日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2017年7月9日
「回復と報復」ミカ書5章1~14節
1-5節
 預言者はダビデの系譜に連なる新しいメシアの到来を預言する。この預言者もちろん前8世紀のミカではない。2節では「残りの者」(イェテル)に言及するが、これは「彼の兄弟の残りの者」とされている。彼の兄弟とは新しいメシアの兄弟であるとするなら、これはアッシリアによって滅ぼされ、捕囚となって生き残った北イスラエル王国の人たちであろうか。すると、この新しいメシア(すなわち大イスラエルの王)はヨシヤ王の可能性があるのではないか。
 さて、1節「エフラタのベツレヘムよ」のエフラタはベツレヘムの別名とも言われるが、新共同訳ではエフラタを、ベツレヘムを含む地域名として理解する。ベツレヘムはユダ族の町の小さき者、取るに足らない小さな町である。そこからイスラエルを「治める者(モーシェル)」つまり王が登場するという。もちろんこれはダビデ王の登場の再現である。しかも、彼の「出生」(モーツァオート、起源、由来)は「古く」(ミッケデム、以前から、昔から)、「永遠の昔に」(ミーメイ オーラーム、永遠の日々から)遡るとされる。副詞句が重ねられて強調されている。すでにこの預言者にとって、ダビデ王の登場ははるか昔のことであり、神話的なものでさえある。
 この節は後のキリスト教ではイエス・キリストの到来を預言するものと理解された。キリスト(メシア)はダビデの系統から現れなければならないというユダヤ教の強固なイデオロギー(思い込み)による。
 2節ではヤハウェの裁きの結果、イスラエルは「捨て置かれる」(ただしこれは意訳、フランシスコ会訳は「敵の手に彼らをゆだねる」)とされる。これを預言と取れば、バビロンによる王国の滅亡と捕囚を指していることになる。しかし、それは「産婦が子を産むときまで」である。この言葉の意味は何か。妊娠期間の9か月ということか(なお、これはイザヤ書7章、8章の預言と響きあうように思われる)。この産婦は預言者の幻においては新たな「治める者」の母であろう。この産婦が子を産んだ時に、彼の兄弟の「残りの者」がイスラエルの本体に戻ってくるという。ただし、この帰還に関していかなる働きかけがあるのかは書かれていない。もちろん、この帰還には「治める者」の働きかけはまだあり得ない。そもそも、この2節の背景はバビロン捕囚ではないのではないか。冒頭述べたように、これは紀元前8世紀の末の北イスラエル王国の滅亡を前提とするのではないか。すると、7世紀後半、大イスラエル回復をほぼ成し遂げたかに見えるヨシヤ王を称える預言に見えてくるのである。「今や、彼は大いなる者となり、力が地の果てまで及ぶからだ。彼こそ、まさしく平和である」(3節終わり―4節冒頭)という賛歌は現実のヨシヤ王を称える預言ではないか。4-5節にかけて「アッシリア」に言及する。多くの注解者はこれを世界帝国の覇者のメタアファーとみる。つまり、実際のアッシリアではなく、かえってそれ以降のバビロンを見る。しかし、ヨシヤ王の治世、アッシリアは急速に衰退し、相対的にユダ王国の勢力は増した。そしてヨシヤ王は申命記法の発見に事寄せて、宗教改革を断行したのであった。それは極めてラディカルであり、国家と宗教を中央集権化するものだった。それゆえ、この預言者は、前8世紀末から7世紀半ば過ぎまでオリエントを支配したアッシリア帝国の名を挙げて、彼らを打破することを確信しているのであろう。
 5章1-5節は4章との関連で理解し、全体として捕囚期および捕囚後に位置付けることも可能だが、1-5節に関しては、捕囚期以前であるものの、しかしミカの時代でもない、ユダ王国を刷新したヨシヤ時代に位置付けることが相応しいように思える。なるほど、1節のメシア預言は終末を想起させる預言に見えるが、そうした感想はメシア預言をキリスト教的感覚で読もうとするバイアスによるのではないだろうか。

