日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2017年5月28日
「二匹の魚と五つのパン」マルコによる福音書6章30~44節
 5000人がわずか二匹の魚と五つのパンで満腹したという。非常に象徴的なエピソードである。以前、マタイの平行箇所でお話しした通り、このパンと魚は神の言葉と解釈するのが妥当であろう。イエスを通して語られた神の言葉が、人びとを満腹にしたのである。このような理解はすでにイエス自身が旧約伝承を用いながら語っていた。すなわち、「人はパンだけで生きるものではない、神から出る一つひとつの言葉によって生きる」(マタイ4章4節。これは申命記8章3節の引用)と。かつて預言者エゼキエルは、神の言葉の書かれた巻物を「食べた」というが、それは密のように甘かったと言っている(エゼ3章3節)。イスラエルの宗教伝統においては、食べ物と言葉は交換可能なのである。すなわち、言葉は糧となる。
 そして言葉は「もの」ではないから、それを口でみんなに向かって語り、あるいは羊皮紙の巻物に書いて回せば、限りなく多くの人に伝えることができる。だから、糧となった言葉は、5000人くらいは何ともない。それゆえ、パンの屑や魚の残りは12の籠にいっぱいになったほどである。
 このように、この奇跡物語のような話は、奇跡の話に見えるが、実は糧となった言葉の偉大な力を象徴する話なのである。
 しかし、このような読み方もやはり一つの解釈に過ぎない。今回、マルコの方の記事を読み直して気付くのは、食べ物の大切さということと、その背後にある民衆の貧しさということである。
 イエスについてきた民衆は、自分のこれまでの暮らしを捨ててきているように見える。彼らの暮らしていたガリラヤ地方の深刻な差別や貧困から脱するため、にわかに出現したメシアの権威を受け入れ、彼について行こうとしたのである。そして新しいイスラエルを再興するのだ、と考えたかもしれない。私はこれを読み直しているうち、はっきりわかったのは、このイエスについてきた民衆は、遠い昔、モーセに現れた神ヤハウェの約束を信じて、モーセを指導者としてエジプトを脱出したヘブライ人たちと非常に似ているということである。彼らもまた、エジプトを出た後、食べ物や水がなく、飢えの危機に直面する(出15、16章など)。そしてその都度、奇跡が起こって民は食物や水を得て満足する。ただし、大きな違いは、ヘブライ人たちはこの飢えと渇きに直面して、繰り返しモーセを責めている点である。イエスの話のなかでは、民衆は不平を言ったりしない。かえって、イエス自身がこの民衆の姿を深く憐れんでいるのである。このイエスの憐みとは、出エジプトの話のほうでは、神ヤハウェ自身の憐みとなっている。つまり、イエスはここではすでに神であるといってよい。それに対して、弟子たちは民衆の悲惨を全く理解しないように描かれている。弟子たちはなんと、民衆を解散させて自分で食べ物を調達させるべきだとイエスに意見しているのである。
 弟子たちは、この民衆がイエスに本気でついてきていること、これまでの生き方を捨てて、イエスの言葉に賭けていること、すでに帰るべき場所がないことに、残念ながら気づいていない。弟子たちはまだ、民衆の生きる場所がほかにあると漠然と考えているようである。もちろん、これは弟子たちの愚かさを強調するための作為的な言葉かもしれないが、イエス自身はすでにこの民衆を救い、かつ、ともに生きることを決断している。そもそも、弟子たちにはしばらく休んでよろしいとも冒頭で言っているとおり、イエス自身は一人でこの民衆を養おうと考えているのである。
 イエスは弟子たちに食料を確認させている。あったのはパン五つと二匹の魚である。なぜ魚なのか。パンならまだわかるが魚とは。これは簡単である。ペトロをはじめ、弟子たちの一部は漁師だったからだ。それにしてもわずかである。イエスはこれらを手に取り、「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡して配らせ、二匹の魚も皆に分配された」という(41節)。そして「すべての人が食べて満足した」(42節)。このわずかな食料をみんなで分け、そして満足させたのである。注意したいのは、どこからもパンや魚が湧き出てきたとは書いていないことである。そう誤解しやすいが、パンや魚がたくさん湧き出てきてみんなが食べることができた、などということではない。最近作られた映画で、「Son of God」という映画があるが、これは魚とパンが無限に湧き出てきたことにしている。しかしこれは間違いである。イエスはパンを裂いて分けたのであって、増やしたのではない。魚も同様である。
 この話の背後には、読んでわかる通り、すでに私たちが行っている聖餐式の原型のようなものがすでに存在していることを示している。パンも魚も分け合うのである。食料がわずかであっても、それを
