砧教会説教2017年7月2日
「汚れた霊に取りつかれた時代」
マルコによる福音書9章14~29節
今日の記事に先立つ1-13節では3人の弟子を連れて高い山に登ったという。するとイエスの姿が変貌し、白い衣を着た天使のようになり、やがてモーセとエリヤが現れ、イエスと語り合ったとされる。これは、9節以下に注意書きがある通り、イエスの死と昇天を暗示させる話である。福音書はイエスを神の子であり、昇天したメシアであるという確信から書かれているので、どうしてもこのようなファンタジーを間に挟むことになる。しかし、このようなファンタジーは、特に驚くものでも、荒唐無稽なのでも、あるいは子供だましのものでもない。これはキリスト教の本質をなしている。というのも、この世を超えた世界を展望する、それをありありとイメージする、それを常に意識することができなければ、結局この世、この現実、この人間関係の中に埋もれたままとなる。およそあらゆる偉大な宗教は、このようなファンタジーを形成する。仏教しかり、イスラムしかり。それはもちろん、様々な弊害も生み出すが、ひとまずそれをわきに置くと、モーセやエリヤと親しく話をするイエスのイメージは、彼が新しい時代を画したことを暗示させる。そしてそれを見ていた弟子たちもまたそれにあやかり、さらに、この話を読んでいる、あるいは聞いている人々も、その世界へと誘われていく。もちろん、半信半疑な気持ちを持ちつつ、であるが。
さて、このようなイエスの姿の変貌を経た後、イエスは残してきた弟子のもとに戻ってくるが、そこでは律法学者と弟子たちが議論しており、それを多くの民衆が取り囲んでいた。その議論は、簡単にまとめれば、てんかんの子供の癒しに関することだった。弟子たちはその癒しを請け負ったのだろう。しかし、彼らにはその癒しができなかったのである。その際、てんかんは霊の仕業であるという認識が前提にある。もちろん、単なる霊ではなく、汚れた霊である。精神的な病やそれに準じた病は、およそ悪霊の仕業である。そしてその癒しは医術の守備範囲ではなく、呪術や宗教のそれである。
群衆の一人は弟子たちがその霊を追い出すことができなかったことを報告する。これに対してイエスは言う。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたたちに我慢しなければならないのか」(19節)。イエスは霊を追い出すことができなったことの理由を信仰の足らなさに求めている。つまり、弟子たちの能力の問題ではなく、患者側の信仰の無さに問題があるという。
ところで、ここでいう「信仰のない時代」とは何を意味するのであろうか。注意が必要なのは、癒しに関してその患者や群衆の個人の問題ではなく、「時代」の問題であるとしていることである。患者の家族も群衆も全体として「信仰」を失った時代に生きている。それはイスラエルにおいてはヤハウェを見失っているということである。一方イエスは先に、モーセとエリヤという二人の偉大な信仰の先達に会ってきたばかりである。そして山から下りてきたイエスは、かつてシナイ山から下りてみるとアロンたちが金の子牛を作ってそれを神の代わりに拝んでいたのを見たあのモーセのように、この群衆の姿を見たのであろう。つまり、信仰の無い時代とは別の何かを神としているということだ。もちろんそのこと、つまり別の神については書いていない。ただ、イエスはことあるごとに「富める者」「金持ち」に代表されるこの世の力に言及する。これも煎じ詰めれば、「金の子牛」すなわち、「金」という富を神としたアロンと民の姿に重ねることができるだろう。
それゆえイエスは、我慢がならない。しかも、イエスはすでに天上に昇ること、すなわちこの世から取り去られることを強く意識している。そしてイエスは言う。「その子をわたしのところに連れてきなさい」(19節)。連れてこられた息子は引き付けを起こし、倒れて泡を吹いている。典型的なてんかんの症状であるが、イエスも含め、汚れた霊の仕業であるとみなしている。イエスは医者のように病歴を尋ねている。この患者は幼い時からこの病に、いや悪霊に侵されていた。父親は「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と懇願するが、イエスはこの「できるなら」という条件にひどく反発する。そして「信じる者には何でもできる」と宣言した。
わたしたちはこのようなイエスの言葉に躓く。信じる者にはすべてが可能であるというのは、いくら何でもあり得ない、嘘だろうと。あるいは、このような発言を真に受けるからカルトのような集団が生まれ、世の中に害を及ぼすのだ、と。しかし、キリスト教はそのことを核心に置き続けてきた。何と言われようと、今までそうだったし、これからもそうであろう。それでも、このことに対する弁明は必要であろう。では、どんな弁明が成り立つか。実はこの「信じる者には何でもできる」というのは、「求めなさい、そうすれば与えられる、門をたたきなさい、そうすれば開かれる」というあの山上の説教と対応する。要するに、信じるとは求め続けることと裏腹の関係がある。求めるというのは求める相手への信頼が前提とされる。そのあとで求めることが意味を持つのである。つまり、信仰が前提にあってこそ、求める者には与えられるのであった。だから、こう言いかえればよい、あるいは付け加えればよい。「信じる者は、求め続けよ。そうすれば解決が与えられる」と。「何でもできる」というのは、当然魔法のことを言っているのではく、新たな展望が開かれてくるということだ。これを多くの人々は魔法のような奇跡が度々起こるかのように理解してしまったし、イエス自身もそのように振舞っていたようにも見える。実はモーセの荒れ野の旅の時代を思い起こすと、やはりモーセもそうだったことに気付く。度重なる民の嘆き(水がない、食料がない、エジプトのほうがよかった)に対して、奇跡的な出来事を起こしていたのである。イエスもそれとほとんど同様である。しかし、本当は民の一人一人が信仰を持ち、自らを立ち上がらせ、新たな段階、新たな展望に向かって歩みだすことがイエスの言葉の背後にあるのである。
