日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

HOME  砧教会について  牧師紹介  集会案内  説教集  アクセス


砧教会説教2017年6月11日
「包囲され、滅びゆく都、しかしその先を見つめて生きる」ミカ書4章9~14節
題を考えてからしばらくして、主日礼拝の説教題として掲示されたのを見た皆さんの怪訝な顔が思い浮かんだ。確かに、これでは何を話すのかピンと来ない。ミカ書の講解説教の続きのため、このような題となっただけですが、それでも、都に暮らす者にとって、すなわち、国家の中心に暮らす者にとって、現在の日本の政治状況を鑑みれば、この題が必ずしも的外れではないようにも思える。あまりに雑で虚偽に満ちた国家行政なのに、数の力だけあれば、なんでもできるという驕り、民主主義とは多数決のことであると曲解する政治家の跋。したがって、少数者の権利、表現の自由などの基本的人権さえ、多数決によって抑え込めると考えてしまう。民主主義の前提には基本的な人権の尊重があり、それは多数決によって決めることではないのは当然であるが、その前提を忘却し、多数の民意、しかも総選挙の時の勝利者の多数だけで、あらゆることが決まってしまうとしたら、恐ろしいことだ。いわゆる共謀罪が成立すれば、ほとんど民主主義は自滅したのも同然である。民主主義とは多数決のことであるとする誤解は民主主義自体を葬ることができるのである。
さて、このような都の堕落、国家の中心の劣化に抗して何ができるのだろうか。古代イスラエルの歴史において、このような危機に登場したのが、預言者たちである。本日はミカを取り上げるが、同時代のイザヤとともに、彼は都の堕落に対して厳しい批判を展開した。しかし、首都エルサレムとユダ王国は、結局、彼らの活動の時代から120年後に本当に滅びてしまった。もちろん、この滅亡はこれに先立つアッシリア、そしてその後のバビロンといった強力な帝国の攻撃によるものであるが、預言者たちは、こうした滅亡はエルサレムとその住民、すなわち国家の中枢を担う者たち、王、官僚、祭司などの支配層の堕落と背信の結果であると考えた。つまり、自分たちの歩みがヤハウェの選びに応えていなかったためであると考えた。より具体的に言えば、エジプトからの解放、律法の授与、土地取得という一連の救いの業の意味を忘れた結果である。
本日の聖句は、預言者ミカの言葉への付加とみられる部分である。これに先立つ断章は、一つの時代の終わりと新しい時代の到来を描いており、終末論的なイメージに満ちていたが、9節からは明らかにバビロン捕囚を背景としたより現実的な預言である。ただし、各節のつながりは錯綜している。
9節では、「王はお前の中から断たれ」とあるので、この断章を残した者は前587年のゼデキヤ王反乱後、都が包囲され、足掛け3年を経たのち、ゼデキヤ王が捕縛され、バビロンに連行されたことを知っている。この出来事は列王記下24章18節―25章21節にかなり詳しく記録されている。そこには包囲され深刻な飢餓に見舞われた結果、苦し紛れにエルサレムを脱出したゼデキヤ王がバビロン軍に捕縛され、目を潰されてバビロンに連行されたこと、エルサレムに火が放たれ、都が陥落していく様子、さらに神殿の聖なる品々の略取と祭司や宮廷の官吏に加えて「国の民」らが連行されたことなどが記されている。これらの経過を知っているミカ書の語り手は、この惨状をおそらく少し時を経た後に、回顧しているように見える。彼は王国の滅亡を嘆く人々に向かって問う。なぜか、彼はこの苦難を「子を産む女のように陣痛に取りつかれている」とみなしている。この点について、フェミニスト的立場からの聖書注解(Wisdom commentary)でミカ書注解(Micah, Liturgical Press, Minnesota, 2015)を書いているJulia M. O’Brien は、女性の出産の苦しみを都や国家の滅びの苦難に重ねることが特に預言書に多いことを指摘している。都市や国家は一般に娘として表象されるが、その「傷つきやすさ」が女性のそれと重ねられるのである。彼女は言う「こうした傷つきやすさは古代イスラエルの娘たちの社会的地位を反映している。すべてのイスラエルの女性はその生活を支配する男性に依存していたが、聖書のテキストは娘たちの極端な依存性を証言している」。このような傷つきやすさと滅びゆく都が重ねられるのは、結局滅ぼし蹂躙するのが男たちであり、蹂躙されるものとしての都エルサレムは女性(娘)となるからだ。
ところで、正確にみると都エルサレム(シオン)という場所が問題となっているのではない。実際にはシオンとはここに住むヤハウェを信ずる共同体を包む母のことであって、問題なのはその母のもとにいるヤハウェの共同体である。だからこそ、シオンは「もだえて(子である共同体を)押し出」さなくてはならない。シオンないしエルサレムという母であり娘でもある場所は、今や滅んでいくのだから、子であるヤハウェの共同体を滅びゆく母のもとから押し出さねばならないということだ。つまり、神の娘であり、共同体の母であるシオン(エルサレム)は自分の保護する共同体と離別しなくてはならないのだ。だからこそ、シオンは泣き叫ぶ。ただ、預言者の意識ではこのシオンという場所とそれが守る共同体が重なっているようにも見える。したがって「今、お前は町を出て、野に宿らねばならない」といい、シオン自体が野に出て、やがてバビロンにたどり着くかのように語っている。しかし「お前」とはやはり、捕囚となっていくエルサレムの住民全体を一人の人間のように見なして語り掛けていると見るのがよいのではないか。解釈は難航するが、場所とそこに住む共同体を分けて考えてみるのが妥当であるように思われる。
