日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2017年6月4日
「聖霊(神の息吹)により、心を新たに」サムエル記上10章1~7節、使徒言行録2章1~13節
 サムエル記上の記事は初代の王となるサウルが預言者サムエルから油を注がれたこと、その後、神の霊がサウルに降りたことを伝えている。
 油を注ぐ(マシアハ)という儀式は、油注がれた人物が王として選ばれたことを意味する。紀元前11世紀末の古代イスラエル社会では、王とは自分で勝手に宣言してなるものではなく、神によって立てられた預言者、すなわち神の言葉を受領する人物の権威の下で、王として指名される。王は預言者の下にいるのである。
 さて、王として指名され、油を注がれたことによって、名実ともに王となるかというとそうではない。儀式はやはり形式的なものに過ぎない。その儀式を経た者は、さらに神との直接的な関係に入らなければならないのである。そのことをこの記事の後半が伝えている。サウルは実はろば探しの途中なのだが、すでにろばは見つかっているらしく、帰路につく。その途上、預言者の一群に出会い、霊が降臨することになる。預言者団が実際にどのような団体なのかはっきりしないが、神の霊によって憑依され、意味ある言葉だけでなく、意味不明の言葉も語り始めたらしい。このような預言者団は元来イスラエルにとってなじまない性格の集団にみえる。しかし、エジプトを出て200年、沃地の生活も浸透し、荒れ野時代に与えられたモーセの法の伝統に加え、新たにカナン的な現象も自分たちの文化の一部になっていたのかもしれない。憑依して語る預言者の集団は、おそらくカナン的宗教現象だと思われるが、彼らはヤハウェの預言者団として承認され、各地を巡回しながら民衆の様々な宗教的・呪術的な要求に応えていたのだろう。後のエリヤの時代にはヤハウェの預言者団とバアルの預言者団とが対立していたことが記されている。
 さて、登場する預言者団はすでに主の霊に満たされ、「預言する状態」になっていた。彼らは霊に満たされて、何らかの言葉を語り、ある種の行動を示していたのだろう。これは心理的・精神病理的な現象であるが、こうした外見は別に驚くにはあたらない。踊りや歌、ある種の反復的動作、あるいは動作そのものを否定する状態の継続(例えば禅)は、人間を陶酔や憑依、あるいは意識の消失と別な意識(無意識)の浮上など、私たちの時代においても普通にみられるものである。ただ、それを宗教的にあるいは社会的に意味あるものとして理解するかどうかは別問題である。もはや私たちの時代では、それは禅を除けば病理的な現象か、芸術にかかわる文化的現象としてとらえるだけである。しかし、古代イスラエル(だけではない)では、こうした現象を宗教的政治的に意味あるものとして受け止めていた。集団で憑依し、何らかの言葉を語り、奇妙な動作をする集団は、神にとらえられた貴重な集団であり、彼らの語る言葉や動作に参加することができるなら、その人物も確かに神ヤハウェの霊に満たされたのであり、その人物は信用できる人間として受け止められたのだろう。これをイニシエーション(入会儀礼、通過儀礼)と呼ぶこともできるが、そして私も以前はそうとらえたが、これは儀礼的な要素より、精神的なものの刷新を行う技法であるように思われる。その具体的な過程は知られないが、霊の降臨とともに「心が新たにされた」ということは、その人間の精神が変容したということだ。それはその人間の人格の変容ということではない。アイデンティティを喪失するようなことではない。その人の人格はそのままに、しかし、王として期待される力を得たということかもしれない。それは王としての自由な行動を促す力である。聖書には「別人のようになるでしょう」とあるが、人格の交代や変質ではなく、王的な自由を行使しうる権威を帯びるということだろう。そのことを「これらのしるしがあなたに下ったら、しようと思うことは何でもしなさい」(サム上10章7節)というサムエルの勧告が示しているように思われる。
 こうしてサウルは、油を注がれただけで王となったわけではなく、このような霊の降臨によって、王としての資質のようなものも獲得する。彼は力を得たのである。それは民を指導する力、権威のようなものである。すると霊を受けるということは、その力によって周囲の世界を変えていく人間になるということである。もちろん、それは「ヤハウェの霊」であることが重要である。サムエル記上のこの先を読んでいくと、主の霊がサウルを離れ、やがて悪霊が彼をさいなむようになったと書かれている(サム上14節)。悪霊もこの人間と周囲に非常に影響を与える。
 古代のイスラエルの人々は、世の中に大きな影響を与える人物には「主の霊」が宿っている、それに満たされている、いやそうでなくてはならないと考えていた。一方、その人物の側も、自分が主の霊に満たされていることを常に意識せざるを得なかった。そしてそのことを確証するのが預言者であった。それゆえ、サムエルの権威は王よりも高い。そして彼自身もまた主の霊に満たされていたのである。
