日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2017年6月25日
「時(カイロス)の極みに立つイエス」マルコによる福音書8章31~38節
 7章の前半の記事を先週見たが、イエスの新しさは、人間が作ってきた様々な規則や法律、特に宗教的なそれが、結局人間を外から枠づけ、縛るものであること、しかも常に人々を分断し、さらには差別を生み、そして貧困や差別を生むということを明らかにし、それを超える道を指し示したことであった。
 食事の律法や手洗いなど、浄・不浄の観念に拘束され、つねに外からくるものを警戒し、排除すること。このことに躍起になればなるほど、人間の世界はギスギスし、分断され、争いが絶えなくなる。私事で恐縮だが、昨日、息子も参加している芝居を見に行ったところ、テーマは分断的なナショナリズムの根本的な危険性を、ブラックユーモアを交えて、批判する内容だった(ヘイトスピーチをリアルに再現することを通じて、かえってその愚かさを露見させるという過激な演出が含まれていた)。要するに、国家や民族の伝統の名によって、あらゆるものを分断し排除することの、最終的な可笑しさと哀れさを描き、最後は気づいてみたら、伝統を純粋に守れるものなど、実は誰もいないことに気付かせる、といった趣である。
 もちろん、ユダヤ教の本質がイエスの批判するレベルだけにとどまるものではないことは、イエス自身も当然わかっている。ただ、彼は伝統と称していつの間にか都合のよくこしらえた一部の人の利益を守る手段となった「律法」を捨てることをひとまず打ち出したのであった。しかし、そのような、当時のユダヤ教支配体制の批判や非難にとどまるものでもない。彼はやはり、彼以前のユダヤ教の伝統のすべてを乗り越える道を示したと思えるのである。この点について先週の最後で、人類の精神史における革命的な出来事であると評したが、そのことの意味は、単に表面的な社会的差別への批判、その根っこにある宗教的な浄・不浄の観念への批判、そして人間が救われるということは常に純粋、律法(本来、「法律」で構わない)に従うことであるとすることへの批判なのではなく、これまでの宗教的救済の在り方そのものを乗り越えたという意味においてである。彼は外側から自らと他者とを律することを全面的に捨て去ったのである。儀式を捨て、犠牲を捨て、外側から規定する律法を捨てる。したがって、彼は単にユダヤ的宗教性を捨てたというのではなく、その時代のすべての宗教的なるもの、それによる人間の奴隷化(支配)を乗り越えようとしたのである。一見ユダヤ教内部の宗教改革運動の一部に見えるが、その内実はその時代と世界の構造全体に対する批判の契機を含んでいたのである。だからこそ、驚くほど急速にローマ世界へと広まったのである。この新しい宗教は、これまでの宗教とは違う、新しい次元に到達したのである。
 今日のタイトルは、このことを念頭に置いている。つまり、カイロスの極みに立つというのは、新しいカイロスの入り口に立つ、ということである。イエスの生涯と死を象徴的に表現すればそうなるのである。
 さて、イエスは昔からの伝統と称して人々の精神を拘束する身勝手な律法主義者たちを批判した後(7章)、シリア・フェニキアの女の言葉に感じ入って、この外国の女を癒し、耳の聞こえず、口もきけない人を癒し、4千人の人々を養う。(7章24節-8章10節)。その後、時代の変わり目なら「しるし」を見せよ、と迫るファリサイ派の難癖に辟易しながら、「しるし」なぞ与えられないことを告げる。実際、聖書記者も含めて、客観的なしるしが欲しいのである。それが時代を画する証拠なのである。しかしイエスはそんな外側の出来事と精神的な革命のとの関連に関心がない。精神的革命は当然、内なるものであり、天変地異など無関係であるということだ。さらに、パンを忘れてうろたえる弟子をたしなめ、モノとしてのパンを問題にしている弟子たちの無理解を叱責している。要するにイエスの言うパンとはイエスの「言葉」であり、さらに言えばイエス自身なのである。だからモノとしてのパンの少なさに右往左往するのはお門違いなのである。
 その後、一人の盲人をベトサイダで癒し、ついにペトロがイエスを「メシア」と表明したという。このあたりの事情の関連は必ずしもはっきりしないが、ひとまず、イエスのメシア性が次第に明らかになっていくように描いていると見てよいだろう。そして本日の聖句に至る。
 「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」(31節)。これはイエスの言葉の直接の引用ではなく、間接的な引用である。しかも、イエス自身の復活を予言しているようでありながら、正確には「人の子」の排斥と死、そして復活である。もちろんイエスは自分を「人の子」すなわちダニエル書にみられる「人の子(のようなもの)」(ダニ7章13節、ここでは神(「日の老いたる者」)の前で彼から権威を移譲されるメシア)に重ねているように見える。したがって、イエスはこの時代、あるいはこの世界の最後の時期に現れたのであるという自意識を持っていたように見える。しかし、エルサレムの支配者によって殺され、三日目に復活するという予言は明らかに事後的である。これはすでにイエスの死と復活を信じた共同体の成立を前提にしている。前半はイエスの自意識だとしても、後半は共同体の言葉であろう。
