砧教会説教2017年6月18日
「イエスを通じて心は清められていく」
マルコによる福音書7章1~23節
新約聖書、特に福音書を読んでいくと、「汚れ」という言葉にしばしば出会う。中でも「汚れた霊」というのが一番多いように見える。今日の断章には「汚れた手」が出る。「汚れ」という表現はなされないものの、これまでの取り上げてきた断章に現れる「重い皮膚病」「病人」「中風」「出血」という言葉には、汚れの感覚が強く意識されていると思われる。
この汚れの感覚がなぜこれほど意識されているのだろうか。旧約聖書のレビ記には、こうした汚れの感覚を基にした儀礼的・祭儀的律法が数多く残されている(11章―21章)。このような律法が制定された根本的な目的は何だろうか。一般に、ユダヤ教は自らの立場を厳格に他と分離することによって自分たちの独自性、アイデンティティを守ろうとしたといわれる。そのアイデンティティとは、自分たちは神ヤハウェによって選びだされて、人類の規範となる(聖なる民、祭司の王国)のだ、という宗教的な自意識である。しかし、そうした自意識、ないしプライドの源は、自分たちが元来みじめな奴隷の身から神の憐れみによって救い出された経験(出エジプト)に基づいている。この何物にも代えがたい喜びの経験をもとに古代イスラエルの宗教伝統が形成されていったのだが、その過程で、自他を厳格に分けなければ、自分たちの使命を果たすことができなくなると、一部の知識人や祭司たちは考えたのだろう。そのための方法として、例えば安息日、食物規定、様々な病気に関する規定、祭儀規定などを厳密に決めていった。そしてその規定に従って人々を区別し、やがて差別していくようになった。規定を守らせ、それによって裁いていくのが祭司や律法学者と呼ばれている人々であり、彼らがイエスの時代のユダヤ社会を支配していた。もちろん、当時のユダヤ社会の支配構造は三重であって、祭司や律法学者の権威や権力のみによって支配されていたわけではない。背後にはローマ帝国の圧倒的な権力があり、さらにヘロデ王家の権力も存在した。例えば、イエスの先駆者であった洗礼者ヨハネはこのヘロデ王家を厳しく批判したため、その権力によって処刑されたのである。
このような三重の支配の中で最も民衆に身近なのはやはり律法による支配であった。これは日常の暮らしを縛るものである。律法から逸れることは罪であるとされ、ユダヤ社会の中では差別されることになる。深刻な罪、あるいは罪の結果としての重い病に罹った人々は、現実的に排除された。ハンセン病を筆頭に、出血や漏出といった身体的な「汚れ」は、おそらく共同体全体の健康を損ねるものとみなされ、そこから遠ざけることは当然とされたのであろう。宗教的差別や排除には、一定の合理的理由があることは確認されておくべきだろう。
しかし、もちろんイエスはそんなことはわかっていたに違いない。そうした合理的理由とは別に、律法を絶対的なものとして、ひたすら他者をさばいてく姿勢、合理的な理由などなく、ただひたすら「伝統」と称して分離し、排除する姿勢、この姿勢において何が忘れられているのか、そのことを問うたのである。イエスは、イスラエルがかつてエジプトで差別され、奴隷として生きていたという根源的な苦難にヤハウェなる神が目を留めてくれたことを忘れたのか、と批判するのである。そのことを思い起こせば、今の律法主義による排除と差別は、根本的に問い直さなければならないだろう、というのである。
イエスの時代のこうした差別的状況は、別にその時代に特別というわけでもなければ、ユダヤ教だからというわけでもない。強弱はあるにせよ、どこにでもある。日本では中世末から仏教の影響もあり、貴賤の差別から、浄・不浄の差別が強くなったとされ、血を扱う職業は死を扱う職業と並んで厳しく差別されるようになった。そしてそれは今なお部落差別の形で残り続ける。あるいは、インドにおいて差別は構造化されているので、もはやそれを克服することはよほどの意識の転換が起こらない限り難しい(もちろんそのような運動は存在したし、存在し続けている。例えば20世紀前半からのアンベードカルの新仏教運動)。イスラム世界ではおおむね女性は被り物をするが、これは女性の性的身体を男の視線から排除するための方法である。つまり女性はその身体を自由にする権利を部分的に剥奪されている。その被り物は単にイスラムであることを象徴するためのものであるとの主張もあるが、それは間違いである。イスラムの女性自身がイスラム教の父権的価値観を内面化してしまっているだけのことだ。
人間の世界にあふれている様々な差別や排除の制度化とその歴史的影響力はそう簡単に取り除くことはできない。先に触れた通り、この日本においても宗教的呪術的観念によって支配された精神的な根っこを引き抜くことは相当に難しいのである。
しかし、イエスの活動とは、そのような精神的支配を根本から解体することであった。そのことが今日の断章に明確に示されている。前半は「汚れた手」で食事をするイエスの仲間たちへのユダヤ教保守派からの非難に対するイエスの反撃を残している。イエスはそうした律法の由来を問題にしている。「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(7章8節)と言い放ち、さらに「父母を敬え」という十戒の文言を引き合いに出しながら、神にささげると称して父母から奪い、親をないがしろにしている保守派の人々を非難する。文脈的にわかりにくいが、宗教的な捧げものがまず大事で、父母のことは後回しにするという態度が、そもそも本末転倒である、ということだろう。
