砧教会説教2017年4月30日
「法を犯すこと、法を超えること」
マルコによる福音書2章23節~3章6節
私たちはキリスト教徒として安息日を日曜に決め、毎週守っている。安息日は文字通り、息を安らかにすること、つまり働くことを止めて休む日である。キリスト教は安息日を日曜とするが、キリスト教の母体であるユダヤ教では土曜日である。この安息日の歴史的起源ははっきりしないが、旧約聖書の思想においては、天地創造の時から決まっていたこととみなされている。
天地創造の時、神は六日間で天地万物を創造し、七日目に休んだとされている。旧約聖書冒頭のこの記事の核心をどこに見るかはそれぞれかもしれないが、私は天地創造の記事として読むより、安息日の制定の記事として読むのがよいと最近は強く感じる。
創世記1章は天地の創造の過程を想像したにすぎない。誰もわからないことを想像しただけである。しかしそこにはきわめて独創的な主張がなされている。例えば創造はすべて神の命令(言葉)によって行われており、原料や道具はない。またほとんどの地域で神である太陽や月を神格化しない。そもそも神は独りであるかのようである。すべてモノローグである。この過程にはドラマはなく、ただ日々の数によって進むだけである。そして最後に神は休んだ。それが七日目のことだった。ここにはすでに創造と労働が重ねられており、この労働の後には休息が必要であることを主張している。そしてこの記事では神はこの休みの日を「祝福し、聖別された」(創世記2章3節)と主張する。神は創造された世界について「きわめてよかった」と満足しておわり、翌日休むのである。かえってこの休みこそが聖なるものとされたのである。聖別されたとは、特別に取っておかねばならない日とされたということである。この日はすべて休まなければならい、そしてすべてを休ませなければならない。このように主張されている。創世記の冒頭のこの記事は、創造の過程を描くことが眼目ではなく、この七日目の安息日の聖別にあると言ってよいと思うのである。それゆえ、安息日は後の歴史において規範とされるべきものとなった。
しかし、なぜこれほど安息日が聖なるものとされる必要があったのだろうか。これについては出エジプト記23章12節に比較的わかりやすい理由付けが残されている。「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」。つまり、一週間に一度は仕事を休んで鋭気を養うことが必要なのだという至極まっとうなことである。しかしなぜ女奴隷の子や寄留者のことまで強く意識しなくてはならないのだろうか。これはもちろんイスラエルがエジプトの奴隷であり、また寄留者だったことによる。申命記の十戒では出エジプト記のそれに比べてより明確にそのことに言及している。「七日目には、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどのすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすればあなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導きだされたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じたのである」(申命記5章14―15)。
このように、安息日の遵守とは奴隷であった過酷な日々と休むことの大切さを想起しながら、実際に安息することである。つまりこれは働く者の基本的な権利として主張されていると言えるのである。そしておそらく祭司たちは、これを一部の人間の勝手な主張ではなく、神意として崇高化することによって、すなわち永遠に変わらない、絶対的なものとして位置づけることによって、廃れることを防ごうとしたのである。
けれども、このような防衛の姿勢がかえって人を苦しめることにもなっていく。規則の厳守は、各人の事情を斟酌しない。したがって、本来人権を守るはずの法が、かえってそれを損なっていくことがある。その最たるものは、マカバイ記Ⅰ2章29節以下に記録されている。すなわちアンティオコスの軍隊との戦いに際し、安息日を狙って攻撃してきた敵に、安息日ゆえに「だが、彼らはこれに応戦せず、投石はおろか、隠れ場を守ることもせず、こう言った『我々は潔く死ぬ。お前たちが我々を不当に殺したことを天地が証言してくれよう』。こうして安息日に兵士たちは彼らに襲いかかって撃ち殺し、その妻子、家畜までも殺し、犠牲者の数は一千人に及んだ」(マカバイ記Ⅰ2章29-38節)。
このような、生きることより安息日の法を守って死ぬことを選ぶことをどうとらえるべきか。もちろん、このすぐ後で、これは誤りであり、「異教徒に対して戦わなかったあの兄弟たちのように、我々も自分たちの命と掟を守るために戦うことをしないなら、敵はたちまち我々を地上から抹殺してしまうだろう」として、安息日にも戦うことを決めたのであった(マカバイ記Ⅰ2章39―41節)。