この父親はイエスの宣言に対して「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫んだ。これはよく見ると矛盾している。「信じます」といったのち、「信仰のないわたし」というのは変な気がする。すでに信じたのだから、信じたわたしをお助けください」というのが順当である。しかし、この父親の真意はこうだろう。今私はあなたに信頼します。それゆえ信仰の無い時代に生きる私を助けてほしい、ということだ。この父親はこの時代に生きつつも、つまり不信仰の時代の一人であるが、この瞬間に目が覚めたのであろう。
するとイエスは汚れた霊に命じてこの子から出ていかせた。この子は耳も聞こえず、しゃべることもできなかったのである。それほどにこの病、いや悪霊の力は強かったのである。しかし、いったん引き付けを起こさせたのち、この霊は出て行った。死んだように見えたこの子はやがて立ち上がった。奇跡の成就であり、信仰の勝利である。モーセの場合、こうした奇跡をモーセに対する信仰に結びつけることを周到に避けている。救済は常にモーセの祈りやとりなしを通して神が起こしたことなのである。しかし、イエスの場合は、なにかイエス自身が神として救いの業を起こしているように描かれている。この点で、モーセの場合よりも危うさが強い。すなわちイエス崇拝が生じるのである。これは福音書全体を通して言えることだ。つまりモーセと対比すると明らかにイエス自身が神ないし神の代理となり、結果、多くの民衆が彼を崇め始めるのである。これはメシア(≒王)と預言者の差異であると言い換えてもよい。モーセは最後まで預言者であり、メシアの概念を適用されていない。
ではイエスは神もしくは神の代理、あるいはメシアなのだろうか。福音書記者(マルコ)はそう考えているとしても、イエス自身もそう考えていたのだろうか。この点について、今日の終わりの2節で一つの答えが与えられている。弟子たちは家に入ってひそかにイエスに尋ねている。なぜ自分たちには悪霊退治ができないのかと。するとイエスは「この種のものは祈りによらなければ決して追い出すことはできない」と。これはどのように解釈すべきだろうか。
祈りの力が強ければ追い出せるということだろうか。おそらく多くの人々はそう思うだろう。しかしそれは全く間違いである。祈りに力はない。祈りとは技術でもなく、効力を持つ行為でもない。この箇所のイエスの発言は、イエスが神に祈ったということであるが、イエスの力によって悪霊退治ができたということではなく、祈りを聞いた神がそれを実現したということである。祈りによって、というのは「私の力ではない」ということを暗に示しているのである。つまり、ここでイエスはやはりモーセと同じように、神に祈っているのである。信仰を前提に、神の助けを祈るのだ。
もちろん、たいていの人々は「祈りの力」を喧伝する。しかし、祈りをほとんど否定したのもイエスである。だから彼は「主の祈り」を残したのである。つまり祈りとはわたしの要求の実現ではなく、神の心の実現を求めることであった。それゆえ、今日の場面でもそれを適用すべきである。すなわち、この父親もイエスも、神ヤハウェを信じて祈ったのである。それは「私の」利益ではなく、「あなたの」心が実現しますようにと。もちろんこの物語は悪霊退治の話だから、結局そのような祈りの理解さえ、うまく適用できるかは心もとない。そして、おそらくマルコ自身も、よくわからずに、この二つの節(28-29節)を伝えたのだろう。そして多くの後のキリスト教は「祈り」を非常に重要視した。そして呪術的な力を持つとさえみなした。そして様々な奇跡にそれを結び付けたのである。
しかしイエスは初めから言っていた(ただしマタイ伝であるが)。神は祈る前からあなたたちの求めることはご存知であると。だから最終的には、神を信じるという一言でよいのである。おそらく今日の物語も、あの父親の、我に返った言葉、あるいは苦し紛れの言葉、しかし同時に神ヤハウェに真に気が付いた感動の言葉、あの「信じます」という一言を残すために伝えられたのだと思う。それ以外は結局、都合の良い話に過ぎない。しかし、同時に、このような都合の良い話を用いなければ、信じることの意味も伝えられないということでもあろう。そして「祈る」ことの本当の意味も同様である。
わたしたちはこのようなイエス時代以降の民衆向けの話を軽んじてはならない。私たちは今、「信仰のない時代」に生きているのである。イエスの時代よりもはるかに進んでいる。あらゆることが人間の思惑の中で、しかも一部の人間に都合がよいよいに作られていく。それはほとんど「神」を忘れた、捨てた世界である。しかし同時に都合よく「神」を利用する時代である。その神はもちろんイエス・キリストの神ではなく、自分の権力を正当化するための「神」すなわち偶像に過ぎない。これらのことを詳細に語る時間はもはやないが、信仰と祈りの意味をその本質において取り出すとき、私たちはイエス・キリストの神に出会う。すなわち、祈りとは信仰が前提であること、それは「主に任せること」であること、そしてその時初めて私たちは逆に立ち上がり、新しいステージに立つことができるということ、そのこと自体が実は救いであるということに気が付くのである。