 このイエスの予言に対して、ペトロはイエスをいさめ始めたという(32節)。いさめたことの中身はわからないが、この断章に前にあるメシアとしてイエスを信じるというペトロの発言と関連するだろう。ペトロはイエスをメシアと信じるが、彼の信じるメシアはおそらく地上的メシア、つまり軍事的な解放者、新しいイスラエルの王である。新しいダビデの到来として、イエスを信じたのであろう。それゆえ、そのメシアが死ぬということに納得がいかない。それは地上の革命の失敗でしかない。このような予言を信じるなら、自分たちの活動の未来はない。そのようにペトロは思ったのであろう。失敗することを確信する指導者についていくことはできないのは当然である。
 しかしイエスは逆にペトロを叱って言う。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず人間のことを思っている」(33節)。この発言の真意はにわかにはわからない。しかし、ペトロの信じるイエスは地上の王としてのメシアであり、人間の思惑に基づくメシアである。しかしイエスは天上の決定に基づくメシアであり、このメシアの働きはその死によって成就するのであること、すなわち新たな世界はその「殉教」によってのみ実現するのであり、地上の人間の狭い料簡で部分的に変化し、それによって自分たちがこの地上で幸福になるというようなことはイエスにとって端から問題ではない。だからイエスは叱ったのである。そしてきわめて危うい、しかし後のキリスト教にとって最も重大な勧告を行った。すなわち「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34節)。これは人間の思惑の中に生きることを捨てて、自分がその上で殺される十字架を背負うことを求めているが、この真の意味は何か。これまでの人間世界の歩みを前提にした人生を捨てること、この世の価値を捨てること、そして仮にその結果処刑されるとしても、自分の精神の真の自由に基づいて全く新しい世界に入ることを選ぶこと、少なくともそう信じて選ぶこと、である。その結果「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、福音のために命を失う者は、それを救うのである」(35節)。この世で救われたい者は命を失うとはどういうことだろうか。それは、この世で救われているのだから、新しい世の命はもうないということ。では福音のために命を失うとはどういうことか。それはこの世で殉教した者はこの世から見捨てられたのだから、新しい世に生きるということだ。最終的には命は一つである。結局、命をどちらで実現するかの問題である。
 イエスにおいて、二つのカイロスがほとんど接近している、あるいは接しているのである。だからこそ、このような決断の要求が意味を持つ。これは漠然とした二世界説ではなく、彼の意識において、二つの世界が接しており、一つのカイロス(この世、この時代)の極みにいるのである。しかも、この世は新たな世界によって圧倒されていくだろう。つまり新しい世界によって滅ぼされていく。それゆえ、「たとえ全世界を手に入れても、命を失ったら」という仮定は、この全世界そのものが終わるのだからという前提がある。その前提がないなら、全世界を手に入れるほうが良いに決まっているのだ。この全世界の終わりに自分の命を重ねるのではなく、新しい世界に命を預けること、それが真の救いである。イエスにおいて、「神に背いたこの罪深い時代」という深い絶望的な認識があったのだろうか。これはイエスに託したマルコの思いなのかもしれない。この後「わたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るとき、その者を恥じる」(38節)と宣言する。ここでは「わたし」と「人の子」は分けて考えられているが、二人の思いは同じである。すでにイエスはこの世の向こう側に立っているかのようである。
 このようなきわめて先鋭的な険しい危機意識、そして滅びの感覚、鋭くとがった尾根を歩く、あるいは非常に深い谷を下に見て向こう岸へ渡す吊り橋を渡るような感覚。それを意識することによって、私たちの精神は、神々との取引によって救いを得る、あるいは少し進んで律法の順守によって救いを得るといったこれまでの宗教性とは切り離される。すなわち、絶対的なものの前に、ただ立つのであり、新しい世界の、しかしそれこそが本来永遠である世界の主催者のもとに行く。それは、この世界の終り、カイロスの極みに立つイエスに従うことによって実現する。このことがキリスト教信仰の本来の形なのだろう。それは一切の、これまでの世界を支配した宗教性との決別である。
 私たちはこのような宗教を受容している。そのことの意味を実感するのはやや難しい。当然だが、この世界への執着は、イエスの時代などとは比較にならないほど強い。それどころか、この世界しか本来はないのだと多くの人々が思っているのである。しかし、キリスト教的意識とはそれとは全く逆であり、この世界こそが、終わっていく世界である。このような信念の持つ真の豊かさに触れることができた人々は、実はもはや恐れるものは何もない。そしてそのような信念の力なくしては、実はこの世の価値さえ、最終的には見失われるであろう。結局、イエスの実現した新たな宗教性、精神史的革命は、今なお、力を持ち続ける。いや、それに気づかない限り、この世界はわけもなく進み、滅びるのである。
 私たちはこのような革命的な精神性を礎として、この時代の私を、この世界の私を生きつつも、すでにそれを超えた命を確信するのである。