法自体を守ることによって、守る主体が消滅することは矛盾である。この矛盾に当然気がついたのである。つまり法はその法自体によってそれを守る主体が命を落とすようなことを求めない。ミシュナーの口伝律法(ヨーマー 85b)が、出エジプト記31章14節の聖句を根拠にして「安息日はあなたの下に与えられているのであり、あなたが安息日に引き渡されるべきではない」としている通りである(The Oxford dictionary of the Jewish religion, 1997, Sabbath の項目を参照した)。つまり、安息日はそれを守る主体の下にあるのだ。
さて、本日の聖書はこの問題を主題としている。イエスの弟子たちは安息日に麦の穂を摘んでいた。それを見たファリサイ派の人がこれを咎める。するとイエスはダビデの故事を引き合いに出して、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言い放つ。これは先述したミシュナーの言葉と相通じるものである。しかし、このイエスの言葉は、麦の穂を摘んだ弟子たちを弁護するものと言えるだろうか。安息日を守ることと麦の穂を摘むことを天秤に掛けたら、安息日を守ることが優先されるのは当然である。麦の穂を摘まなくても、命にかかわることはない。ならば、これはやはりユダヤ社会ではとがめられても仕方がないのである。したがって、ここではイエスはもはや、安息日を否定しているとみてもよい。しかし、彼のこの言葉は安息日の法に関わらず、法一般に言えることである。とすると、このイエスの言葉は、当然のことを言ったにすぎない。
しかし、この後の、一見付加に見える言葉が重要なのではないか。すなわち「だから、人の子は安息日の主でもある」。「だから」という接続詞が今一つ分かりにくいが、要するに、ダビデのようなメシア(つまり人の子)は律法を超えるのであるという意味である。つまりメシアは法を超えるのである。これは行政権が司法権を超えるのであるという主張である。この言葉が付加ではなく、イエス自身に遡るなら、イエスはすでに祭司的支配を完全に否定し、自分の(メシアとしての神の子の)権威のもとに律法を置いたのである。これは見方によっては非常に危険でもある。おそらくこの一言で、イエスは全面的に敵とみなされたであろう。そして、このようなイエスの姿勢からはそうした反応はいたしかたない。
しかし、この続きの記事にこそ、このイエスの姿勢の本当の意味が語られているのである。麦の穂を摘んだ際のイエスの言葉は、不用意であり、不完全である。それに対して、会堂に入って癒しの行動をするイエスの姿こそ重要である。安息日に病気治しの「仕事」をしていると咎める人々に向かって、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と問いかける。人々は黙っている。イエスはしびれを切らして、目の前の手の萎えた人に働きかけ、その病を治してしまった。これを見たファリサイ派は彼を抹殺しようと思い定めたという。
このイエスの問いかけこそが本質である。労働者の権利としての休息は、絶対化された。しかしもちろん例外もある。先の、戦争における振舞い方もその一つであるし、そのほかにも例外は決められていた。しかし、イエスは安息日の掟を前提に、特例で対処することを捨てたのである。安息日は命を守るためのものである、ならばそれと同等に命を守り、人々癒すことは安息日の遵守と同様に評価されるべきである。つまり、命を守り慈しむ行為は、安息と同じ権利を持つのである。だから、イエスは安息日を捨てたのではなく、かえって安息日の精神を拡大したのであると見た方がよいと思う。
イエスは、安息日の法を犯すことによって、この法の意味をかえって明らかにしたと言えるだろう。そしてそれは法を超えることでもある。しかし、それは彼がメシアとして、人の子として、法を無視できる、超越性を持っているということに関連付けられてもいる。彼は神のメシアなのだから、律法を超えるのであって、他の人はそうはいかない。彼は特別である。そう考えられているようにも見える。たしかにイエスは特別なカリスマ(神からの賜物と言うほかない威力と魅力)を持っていたのだろう。それでも、彼の言葉は、そうした権威主義とは少し違う。いや、かれは律法に縛られ、自ら判断しない人々、それを当然と思っている人々に、そうした束縛、無批判さ、不自由さに気づかせようとしているだけなのである、と思える。
実は、このような束縛、無批判、不自由さはなにもイエスの時代のことに限ったことではない。かえって現在の私たちの国において、そのようなことは広がっているように思う。多くの人が「愛国」を言っていれば、少数者にならずに済むと考えている。結局アメリカの巨大な力におんぶしていた方が得策だ、沖縄には我慢してもらおう、フェイクでもいいから自分に心地よい言説だけを信じて生きて行こう、こうした流れが加速されているのである。その中にあって、私たちキリスト者は、このイエスの言葉、イエスの態度に真実を見出したのである。だからこそ、例えば「共謀罪」の持つ危険性に敏感でなくてはならない。あのような法は明らかに危険である。それはこれまで以上に人間を委縮させるからである。イエスはそうした「法の支配」の中で格闘していた。そして法によって知らぬ間に拘束され、精神の自由さえ見失った人々に、倦むことなく訴えていたのだ。そのことに思いを致す時、私たちはこの時代において、なすべき責任がおのずと自覚されてくるのである。
神の国はこの自覚なくしては来ないし、またそこへと入ることもできないのである。