砧教会説教2017年5月21日
「癒された女性とよみがえった少女―信仰は奇蹟を呼ぶ」
マルコによる福音書5章21~43節
今日の聖書は、会堂(ユダヤ教のシナゴーグ)の長の一人ヤイロの娘のよみがえりの物語に、もう一人、長血を患う女性の癒しの話が組み込まれる形となっている。つまり、二つの奇蹟が連続して起こったように伝えている。そしてこの伝承はマタイにもルカにもあるが、マタイはかなり短くしており、ルカはやや細かく描くがやはりマルコより短い。もともと、このマルコの伝承が元だったと思われるが、それぞれの思惑で改訂したのである。
マルコ伝の記事は長い。イエスがガリラヤ湖を船で移動するが、行く先々でもみくちゃにされているようである。すると会堂長のひとりヤイロがやってくる。マタイ伝はこの名を省略する。ルカ伝は残している。ヤイロはその町の指導的人物であろう。マタイは匿名のまま、「指導者」とだけ書いている。マルコ伝はこのヤイロという会堂長であり指導者的人物が、ひん死の自分の幼い娘の癒しを懇願し、イエスの足元にひれ伏す姿を書き留めている。ヤイロはイエスの権威をはっきりと認め、かつ信じ、彼にすがるのである。イエスは彼と共に出かけて行ったという。群衆も大挙して彼らに従っていく。すると、そこに一人の病の女が登場する。なぜかマルコ伝の著者はこの女性のプライバシーに詳しい。長血を患って12年にもなる女性で、医者にかかってもただ悪化するだけだったという。もちろん、これはこの女か、あるいは周囲の者が、彼女が治った後に周囲に触れまわったことをもとに書いたのだろう。
この女は当たり前だが、ただただこの病から解放されたかった、治りたかった、それだけであろう。そして噂に聞く治癒者、悪霊を追い出し、重い皮膚病(癩病)の人にさえ触れて直す偉大なカリスマに触れさえすれば治ると信じていた。
さて、多くの人々によってもみくちゃにされているイエスであるから、誰が触ったのかはわかるはずもない、と当の女も、そして弟子たちも思っていた。しかし、イエスは自分の力が出て行くのを感じ取ったと言っている。これには弟子たちも驚く。これほどの群衆がいるのになぜ?というわけである。そして私たちもそう思う。そんなバカなと。
しかしこの話は群衆の数の問題ではなく、本当の信仰をもってイエスに近づいたのかどうかに焦点を当てているのである。つまり、イエスはたくさんの人々がついてきたけれど、そして多くの人がイエスに触れたに違いないけれど、信仰を感じ取れたのがこの女の接触であったのだ、ということである。イエスの周りにはたくさんの群衆が集まっている。そして何らかの問題や課題を抱え、集まってきたに違いない。しかし、イエスを信じていたのかは疑問である。そしてイエスはこの女のもとに自分の力がそそがれたことを知って、こう言ったのである。「あなたの信仰があなたを救った」と。つまり、イエスが救ったというより、彼女の信仰がイエスの意志よりも先にイエスの力を引き出したのだとさえ言えるのである。
もちろん、ついてきた群衆も、そして周りでイエスの盾となって守っている弟子たちも、多くの人々がイエスに期待し、信じていることを疑わない。だから誰だかわかるはずもないというのだが、イエスはおそらく、本当に信じている者は少ないことを知っていたのであろう。それゆえ、本当に求めている者、つまり本当にイエスにゆだねる決意の者に対して、敏感であった。
この女に声をかけた時のイエスの風景を思い起こしてみよう。マルコはこのような出会いと癒しの奇蹟について、登場する二人だけに焦点を当てているので、読者や聞き手は想像するほかないが、周囲の多くの人々も見ていたし、聞いていたはずである。そして読んでいる私たち自身も実はその群衆の一人であると言ってもよい。すると、私たちがどう感じたかを考えれば、おそらくそれほど違わないイエスの群衆の思いや風景に到達しうるかもしれない。私は、イエスがこの女を癒したのではなく、信仰が救ったという言葉に最も衝撃を受けたが、周囲の群衆もきっとそうだったに違いない。自分たちも我先にとついてきて、イエスの奇跡に与りたかったが、この女のような心底からの信仰、ゆだねる気持ちを持っていただろうか。単にカリスマとしての彼の力をいただきたかっただけかもしれない。自らを捨てるほどの、あるいはこの男についてゆき、この男の言う神の国の到来に賭けてみるという強い意志を持っていたとはおよそ思えないのである。
しかし、それはこの女も同じだったかもしれない。ただ治りたかった、それだけかもしれない。それなのに、他の人ではなく、この女の思いだけがイエスに通じた。だから、この女も初めは呆然とし、やがて周囲を探すイエスの姿に恐れをなしたのである。私は彼に触れて、その力をなぜか盗み取ってしまったのではないか。とても危険な、あるいは抜け駆けのようなことをしてしまったのではないかと。しかし、彼女は「震えながら進み出てひれ伏し、すべてありのまま話した」(33節)。そのあとでイエスは「あなたの信仰があなたを救った」と宣言したのである。おそらくこの娘にとって、命がけの、あるいは恥も外聞もない行動、それをイエスは信仰と見たのであろう。同時に、彼女の震えながらも告白する勇気を信仰と見たのだろう。だからそう言ったのである。
さて、このような風景の中、会堂長の家から人が来て、娘がなくなったことを告げた。ここでイエスは会堂長ヤイロに言う。「恐れることはない。ただ信じなさい」(35節)。そしてなぜかペトロ、ヤコブ、その兄弟ヨハネ以外はついて来させずに、5人で家に行く。