14節以下では、このようなやり取りの後でイエスは群衆に向かって語る。「外から人の体に入るもので人を汚すことのできるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(15節)と宣言する。これは決定的な言葉であった。イエスはそのことに完全に忠実であったからこそ、病気の人やハンセン病の人とも、そして手など洗わない人達と一緒にいるのである。彼らは単に外から入ったものによって病んでいるにすぎない、つまりは自分のせいで苦しみを背負ったのではない、ということに確信を持っているのである。だから、イエスにとって保守派の決めつけは、かえって汚れた心を持つ者たちによる言いがかりに過ぎない。人を差別したり排除したり虐待したりするのは、人の内側の醜さと汚さが原因である。差別されている側に原因があるのではない。
イエスは完全な価値の転倒をやって見せた。だから弟子にも民衆にもなかなか理解されない。罪のもとは自分の中にあるのであって、外側のことではない。つまり、外形的に様々な儀礼的ないし祭儀的律法を守ったとしても、それは無関係である。イエスはこのようにして当時の律法主義的ユダヤ教を批判した。これは根本的なことである。しかし問題は、イエスが言う通り「人から出るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心のから、悪いものが出て来る」(20節)のであるなら、それを人は乗り越えることができるのだろうか。これがキリスト教の根源的な問いとなる。
ところで、このような問題意識は実はイエスにおいてはじめて現れたのではない。本日は細かく取り上げないが、すでに預言者イザヤやホセアは儀礼的なことを重ねても人も社会も赦されもしないし、清められもしないということを厳しく語っていた。つまり、彼らもまた、祭儀や犠牲の無意味を説いていたのである。さらに詩編50編もそのことをわかりやすい比喩で語っている(これについては祈祷会で取り上げる予定)。要するに神との取引によって、共同体や個人と神とのかかわりを更新したり修復したりするという人類共通の宗教的方法は、次第に乗り越えられていくのである。言い換えれば、預言者の言葉から始まりイエスの言葉と行動に至る歴史は精神的な革命の始まりを物語るといってよい。
では、どのように人間の心から出る様々な「悪」を滅ぼす、あるいは少なくとも飼いならすことができるのだろうか。今日のテキストには書かれておらず、これはたんに悪の起源を説明しているに過ぎない。しかし、私たちはすでに知っている通り、この悪を自分で滅ぼすことはできない。外にあるのなら戦うことができるが、内にあるのである。自分をたたき続けるほかないとしたら、それは悲惨である。もちろん、それを行おうとする人々もいる。禁欲的修行によって、内から沸き起こる欲望や妄念をひたすら抑え込むといったように。古代キリスト教の指導者はそのような方向で魂の救いを実践した。しかし、本来のキリスト教はそのような自力の救済を志向したのではない。かえって、それを捨てたのである。自力の救済は結局その方法それ自体が律法と化し、その方法が絶対化され、かえってそれに拘束されていくだろう。そもそもイエスが批判したのはそのことであった。
ならば、救いはどこにあるのか。それは今日のテキストには書かれていない。しかし、先回りして語るなら、それはイエス自身の身を賭した姿それ自体にある。それはのちに十字架に象徴されるが、本来は彼の生涯全体である。それはやがて神の子の犠牲とされるほどに栄光化されるが、元来はそうではない。彼の十字架を通して、彼の言っていた「心の中から出る悪い思い」を完全に外側に出して、彼の死とともに葬り去ったことによるのである。もちろん、この十字架は普通に見れば単にローマの死刑に過ぎない。しかし、そこにキリスト教はすべての罪の集約とその滅ぼしを確かに発見したのであった。これは最初期のキリスト教徒、弟子たちと、そしてそれを観念的に受け継いだパウロにおいてであった。罪の、悪の滅ぼしは人間自身に期待することはできない。ならばどうするか。それは結局創造主であり、かつ責任者である神自身の力による外はない。そしてその責任を神は果たすはずだ、なぜなら神は義であるから。その神の働きかけがイエスの生涯であった。だから、彼を神の子とみなすのは正しいのである。それゆえ、キリストの生涯の業の働きを信じることが、私たちの罪の赦しになるのである。これを信仰による救いという。このことの意味は次第に覆い隠されていったが、500年前ルターによって改めて見出されたのである。
イエスを通じて心は清められていくというのはこのことを意味するのである。そしてそれは単なる一時的なカタルシス、浄化というのではなく、その人自身の新しいステージの始まりである。それは比喩的に言えば「復活」でもある。
私たちは、各人の魂はすでに神とともにあること、イエスとともにあることを信じるだけでよい。教会とはまず、そのために存在し続けるのである。