砧教会説教2017年4月16日
「死と復活」
マルコによる福音書15章33~41節、16章1~8節
主イエスの復活を信じた共同体が生まれて間もなく2000年になろうとしている。この信仰の共同体は、すでに世界のいたるところに存在する。復活信仰は極めて力強いもので、無数の人生の力となってきたのだろう。もちろん、この信仰の意味はいろいろである。死んだ後の永遠の命を思う者、今までの苦難の人生からの立ち直りを復活と信じる者、死後の眠りの後の最後の審判の時に再び神の前に復活させられ、裁きを経て永遠の神の国に入ると信じる者、などなど。復活信仰はふくよかなもので、相互に排除しあうことはよろしくないと感じている。もちろん、復活信仰は「信仰」であり、「承認」すべきものではない。その点を混同したり、後者であらねばならいないなどと主張する時、キリスト教は退廃する。
わたしは復活信仰を人間の生涯の最後の砦であると思っている。この砦が破られたり、失われたりすると「よく生きる」「正しく生きる」ことの根っこが失われる。なぜなら、復活がなければ、結局何をやっても、どう生きても、要するに限られた時間を消費するのであるなら、「やりたいこと」をやる、すなわち快楽を求めることに(貪欲)結局落ち着くだろうから。
ただ、復活とは死後の生というような漠然としたことではない。あるいは魂だけが永遠に残るというのでもない。復活とは体ごと復活するということである。それは文字通り「具体的」である。つまりそれぞれの人間が、それぞれの個性を基にもう一度始まるということである。このことがキリスト教を他の宗教から区別するときのしるしであろう。例えば仏教は体を非常に軽視する。もちろん、キリスト教も実はそういう面があるのだが、これはギリシア的な霊魂思想に強く影響されているからである。元来、旧約の伝統を持つキリスト教であるから、原則は物質的、具体的なのである。もっとも、それだからこそ、体の復活などおよそ馬鹿げたことだと軽蔑する者がでるのは当然である。土にかえった肉体が復活することなどあり得ないと。その通りである。しかし、復活とは信仰なのであるから、そのような一般的常識や科学的な考え方と次元が違うのである。それゆえ、そのような攻撃や批判など意に介す必要などもともとない。それを信じて「生きる」方が自分にとって豊かであるなら、それでよいのである。
しかし、問題は復活信仰がなぜこれほどまでに力を持ったのか、言い換えればなぜ人々は復活信仰を受容したのかということである。
一つには、この復活信仰は、苦難の中に生きざるを得ない人々に、希望を与えるからである。希望とは、以前述べたとおり、ほとんど「確信」に近いものであり、それは人間を前向きにする。苦難を耐える力を供給する。この苦難とは厳しい病、老い、戦争、天災、など何でもよい。いかなる困難も、死も、すべてキリストの十字架の贖いと復活を信じるならば、誰もがそれにあやかることができるのである。
もう一つは、イエス時代、この世界全体の価値観を疑い、それとは別の世界を夢見る人が膨大な数いたらしいことである。この時代、古代帝国の最後の完成者ローマの支配は圧倒的であった。同時にその完成は膨大な人間たちの汗と涙の産物であった。このような、おそらく私たちはもはや想像できない、絢爛たる文明を、近代的科学技術のない時代に完成したのは、ひとえに、膨大な数の農奴と労働者がいたからである。他方には、都市に生きる貴族や市民たちがいた。退嬰的な彼らもまた精神の渇望、すなわち「意味」を求めていたのだろう。そしてこの世界に自分たちの幸福があると思う者も、無いと思う者も、ともに、自分たちが生きる意味と目的を明確に知りたいと願ったのであろう。この古代文明の完成は、おそらく巨大な虚無、あるいは空虚感をはらんでいたのであると思う。だからこそ、それを乗り越える、まったく斬新なユダヤの思想が多くのローマ人を捕えたのであると想像する。(そしておそらく、エジプトの支配を背景とするモーセの活動、そしてバビロン捕囚を背景とする第二イザヤや祭司たちの活動も同じ構図かもしれない)。
さて、このような復活信仰の受容は全く驚くべきことであるが、その基となる出来事は、復活の前の、イエスの十字架の死である。そして十字架の死に至るまでの、彼の生きざまである。イエスの十字架は、彼のこれまでの人生と切り離すことはできない。
彼の死は、実は人を真に活かすための努力の結末に位置する。彼は人々に命を与え続けたと言ってよい。彼は重い病、極端な差別や貧困にあえぐ者に、他方でローマの軍人や税金取りといったユダヤに敵対する者にさえ、分け隔てなく、近づき、命を与え続ける。そして命を与えられた人々はまさにその時と場所において事実上「復活」したのである。そして、イエスの十字架の死は、与え続けた生涯の最後の報いである。それは富や名誉や権力など言ったものと正反対な、最も貧しい、悲惨なものであった。