ところで10節後半では、シオンを押し出された者たちはバビロンにたどり着けば救われるのだといわれる。預言者はこの未曽有の危機、国家滅亡、都の消失を終わりだとは考えていない。都に未練はあるが、その都を思う共同体が存続するならば未来は開ける。彼はバビロンで主は「お前を」敵の手から贖うだろうという。預言者は包囲され滅んでいく都を嘆きながらも、その先、つまり生き残った者たちの未来を展望し、励ましを語るのである。
11節以下では、預言者は滅びゆくシオンに対して、諸国民が「そこを汚し、この目で見よう」と集まってくる様子を語りだす。諸国民もシオンは女性とみなしてているようだ。ユダ王国の都の没落は、近隣諸国にとっては侵略して権益を奪う好機である。このような感覚はあまりイメージがわかないかもしれないが、例えば十字軍が小アジアからパレスチナにかけて侵略した時代(11世紀)、この地域の都市はジハードを呼びかけるなどということはなく、かえってある都市が攻撃されれば、相対的に自分たちの力が高まるため、傍観したり、逆に十字軍に協力したりすることもあったらしい(『アラブから見た十字軍』参照)。要するに足の引っ張り合いをやっているのである。シオン(エルサレム)の陥落に際しても、漁夫の利を得ようとする近隣諸民族の思惑が強く働いていたのだろう。それゆえ、預言書には、王国滅亡と関連した、諸国民への預言集が集められたのだと思われる。イスラエルの人々は、諸国民によるユダ王国とエルサレムに対するしたたかな振る舞いを執拗に記憶したのだと思われる。
さて預言者はこうした諸民族の侵略的行為に対し、ヤハウェの厳しい裁きを語る。彼らはシオンに集まってくるが、これは実は罠であり、ヤハウェの謀(はかりごと)なのである。彼らは集まって来るが、打穀場に集まってきたようなものである。13節では、シオン(エルサレム)を頑強な角とひづめをもった牛のように見立て、これらの民を打ち倒し、彼らが奪ったエルサレムの富を改めてヤハウに捧げさせるだろう、と語る。12-13節のモチーフはヨエル書4章9-12節にも現れる。
ほとんど夢想にしか見えないが、このような報復の心情は、例えば詩編に満ちている。彼らは、自分たちの罪を深く意識すると同時に、諸民族の不正も、しっかりと糾弾し、記憶し、ヤハウェの報復を願うのである。
14節は嘆きの歌に代わる。もう一度包囲の現実に戻る。預言者は包囲の時をリアルに思い起こし、イスラエルの没落を確認している。
包囲され、滅びゆく都を目にした人々の多くは、これを自分たちの終わりと重ねたであろう。しかし、そうでない者たちもいた。これは戦争であったから、この過程の中で命を落とした者たちもたくさんいたはずである。このような圧倒的な危機に際し、絶望していく者たちが数多く現れる中で(イザヤ書22章13節「しかし見よ。彼らは喜び祝い、牛を殺し、羊を屠り、肉をくらい、酒を飲んで言った「食らえ、飲め、明日は死ぬのだから」と」。)、一部の者たちは、これを終わりではなく、新たな将来のための出発であるとも考えた。これは新しいカイロスの始まりである。もはやシオン(エルサレム)ではなく、そこから押し出されて、バビロンへと連行されていくのであるが、しかしその地においてヤハウェは再びわれら残りの者を贖うであろうと信じることにした。もちろんこれはおめでたい夢想ではない。彼らは、かつてヤハウェが先祖への約束を思い起こし、奴隷の国エジプトから解放したという出来事を民族の記憶として持ち続けている。それ故、彼らは神ヤハウェをあきらめることがない。
捕囚期以降の預言書への付加は、自分たちの将来像を描きなおすことに腐心した結果である。ほとんど夢想に見える言葉が多いが、実はこのような想像力が人々を励ましたのである。そこにはすでに述べた通り、諸民族への復讐心に満ちた、報復を求める祈りもいたるところに見える。そしてこのようなものは、私たちの現実においては読むに堪えない。しかし、彼らの、すなわち、敗北と滅亡を目の当たりにした人々の現実においては、このような感情的な預言は一定の意味を持っていた。つまり、ルサンチマンを基として、今の現実を耐え抜き、またはそれをバネにして前に進むことの可能性である。このようなことを軽く見てはならない。実はこのような怨恨感情(ルサンチマン)は、その根本に、その解放、すなわち、受けた罪の記憶とその罪からの立ち上がり、すなわち歴史的な責任の所在を明確化することへの願いと期待を内に抱えているからである。
私たちはいろいろなことを忘れていく。そして忘れなければ前に進むことができないことも知っている。しかし、捕囚期以降の預言者たちは、紀元前8世紀の預言に6世紀に起こった滅亡と捕囚へのコメントを加えることによって、それ以前の預言を残すと同時に、今の現実(滅亡と捕囚)を生き延びるための手段としてシオンをいったん捨ててあきらめつつ、しかし同時にシオンを侵していく者たちへの非難と審判を書き残したのである。彼らはこのようにして、ヤハウェの民の将来的な持続を次の世代へと託したのであろう。
さて、いま私たちの都も深刻な危機にある。都と国が行政上分かれているが、地理的には一つであり、霞が関と平河町で生じていることは、新宿と関係ないということではない。そもそもそれは一体とみるべきだろう。それゆえ、物理的に崩壊することはイメージしにくいとしても、精神的な意味でのこの都の崩壊は歴然としているように見える。その中にあって私たちは、この危機をしっかりと見据えるべきであり、折に触れ預言者的にふるまう必要があるだろう。
ミカ書のこの断章を現実の東京に重ねるのは牽強付会のそしりをまぬかれないことは承知しているが、それでもなお、私は都の危機と国の危機を預言者的な精神において、この時代に重ねて読むべきだと信じる者である。