分け合うことで、人びとは満足する。それは最初に示した解釈とは違う。今回、私はこれを本当の食物として考えている。もちろん5000人は大げさだが、この五つのパンと二匹の魚を分けているイエスの姿を想像してほしい。限りなく小さく分けるほかはない。しかし、彼は分けたのである。そのパンはほとんど小麦の一粒ほどの大きさかもしれない。干し魚(と思われる)もほとんど皮なのか肉なのかわからないほどである。
 しかし、民衆は満腹したという。これは何を意味しているのだろうか。本当におなかいっぱいになったのだろうか。この時点ではたぶん違う。おなかはいっぱいになっていない。しかし、やはり、心は満足したに違いない。このわずかな食料を皆で分けること、共同体として、あるいは神の家族として生きていくことの、その最も根っこにある心構え、基礎となる考え方、それが「ともに分け合う」ということである。イエスはそれをはっきりと目に見える形でやって見せたのであろう。そしてこのひたすら分けていくイエスの姿を目にした者たちは、その姿に、もはや食べる前から満腹したに違いない。
 このように、この物語を丁寧に見ていくと、たしかに大げさではあるが、奇跡の話ではないことが分かる。したがって、私が最初に書いたような解釈をする必要さえない。ただし、満腹はしていない、とは思う。しかし、イエスの示した神の民の共同体の在り方に、きっと心の底からの感激を味わったに違いない。
 さて、この物語を残した人物は最後になぜかパン屑と魚の残りを集めたことを加えている。集めてみたら12の籠にいっぱいになったという。これはもちろん脚色。12の籠はおそらくイスラエル12部族にちなむ、理想化されたイエスの共同体の集団の数だろう。ただ、よくはわからない。
 ところで、先に述べた民衆の貧しさについてのことを考えてみたい。イエスは山上の説教(マタイ5-7章)で、「心の貧しい人々は幸いである」と言っている。ルカの方では単に「貧しい人々」であるが、こちらも幸いであると言っている。そしていずれもこれら「貧しい人々」はこれから報われるのだということを強調している。今日の5000人の満腹の話は、この貧しい民衆の「将来の満足」を描いているようにも思われるのである。しかも、それは本来天国で救われるというような観念的な救済ではなく(マタイは天の国としてしまったが)、現実的な体の満腹である。残念ながら、まだそれは実現していないが、この共同体ならそれができるのである。あるいはそのような共同体を作っていくことがキリスト教の課題である。
 イエスは常に未来志向であった。彼は、将来持てる者は没落し、今貧困や差別や病に苦しむものが立ち上がるのだ、という逆転の願いを持ち続けている。それは、モーセの時代からそうだった。しかし、あのモーセでさえ、初めはためらった。どうして私が行かなければならないのかと不平さえ言っていた。しかし、モーセに現れた神は、自分が作った人間たちが人間同士で争い、差別し抑圧しあい、奴隷化されているのを傍観することはできない。だからモーセを派遣した。それから1200年たって、イスラエルの民は自分の内部で差別しあっている、そして巨大なローマの搾取によって民衆は貧しい。権力者たちは、持てる者こそが神の祝福を得ているのだ、そうでないものは祝福が得られていないのだ、と考えていた。それどころか、けがれた者、卑しい者なのだと。
 しかしイエスは全く逆のことを言った。貧しい者、義に飢え、渇く者が幸いだと。これはすでにイスラエルの神ヤハウェの自身の思いに等しい。だから、多くのものたちが「権威ある者」と感じたのである。そして神の国の共同体は強者の独占ではなく、分けること、それも分け隔てなく分け合うこと、これを憲法にしたといってよい。これはすで旧約聖書の昔から実は強く要請されていたことである。それが「隣人を自分のように愛せ」という命令である。この「愛せ」ということの中身は、今日の話の主題、ともに分けあうということである。愛するとは実はともに分け合うことである。そして自分も相手も満足するということである。キリスト教倫理の根幹はこれであるといってよい。
 さて、このようなキリスト教倫理の根幹は、残念ながら、急速に見失われつつあるように見える。大げさとはいえ、1パーセントの人の富が残りの99パーセントの人々の合計に等しいなどと言われるが、イエスが二匹の魚と五つのパンを5000人と分け合ったという限りない愛の行為は、この時代にこそ、もう一度取り戻されなければならない。途方もない貪欲が人の心を激しくむしばんでいるこの時代に、私たちはひたすら分けるイエスの姿を想起しなくてはならない。そして最後には自らの体を分けたイエスを思い起こさなくてはならない。限りなくパンを分けていくイエス。そしてやがて自らをパンとしたイエス。このイエスによって養われる人々は、もちろん限りないはずである。私たちはそのパンをいただいた一人として、今日から先の人生、何をなすべきか、どう生きるべきかを「共に」考えるべきであろう。