの)活動にあなたたち律法学者は関係ないということを告げている。
しかし、それだけではない。まず、ファリサイ派の問いかけは、イエスへの非難を含んでいる。なぜ本来交わってはいけない罪人や徴税人のような人々と同じ食卓に着くのか、あなたは律法に違反しているととがめている。このような非難に対決しているのがこの個所のイエスである。つまり、人を教える先生の立場にあるイエス自身が、ユダヤの律法を犯しているとは何事かという非難に、イエスは、本来の教師とは誰に寄り添うべきかを示した。それは律法が差別し排除している人々である。したがって、その律法を金科玉条としているあなたたちは誤っているということまで含む。だからこれは対決の物語である。
ところで、招かれた罪人たちや徴税人はイエスとの出会いを通してどうなったのだろうか。イエスがただの人なら、あるいは自分たちと同じ罪人なら、あるいは徴税人ならなんら驚くことはない。単なる仲間でしかない。しかしイエスは彼らとは全く違った世界、身分の者であった。そう理解したからこそ、有り難いことだと思った。つまり、律法学者が代表するユダヤ教の権威とは別の権威、おそらくバプテスマのヨハネの弟子から出発したとされる、荒れ野の神、真のモーセの神の権威を身にまとった人物としてみなしたのではないか。つまり、真の、あるいは新しいメシアとして。要するに、彼ら徴税人や罪人と呼ばれている人々はイエスとの出会いを通して新たな宗教的な経験をしたのである。つまり、全く新しい人生の段階に入った。いやこの世の現実のしがらみ、差別や排除による屈辱的な生き方を全く脱するほどの、自由な境地に至った、それも単に観念的なことではなく、神の権威を身にまとったものが共に食事をするという圧倒的な平等さ、同時に有り難さを経験した。つまりこの世において、このユダヤの支配の世界のただなかで現実となったということである。かれらは、ファリサイ派の人々の評価をもはやその内面から捨てることができた、そして自分たちをからめ取っていた観念から自由になっていった。私にはそう思われるのである。
その次の断章には、ヨハネの弟子たちとファリサイ派が登場する。結論的に言えば、イエス(あるいはイエス集団)は、ファリサイ派の人々だけでなく、自分の先生であったバプテスマのヨハネの思想からも離れたということである。それが断食についての見解の相違である。いや見解というより、もはや断食という儀礼的行為を全く無視している。イエスは儀礼的に断食することを捨てた。今は婚礼の時だから断食などできないと言っている。これはイエス自身の到来を婚礼の喜びに自分でたとえているように見える。今は喜びの時なのだ。その代わり、私が取り去られる時、本当に断食することになるだろう、真の嘆きと悔悟のために、というのである。
イエスはユダヤ教の様々な規則を捨てて行く。そこに込められた差別と排除の意思を暴いていく。そしてそれらの規則によって曇らされていた、神の真の意思を取り戻そうとする。しかし、それは過去に戻ること、伝統を取り戻すことではない。伝統など、全く恣意的に作り出すことができることを、イエス自身よく知っているのだ。なぜなら、ファリサイ派の律法学者自身が伝統を身にまとっていると信じられているし、自分たちがそういう者であると思っているのだから。それゆえ、イエス自身は全く新しく、全く違った態度で立ち向かうほかはない。そして彼に出会った人々は、この世の縛り、差別や排除の規則から離脱していく。そしてイエスの前で、新しい神の権威の前で「自由」となる。イエスはこうした全く新しい段階に入ることをどう表現したか?それが21-22節の、のちに諺となるほどの言葉である。「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れは一層ひどくなる。また、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋にいれるものだ」という、どちらかと言えば生活の知恵に近い表現で、自分たちの集団の新しい生き方を自分たちで作り上げていくことを宣言したのである。
これを聞いた罪人たちはどう思っただろうか。誰かが作った、伝統と称する枠組みではく、新しい革袋としての枠組みを作っていかなければならない。これはたいへんだ、しかし、最後は自分たちの生き方を自分たちで作っていくことにならなければ、結局もとの黙阿弥となる。イエスの宣言は、ただ宣言として聞いているだけでは、無意味であり、それを実行する、つまり自分たちにふさわしい革袋をこさえて、そこに自分たちの酒を、つまり新しくなった自分を入れなければならないのだ。
この革袋は、わたしは教会だと今は思っている。キリストに出会って、聖書の言葉に出会って新しい人生を歩み出した者にとって、それを包む、すなわち新しい自分を守る場所、新しくはあっても実はもろく弱い一人の人間である自分を守る、防衛する場として、教会があるという気がするのである。
イエスの言葉は、当時のファリサイ派やヨハネの弟子たちという、いまだ古い伝統の枠の中にとどまる不自由な人々、言い換えれば人を差別し排除することによってしか自分を肯定できない人々と決別する宣言であり、新しい段階の人間世界をこの世に実現する宣言である。このような圧倒的な権威に満ちた人格を、多くの人々はメシアそしてやがて神の子とみなしたのであろう。
しかし、このような、いわば貧者や病者や罪人のメシアは、その新しさゆえに苦難の道を歩むことになる。これもまた当然というべきである。しかし、キリスト教はこの苦難こそ、尊いものと考えた、それどころか、後には死さえも乗り越えられたのだと宣言するに至るのである。復活節にちなんで加えれば、イエスの言葉は、ひとたび破れても、その中身さえもう一度作り出し、それにふさわしい革袋が作られることを求めている。なぜなら、この言葉は実は文脈も時代も超えて、真実を生きようとする人々を鼓舞する力があるからである。
私たちはすでにイエスに出会っているが、その原点としての事実をもとに、新しい酒を自分の血肉にすることは確かに簡単ではない。しかしこの教会に集まり、共に祈ることを通じて、自身の血肉にすることができると思うのである。新しい年度の始まりに当たり、イエスと共に新しい人生を歩み出したいと願う者である。