その後の経過はもはや繰り返すこともないが、イエスは、子どもは死んでいない、眠っているだけだという。集まっていた人々はこのイエスの発言を嘲笑った。しかし、イエスは両親と三人にと弟子たちで子どものもとへ向かう。そして子どもの手を取って「タリタ、クム」と言った。これはアラム語で娘よ、起きなさい、という意味である。ここにはおそらくイエスの発話がそのまま記録されているのだろう。すると彼女は起き上がり、歩き出したという。
これは奇跡的な出来事である。人々は「驚きのあまり、われを忘れた」という。イエスは奇蹟を起こす。死んだ娘をよみがえらせた。しかし、すでにイエスが事前に告げていた通りで、イエスは眠っている娘を起こしたにすぎない。死んでいたのではなく、眠っていたのであり、これはよみがえりではないようにも見える。ここには大きな齟齬がある。人々にとっては死であるが、イエスにとっては死ではない。これは蘇生なのか、それとも眠りからの目覚めなのか。
この話は、列王記下4章8-37節のエリシャの伝説を下敷きにしているように見える。しかし、エリシャの行動は呪術的な香りが漂っている。祈りのほか、死んだ子供に自分の体を重ね、エリシャの力をその子に注いでいる。明らかに彼のエネルギーを彼に与えている。その結果、蘇生した。もちろん、その前に母親の信仰、あるいは信従の誓いがある(王下4章30節)。その信仰に報いたエリシャの奇蹟である。
さて、このような奇蹟物語をどうみなさんは読むだろうか。
長血を患う女の奇蹟、女の子の蘇生の奇蹟。これらはもちろん医術ではない。イエスの医者として技量を宣伝しているのではない。ではイエスとは何なのか。このような奇蹟の前提にあるのは、普通に言えば信仰である。信仰が奇蹟を呼ぶのである。しかし、信仰が奇蹟を呼ぶとはどういうことだろうか。信仰があれば病気が治る、よみがえりもする。そのような単純なことではない。よく誤解されるが、信仰を強く持てば、例えば病気が治る、というようなことではない。信仰は奇蹟を呼ぶだけで、それによって治癒が実現するのではない。奇蹟と信仰を結びつけることが大事なのだが、信仰は治癒のための技術ではない、手段ではないということに留意する必要がある。繰り返すが、信仰すれば病気が治る、などと言うことはない。しかし、信仰は、病そのほかの様々艱難に意味を与える。それは、そうした艱難がその人にとって生きることの意味や目的を問うように導く。そして、私たちはそれぞれ、限りあるものでありながらも、その意味と目的を探ろうとする。その時、その前提となることに気がつく。それを「信仰」と呼ぶのである。つまり、私たち一人一人は、創造者によって命を与えられたものであるという根源的な事実。そのことに気がついた時、人はすでに神を知っている。そのような瞬間はおそらく至るところに見出せるだろう。しかし、艱難の時、それははっきりする。もはや艱難の極みに至った時、私たちはなりふり構わず、自らを投げ出すだろう。その時におそらく奇蹟を見出す。それは見出すのである。普段なら気がつかないような事柄にしるしを見出す。そして目に見えるような奇蹟さえ呼び起こすかもしれない。もちろんまずたいてい奇蹟は起こらない。しかし、それでも、その信仰は、自分の生きることの意味を、自分の生きることの使命を発見させるに違いない。
今日の話の後半は、少女のよみがえりが少女自身にとって意味を持つのではなく、その親にとって意味を持つのだが、これはその親たちにとって、この少女と共に生きることのかけがえのなさを改めて気付かせると同時に、イエスの行動を通じて、真の神の支配に気づかせているように見える。なぜなら、この父親はユダヤ教の会堂の長であり、おそらくその共同体の指導者である。本来、イエスのような異端的なカリスマを認めないはずの、伝統的なユダヤ教に属しているはずである。しかし、このたびの出来事を通じて、生きている神を信じるということに気がついたのではないだろうか。会堂でトーラーを読み、律法に忠実であるという生き方とは次元を異にする、しかし同時に、それこそが真実である生き方、生きている神を信じて生きるということの大切さに気がついたのかもしれない。
イエスは「ただ信じなさい」といったが、その素朴な言葉が、実はすべての始まりである。そしてあの長血の女の治癒も、ヤイロの娘の起き上がりも、まとめて言うなら、新しい始まりである。信仰は奇蹟を呼ぶが、その奇蹟とは新たな始まりとなる。
そしてその信仰を見失っている者は、結局、すべて偶然か、誰かのせいにして、前進することができないだろう。とすると、信仰とは自分たちの破れにおいて見出されるのだと言える。逆に言えば、その破れに気がつかない者は、結局救われることもない、そして奇蹟もなければしるしも見出すことはできないのである。
私たちは信仰と奇蹟の関連を自覚するが、それは因果関係ではない、かえって因果関係の破れに気づいた先に、見出すような逆説的な関連である。普通の意味で信仰すれば、あるいは犠牲をささげれば、あるいは正しい祭儀を行えば、救いがあるというような関連ではない。かえってその破たんの先に見えるもの、自分を捨てること、自分の限界を認めること、それこそが信仰であり、それが奇蹟を見出させる。それどころか、目に映るすべての世界が、奇蹟と呼ぶほかないものにさえ見えてくるはずである。