砧教会説教2017年5月7日
「誤解されたイエス―悪霊か聖霊か」
マルコによる福音書3章20~35節
マルコ伝3章は場面がくるくると変わる。会堂に入って手の萎えた男を癒したかと思うと(3章1-6節)、ガリラヤ湖へと去っていく(7節)。ここでは多くの地方から集まってきた群衆に押しつぶされそうになる。それを避けようと船を用意させている(9節)。彼の周りには病気の人がたくさん集まっている。その中で、「汚れた霊ども」がイエスを「あなたは神の子」だと宣言している点が目を引く(11節)。
その後、イエスは山に登っている(13節)。そこで12人の弟子を選び出した。その後、今日の聖書の場面に至るが、イエスは「家」に帰っている。つまり故郷ナザレの自分の家だろう。しかしそこでも群衆にとり巻かれ、「食事をする暇もないほどであった」(20節)。すると、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」という。なぜなら「「あの男は気が変になっている」と言われていたからである」(21節)。この場面はイエスの家なのか、はっきりしない。なぜなら、31節以下にあるとおり、イエスの母や兄弟が家の外に立っているとされているので、この家が自分の家かどうか、はっきりしないのである。あるいは群衆に占拠され、すでに家族は家にいられないのかもしれない。そこで、身内の者たちが登場したのであろうか。イエスの家族、身内の者は、彼をもはやまともな人間として見ていない。イエスは気が変になっているのだ、つまり悪霊に取りつかれているのだ、と思っている。わざわざエルサレムから降ってきた律法学者たちは「ベルゼブルに取りつかれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」などと、彼を危険な人物として、つまり群衆を扇動し、社会を混乱させる力を帯びた人物として糾弾し始める。
するとイエスは「どうしてサタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じようにサタンが内輪もめして争えば、立ちゆかず、滅びてしまう」と語り、自分が悪霊の力、サタンの力、ベルゼブルの力で悪霊払いをしているはずがないと、たとえを用いながら語った。サタンが自分たちの力を弱めることなどしないのは当然だというのである。ということは、このイエスの力は悪霊、サタンを蹴散らす、聖霊の力によるのであることを宣言しているのであろう。イエス自身が汚れた霊に取りつかれているのだと見られていることを否定し、かつ、それとは別の力によって、それを追い出しているのだと主張する。
さて、イエスは「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」というやや極端に感じられる宣言を行っている。これについてはマタイ伝のこの物語の説教の際にお話ししたが、聖霊とは神自身の力であり、それゆえ聖なのである。イエスはこの聖なる神の権威のもとに活動しているという完全な自覚があるようにマルコは描く。いやイエス自身、はっきりと自覚していたのだろう。だからこそ、自分が最も強力な悪霊、ベルゼブルの力を帯びているという見解を許すことができない。
しかし、身内の者も、そして家族も者も、ヨハネの下から出発したイエスをやはり、この社会の秩序からはみ出した者、いやそれ以上に、この社会、いや世界に歯向かう者とみなし、何とか「正気」に戻したかったのであろう。しかし、イエスにとって悪霊つき、病気と差別、貧困が蔓延するこの世界こそが、実は全体として悪霊に取りつかれている、「正気」を失っていると判断したのである。それゆえ、悪霊ではなく、聖霊によって、つまり神の権威、創造と救いの神ヤハウェの力によって、悪霊を追い出し、病を癒していった。
聖霊を冒涜することを赦さないという厳しい発言の後、家族が登場する。彼らは自分の家なのに外で待っている。身内の者も含め、彼ら全体はイエスをすでに危険な人物として見ているので、外にいたのであろうか。イエスはヨハネのもとに降った時点で、すでに家族とは離れ、縁を切っていたのかもしれない、あるいは黙って家を去ったのかもしれない。もはやよくわからないが、家族との関係は疎遠であった。それでも故郷へ戻り、悪霊と病と差別と貧困にさいなまれる人々を救うために戻ってきたのだ。しかし、当然理解されない。そしてついに母と兄弟がイエスをたしなめるためか、あるいは懇願して元の生活に戻るよう説得するためか、彼を呼ぶ。しかしイエスは、「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」と宣言した。彼はすでに伝統的家族制度と決別している。だからと言って家族を解体するのではない。かえって、家族の概念を拡大するかのようである。彼にとって家族とは「神の御心を行う人」の集まりであるが、そのメンバーはこれまでの家族の構成や役割を残しているのである。