イエスの死は先ほど読んでいただいた通り、非常に理不尽なものである。ほとんど罪など見当たらないのに(せいぜい、神殿境内の商人の追い出しなど)、秘密裏になき者にするためか、闇にまぎれて連行され、ほとんど公開されないままに裁判にかけられ死刑が宣告され、その後今度は公開のもとでピラトの最終的な認定によって死刑が執行されるのである。十字架の死とは、非常に苦しい刑罰であった。イエスは最後に詩編22編を語り出したが、その冒頭だけを声に出し、息絶えたのである。この時、その十字架の下で見届けたのは、弟子たちではなく、百人隊長、そしてやや離れた婦人たちであった。その婦人たちの中にはマグダラのマリア、サロメがいた。彼女たちはガラリヤ時代からイエスの世話をしてきたという。イエスを心底わかり、頼りにしてきたのは彼女たちであった。けれども、彼女たちはもはやなにもなすすべがない。ただただ、巨大な権力によって抹殺されていく彼を遠巻きに見ることだけが、成し得たことのすべてであった。
今日は長いので割愛したが、夕方になってから、アリマタヤのヨセフがイエスの遺体を引き取り、おそらくは横穴式の墓に納め、石でふさいだのであった。このヨセフも、「神の国を待ち望んでいた」という。彼は身分の高い議員とされる。ユダヤの行政と裁判に関する最高機関(サンヘドリン)の議員である。マタイ伝では「金持ち」とされるが、貴族のような身分なのだろう。このような人物も、実はイエスの信奉者であり、支援者だった。だから百人隊長と掛け合ってイエスを引き取ることもできたのだろう。もちろん、この百人隊長もイエスの信奉者だったとみられる。
安息日の翌日、すなわち週の初めの日の早朝、先の三人の女たちはイエスに香油を塗るために墓を訪れた。彼女たちはイエスの亡骸を、手厚く葬るために出かけたのである。しかし、石をどけることができるだろうか不安もある。誰かの応援を頼まなくてはならない、などと思案していると、すでに石は転がしてあり、中には「白い服を着た若者が右手に座っているのが見えた」(16章5節)。もちろん婦人たちは驚く。するとこの白い服の若者は語り始める。「驚くことはない。あなた方は十字架につけられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」(16章6節)と。
婦人たちはひたすら驚くだけで、「墓を出て逃げ去った。震えあがり、正気を失っていた。そして誰にも言わなかった」とされる。
おそらくマルコ伝はここで切れていたのだろう。この続きについてはマタイ伝やルカ伝に詳しい。そしてそれらはマルコ伝の結びとして新たに付加されたのだろう。元来のマルコ伝は、尻切れだったのだろうか。そうなのかもしれない。しかし、空の墓と天使のような白衣の若い男の言葉に驚いた彼女たちは誰にも言わなかったのだから、この情報はそこで頓挫したはずである。しかし、この中断された情報は、これを書いている著者には知られているのである。だからマルコは書いている。つまり、女性たちは、しばらくは誰にも言わなかったのだろうが、この恐ろしい体験を語らなければ、自分たちの気がおさまらない、やはり仲間たちには伝えようと決断したのであろう
こうしてイエスの「復活」が始まった。復活とはイエスの復活にとどまらない、弟子たちの「復活」、すなわちイエス自身を伝えること、すなわち世の救いの実現の始まり、神の国の到来の始まり、要するに福音を伝えることが再始動したのである。
復活の真実は、当然客観的事実とか誰にもわかる経験などではない。それはもはや信仰のことばである。しかし、その信仰の力は、比類のない強さを持った。それは確かである。それでもなお、復活の信仰の威力は、その前にある、彼の生涯、すなわち命を与え、愛を与え、すべてのものを与えた末に訪れた十字架の死を受け止めることなしには、何の意味もないのである。なぜなら、パウロも後に言うとおり、復活は最終的には褒美であるからだ。褒美とは何の褒美か?それは、自らのこの世の生涯において、主イエスと共に自分の十字架を負った者にだけに与えられるのである。この点が、キリスト教の厳しさであるように思われるかもしれない。何かイエスのように迫害され、厳しい戦いをしなくてはならないのかと思ってしまう。しかしそれは違う。もちろん、そうした厳しい戦いをすることもありうるだろうが、それも一例に過ぎない。十字架を負うとは、それぞれの人生における悲しみや痛みを、それとして本気で向き合うことから始まる。そのことの意味を問うことから始まる。そしてそこから自分の人生を新たな段階へと引き上げて行く。そのよう導くことが実はイエスの生涯のすべてであった。それが愛を、命を与えることのように見えるのだが、見方を変えればそれは痛みや悲しみや嘆きを受け止めること、担うことであると言ってよい。復活節とは、復活の喜びを共にすることであるが、しかし、わずか三日前の十字架の出来事を想起できないのなら、それはまことに不十分である。愛を、命を与える営みとは、痛みや悲しみを少しでも担うことである、そのことに改めて気がつくとき、復活の本当の喜びが私たちを満たしてくれるはずである。
復活の時、その三日前の十字架を覚えつつ、祈ります。