 主の霊の降臨という事態は、おそらく現象としては次第にすたれていったように見える。むしろ幻や夢という現象のほうが意味あるものになっていったように見える。イザヤやエゼキエルは幻、エレミヤは幻より言葉に比重がかかる。ダニエル書では夢である。しかしもちろん、主の霊に満たされてことを始めるということは引き続き期待されていた。それは例えばヨエル書3章の冒頭のよく知られた言葉「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る」(ヨエル諸省1節)にあるように、霊の降臨が強く期待されている。しかも、預言も夢も幻も、結局、主の霊が初めに注がれていなければ始まらないと言っている。ということは、主の霊とは結局ヤハウェ宗教のあらゆる事柄の源であることがわかる。
 ヤハウェ自身は目に見えない。天上地上を問わず、形あるものは神ヤハウェではない。しかし、主なるヤハウェは私たちに人間に理解されなければ始まらない。その時、ヤハウェは霊として姿を現す。しかし霊とは目に見えないはずである。では「姿を現す」というのは矛盾である。しかし、それは具体的に人間の行動と言葉において現れる。結局、神は人間の活動を通して自らを現すしかない。
 さて、本日は聖霊降臨を記念する礼拝である。毎年この出来事を記念して祝うのであるが、これは過越祭の日から50日目、ユダヤ教の7週祭の日に当たる。この日はイエスが死んだ日から数えても50日目となるので五旬祭(ペンテコステ)と呼ぶ。この日にイエスの弟子たち一同は「聖霊」に満たされたとされる。そしていろいろな国の言葉で語りだしたという。これは著者ルカの創作的要素が色濃い記事である。しかし、そこにはやはり旧約の伝統をしっかりと受け継ぐルカの姿勢が明瞭である。つまり、彼はヤハウェの権威をその身に帯びるには、神自身の直接的な働きかけが必要であるということをはっきりと訴えたのである。つまり、王として指名されたサウルが、そしてのちのダビデもまた、かの預言者団を通して神の霊に直接とらわれたのと同様に、神の権威を身に帯びるには聖霊に満たされなければならないのである。聖霊に満たされたのち、彼らは心を新たにされて、宣教の働きを行うことができるのである。つまり、指導者としての役割、教会をたて、民を導くことができるということだ。さらに、聖霊降臨の出来事は、教会の誕生、すなわち人々を導く共同体、世の光となる共同体が生まれたことも同時に意味している。なぜなら、この聖霊降臨の出来事は、一人の人に起こったことではなく、弟子たちみんなに起こったことであるから、このできごとは一人の指導的人物の登場ではなく、集団としての出来事である。したがって、指導的共同体、つまり教会の誕生とみなすことができるというわけである。
 さて、聖霊に満たされたあと、彼らは新たな人間となり、世の力など恐れることもなく、活動を開始する。彼らは、あのサウルの時のように、自分の目に正しいと思うことは自由にやっていけるのだ。
 さて、この記念の出来事を想起するだけでは十分ではない。私たちは今ここで改めて聖霊に満たされることを求める。しかし、それは願って与えられるものでもない。それは外からくる。サウルはろばを探しているときにサムエルに出会い、彼にとっては全く思いもよらぬ選びを経験した後に、主の霊を賜った。私たちはもちろん、王的人間ではないだろう。しかし、どのような人間であれ、神の霊は宿る。その霊は何も王となる人間に特別というのではない。おそらくそれぞれの人生の諸段階、あるいは各人の個性に合わせた聖霊の降臨があるに違いない。それは時に、まったく気が付かないかもしれない。しかしそれは間違いである。今日ここに集う人々は、すでに聖霊に満たされ、新しい自分になった、あるいはなろうとしている人々である。したがって、もはや気づいている。あとは、自分のやりたいことをなんでもやればよい。
 誤解があるといけないので加えるが、自分のやりたいことは何でもやりなさいということは、好き勝手に悪しきことさえてやってよい、ということではない。しかしそれは完全に誤りである。なぜなら、これは「聖霊」の力に基づくのであるから、愛の行為以外はかえってなすことができない。もし、それができないのなら、悪霊にとってかわられたあのサウルと同様の道を歩む。すなわち自らの滅びである。よく「聖霊に導かれて」という言い方をするが、その言葉によって自分を肯定しようとするのである。仮に自分でそう思っても、周囲はそう思わないかもしれない。聖霊に導かれてという枕詞は、あくまで他者を評価するときに使うべきだろう。さらに、自分で聖霊に満ち溢れているなどと評価するのも、越権であろう。聖霊に満たされているのを発見するのはあくまで客であり、家族であり、民衆である。
 私たちはすでに聖霊に満たされたこと信じつつも、あくまで謙虚に、しかし自由に、大胆に世に向かって語っていくべきである。そして相互に聖霊の導きを確認しあいながら、この地上の生涯を世の光として歩んでいきたいと願う。