さて、今日の主題は、イエスは悪霊につかれたのか聖霊に満たされたのかという問いを発端にしている。イエスは絶えず誤解されているように見えるが、彼にとっての正しさ、彼の癒しの業、身分にこだわらず交流を深める姿、これらが多くの人々にとってあまりにも刺激的であったため、神の権威を身に帯びた者とみるものもあれば、悪霊に、しかも悪霊の親玉に取りつかれた者とみるものもあった。福音書には悪霊につかれた人間が頻繁に現れるが、これは一部は何かを暗示しているメタファーとして利用されているようにみえるが、他方その多くは実際の精神の異常、あるいは宗教的な極端さの表れのように見える。そして、そのような人々にかかわるイエスも、一部の人々からその仲間の一人であるように思われたのである。しかし、彼の働きを目の当たりにした人々は彼の業を聖霊の働きによると考えたのである。
このように、新しい、画期的な活動を始めた人間、特に宗教的政治的な新しい活動始めた人間は誤解をされるのである。彼らの持つカリスマ的な力が一体どちらなのか、つまり、病の癒し、差別や貧困の克服にみえることが、本当に神の力である聖霊の業ではなく、現実の社会を破壊する悪霊の力の権化なのではないかと疑われたのである。
私たちはキリスト教を受容した側からみているので、イエスが聖霊の力によって身ごもったと言い、十字架と復活という出来事の背後には聖霊が働いていると考える。しかしそれは後知恵なのであって、この現場にいた人々はおそらく逆に、非常に強力な悪霊、ベルゼブルに支配された危険な人物とみなしたのだ。他方、イエスのごく間近にいた人々、厳しい貧困や差別、病やいわゆる悪霊つきとなされた人々にとって、彼は完全に救い主であり、悪霊の頭とはまったく反対の「神の子」というべき人物だった。
一人の偉大な宗教的、政治的なカリスマ的人間は、おそらく両義的なのである。だから、その人物を見る視点、あるいは見る人物の社会的地位、あるいはその人物との距離によって相当異なっていく。しかし、やがてその働きと目的が本当に人を生かすものであるのか、かえって人を殺すものになるのかがわかる時が来るだろう。ただし、それがわかるのがいつなのかはそう簡単にはわからない。イエスにおいては、ついにその十字架上の死を経てからなのであった。
私たちはこのようなある種のレッテル貼りをずっと行ってきたのではないだろうか。彼はメシアだ、いや悪霊の親玉だというように。しかし、そのどちらも、誰かの判定を二次的に援用するのが普通である。そして、そうした判定がどこの誰によって、どのような立場からなされたのかを吟味することはほとんどない。そしてたいていはその時代、その社会の体制にとって都合の悪いものが悪霊と判定されるのだろう。その判定を鵜呑みにしていくことが続くとどうなるか。おそらくその社会は壊れ、そのメンバーは滅びていくだろう(特に現代のインターネット万能の社会において、このようなレッテル貼りは日常と化し、それによる人権の侵害が甚だしい)。
今、こうした事態が最も極端に起こっているのは、北朝鮮国内であろう想像する。そして、遠くシリアのイスラム国など、挙げられる。ただし、それに対抗する風を装って、アメリカもヨーロッパもそして日本も、閉じられた社会、同一性、均質性をよしとする社会へとかじを切っている。トランプのアメリカ、メイのイギリス、そしてまさかと思うがルペンのフランス(もちろん未定)、そして安部の日本。習近平の中国とプーチンのロシアはすでに独裁的なので、国内のカリスマはおそらくほとんどが「悪霊」とされているはずである。
私たちキリスト者は、イエスが悪霊の親玉とみなされたのと同様、この国家主義の強まった日本において悪霊つきとみなされる可能性は高まっていると思う。
一方、キリスト教自身、そうしたレッテル貼りを強力に行ってきたことを忘れてはならない。古代末期の公会議における異端の排除、中世末期の異端審問と魔女狩り、宗教改革時代の深刻な迫害、その他にもいろいろとある。だからこそ、私たちだけが信頼できるなどと自慢できるものではない。にもかかわらず、この日本で、聖書の真実を読み解き、そこに示された人間を本当に生かすもの、すなわち信仰と希望、そして愛に基づく共同体ができているのは確かなことである。危うい歴史を持ちつつも、悪霊ではなく、聖霊の力を帯びた、開かれた愛の共同体を作ってきたのである。ただし、この共同体さえ、もしも「開かれた」ものでなくなる時、正確に言えば批判を許さないものとなったとき、それは結局その共同体そのものが悪霊に取りつかれたものとなる。
日々刻々と変化する現代、私たちが開かれた信仰と希望と愛の共同体であり続けることが、この時代、このやや危うくなった日本における希望の一つであると思うのである。