日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2017年4月9日
「救い主は苦しみを受ける、しかし……」マルコによる福音書15章43節~
 イエスの生涯は、彼の生きたユダヤとガリラヤの地で、民衆の幸福な生活を作り出すための新しい教えを伝え、それを基にした共同体としての場所を作り、そこを拠点として幸福な生活を持続させる仕組みを作ることであった。
 その教えの中心は、この世の終わりが間もなく来ること、正しい神の国(支配)が実現することであり、その時に向けて神の支配の前で正しくあるために、この世の、つまり深刻な差別や貧困をもたらしているこの世の支配の中で多かれ少なかれ「罪」を犯している自分たちを悔い改めること、つまりこの世にではなく、神に心を向け直すことを強く促したのである。
 しかし、彼の教えとその悔い改めの促しは、当時のユダヤ教の教え(律法に書かれていることだけでなく、口伝の習慣も含む)の権威をほとんど否定するかのようであった。つまり「伝統」と称するものに、意図してか、知らぬ間にか、抗ってしまったのだった。彼の信望は非常に厚く、その権威は巷の律法学者や神殿の祭司たちをはるかに超えるものとなっていった。それゆえ、彼を取り巻く民衆は勢いを増し、首都エルサレムの政治的変革まで夢想する者もいた。新しいメシア(ユダヤの王)の出現と鼓舞する弟子たちもいた。しかし、聖書ではイエスの王的メシア像はほとんど否定されている。それどころか、ほとんど非暴力、無抵抗、沈黙、要するに屈辱と苦しみを甘受する「苦難のメシア」(イザヤ書53章)として描かれている。彼の姿はおそらく多少とも両義的であったと思われるが、もちろん後者、苦難のメシアという部分がほとんどであったと私は思う。それでも、伝統に抗う者は、伝統に基づいていると称する政治的権力と宗教的権力によって、排除されることになる。もちろん伝統を守ると称して本当は自分たちの既得権を守っているに違いないのだが、しかし伝統的な律法を守ると喧伝する側の方が、大勢になるのだ。なぜなら、イエスを知るにせよ知らないにせよ、自分の利益にならない、それどころか不利益になるのなら、そのような人々にとって彼の言葉の真意や情熱、活動のすがすがしさ、真っ当さは無視した方が安全であるからだ。そしてほとんど何も知らない人は、どこの誰とも知れぬイエスより、これまでの権威に依り頼む方が安全、あるいは得策だと考えるだろう。
 こうして、イエスの権威は確かであるとしても、多勢に無勢、次第に力は強まり、やがて事態は急速に悪化していく。ついに仲間の一人が、向こう側の世界と結託し、自分の今後の安全を確保しようとする。もちろん、このユダでさえ、実は深刻な葛藤を抱えていたことは、その後彼が自ら命を断った(らしい)ことからも想像しうる。しかし、このような裏切りさえ、事の煮詰まった状況では、一般に起こりうることと覚悟しなければならないし、事実、イエス自身そう予想していたのである(14章12-18節)。
 イエスはゲツセマネで自らを神にささげる決意を祈り、この最後の時間をすべて覚醒しつつ、自らに焼きつけようとする。しかし弟子たちはそれができなかった。イエスがそれをたしなめて、その場を離れようとした時、ついにイエス逮捕の計画が実行された。マルコは「イエスがまだ話しておられると」と書く。つまり、ゲツセマネの地での祈りの終わるとすぐ、待ち伏せしていたかのように事は起こったのであった。ユダが手引きした群衆が登場する。彼らは祭司長、律法学者、長老たちが遣わした輩である。ユダがイエスに接吻し、合図を送る。つまり今は夜、したがって松明程度の明かりではイエスを判別などできないのだ。これを機に、ついにイエスは逮捕されるが、その時一人の弟子らしき人(ただし匿名である)が剣を抜いて、応戦したという。マタイによる福音書では、「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は剣で滅びる」という非暴力の促しの言葉が加わるが、マルコ伝にはない。この挿入は、注を見ると創世記9章6節と関連するとされる。すなわち「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される」という言葉に対応するとみられるのである。この言葉がイエスによってその場で語られたのか、あるいはそうでなかったかはわからないが、おそらく後者だろう。しかし、マタイはこの緊急の事態でもなお、イエスを偉大な教師として描きたかったのだろうと思う。
 マルコはこの事態の直後に、むしろその逮捕に来た者に対してその卑怯さをあげつらう。すなわち「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕えに来たのか。私は毎日、神殿の境内で一緒に教えていたのに、あなたたちは私を捕えなかった」。彼らは闇にまぎれてイエスを民衆の間から消してしまおうとする。それは昼間に、公然と逮捕すれば大ごとになることがわかっているからだ。イエスは言う「しかし、これは聖書の言葉が実現するためである」と。これはおそらくイザヤ書53章7節の「苦難の僕」の言葉の実現を指す。すなわち「苦役を課せられて、かがみこみ、彼は口を開かなかった。屠り場にひかれる小羊のように、毛を切る者の前にものを言わない羊のように彼は口を開かなかった」(イザ53章7節)。
 イエスが語り終わると、弟子たちは逃げてしまった。弟子とは別の若者も逃げたことを記録している。周りにいた人々が水の引くように消えてしまった。イエスは一人、つかまって連行されていく。連行先は大祭司の屋敷である。そこに祭司長、長老、律法学者が集まってくる。そしてイエスを罪人として断罪し、最後は死刑にするための口実を探し始めるのであった。最高法院はすでに正義を行うつもりがない。ひたすら、イエスを死刑にするつもりであり、実際には裁判は機能していない。しかし、偽りの証人を用いて偽証させても、かえって辻々間が合わず、失敗する。ついに数人の男が立ち上がって、かつてのイエスのつぶやきを大げさに語りだす。イエスは神殿の破壊と三日後の再建とを告知したという言いがかりである(たぶんミカの預言を念頭に置いていた発言だろう)。しかしこのこともうまくいかなかった。これでは証拠もはっきりしないまま、強引に死刑にするほかなくなる。一方、いろいろと不利な証言をされても、イエスは黙ったままであり。大祭司は重ねて問う。「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と問う。イエスは「そのとおり」と答える。そしてダニエル書7章13節を引用したとされる。「あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのをご覧になる」と。大祭司はこの答えを前にして、有罪を確信する。イエスはメシアを僭称した、やがて反乱の引き金を引きかねない、危険な人間である。したがって排除しなくてはならない。要するに死刑にするほかない、としたのであった。
 さて、イエスはこの尋問や証言の中で、ほとんど沈黙していたようである。最後になって、ついにメシアであることを認めた。これはもちろん大祭司はじめ律法学者や長老たちの支配にとって、危険なことである。しかし、彼がメシアであると宣言したことで、ついに「死刑にすべきだと決議した」のであった。大祭司が油を注ぐことがなければそもそもメシアの称号を戴くことはあり得ない。それなのに、彼は祭司たちの前で自らがメシアであると宣言してしまった。イエスの運命が決まったのである。こうして受難の時にまた一歩近づいた。
 ところで、この最高法院の裁決を一体だれが覚えていたのだろうか。これはほとんど秘密裏に行われた謀略である。しかし、いつの間にか証人も呼ばれ、やや離れた中庭にはペトロも紛れ込んでいる。つまり、密室で行われているのではなく、一応は公開されているといえるかもしれない。すると、この記事はペトロをはじめ、弟子の一部やイエスの信奉者がこの一部始終を見ていた可能性がある。したがって、この出来事の詳細がわかるのだと考えられよう。
 さて、イエスはメシアとしての意識を持っていたのであろうか。私は当然持っていたと思う。すでに彼の宣教活動は神の国の到来であるとともに、彼自身の癒しや様々な奇跡が起こっていることから一部実現しているとみなされる。したがって彼は単なる預言者ではなく、実現する人、すなわちメシアである。そうした意識、他方で、迫害を受け、ののしられ、時には彼自身差別を受けていただろう。
 イエスはついに死刑が決まる。もはや後戻りができない地点まで来たのである。私はイエスの覚悟を思い浮かべる。彼は苦難の僕に自分を重ね、一人責任を背負うかのようである。しかしいったい何の責任を、あるいは罪を担うのか?今はまだわからない。他方、逃げた弟子たちの思いも想像する。彼らは逃げた。イエスを見捨てた。ここに弱さの罪が極まっている。あれほど慕い、師とあがめ、行動を共にし、互いに信頼しあっていたが、いざ逮捕となるや、抵抗を試みた者も含め、結局なすすべなく逃げる。
 しかし、彼らが逃げなかったらどうだろうか。彼らもまたとらえられ、処刑されたのかもしれない。彼らはイエスを犠牲にして生き延びることができたから、逆説的にイエスを宣教することができた、ともいえまいか。そして彼らはまた、イエスの死は、広く人間の弱さと強さの罪のゆえに起こったこととして(自分たちの弱さを棚上げして)受け止めたのではないか。さらに、この犠牲のおかげで生きられるというやや安易な、あるいは手前勝手な救済を導入したのである。それでも、この犠牲こそが、実は神の恵みであるという逆説、神の子の苦しみという驚愕の発想によって、あらゆる人間は、すでに赦されて生きることができるとする、驚くべき救済論に転換していくのである。
 イエス・キリストの受難は字面だけ読んで納得いくような代物ではない。むしろ自分をその場に居合わせた者であるかのよう読むことが大事だと思う。そのことを通して自分自身の欠けや罪を想起する。そして自分と対話しつつ、もう一段高いレベルの私に至る。そのような対話をこの一週間続けたいと思う。