6-14節
 ここから全く背景が変わる。明らかに捕囚期以降である。正確には捕囚民が帰還した後の、ペルシア時代のディアスポラの時代であろう。「ヤコブの残りの者は多くの民のただ中にいて」とあるように、イスラエルの人々はすでにペルシア帝国の諸国・諸民族の中に生きて、各地で自分たちのアイデンティティを保持して生きている。彼らは「主から下りる露」「草の上に降る雨」に例えられている。これは地上にありながら、神の力を代理する貴重な力であることを意味する。申命記32章2節ではヤハウェの言葉を「雨」「露」に例えているが、これもイスラエルだけでなく世界全体を導き支える力である。ミカ書では「ヤコブの残りの者」(ここでの「残りの者」はシェアリート)がより具体的な力、ユダヤ教徒として登場する。彼らは人間の力を頼りにしない。つまりこの世を超越する神ヤハウェの力を信頼する。彼らはすでに諸民族の間にあって、宗教的信条において、帝国支配を本質的に否定しているといってよい。このような預言がどのような場面で語られたのか?もちろん、もはや公的な場所ではない。これはペルシア帝国の町々で何らかの行動を促すために語られた、すなわち、扇動的な預言ではない。ヤコブの残りの者、すなわちディアスポラとして生きている人々の共同体の集会において、おそらくは密かに読まれたのではないだろうか。そのことを7節以下が証明する。
 7節に、このヤコブの残りの者が諸国の間にあって「獅子」であるという。この獅子は若く非常に強力で、これに敵対するものをすべて打ち倒すという。この残りの者は少数で力の弱い、憐れまれるべき者たちとイメージする向きもあろうが、それは誤りであり、彼らは少なくともその精神においては全く力強く、自信にあふれている(もちろん強がりでもある)。9節以下「その日」すなわちヤハウェの裁きの日が来れば、という条件付きではあるが、「お前」すなわち残りの者たちのすむところから軍馬を断ち、さらにその町々を滅ぼし、砦を破壊するという。これは残りの者自身が獅子のごとくに強力な破壊力を持って振舞うということにも見えるが、他方でこの破壊はヤハウェ自身の直接の行為であるように書かれてもいる。正確に言えば、救済の主体はヤハウェであるから、9-12節のように「わたし」すなわちヤハウェを主体とするのがよい。しかし、実際は獅子とは残りの者自身なのだから、彼ら自身が主体となって、やがて諸民族世界の覇者となるのだという気宇壮大な報復の物語となる。もちろん、それは単なる報復ではなく、軍馬がない、そして人間をたぶらかす呪文や偶像や石柱のない、平和で自由な(つまり人間的権力から解放された)世界の到来である。このようなことを大っぴらに町々で発言したなら、あっという間にペルシア帝国によって弾圧されたはずである。それゆえ、これらの言葉は密かに読まれ、伝えられたと思われる。
 さて、ここに見られるのはイスラエルの回復、ディアスポラ権利の回復である。そして、ここにあるのはディアスポラの「帰還」ではない。この箇所の著者にとって、帰還が救いではないのである。かえって、ディアスポラの暮らすそれぞれの場所が、解放された場所に転換しなければならないのである。そしてそれは回復であると同時に報復のようなものでもあり、新しい場所での新しいイスラエルの再建、いやイスラエル的理想が世界に行きわたることでもある。もちろん捕囚と離散の憂き目にあったのだから、報復的な措置も当然なされなければならない。なぜなら、諸帝国によってなされた仕打ちは、それと同等な措置がなされなければ、法的正義の回復とならないからだ。それが同害報復を基本としたオリエントの法的正義である。それゆえ、旧約聖書において、特に詩編において、わたしたちから見ればひどい報復の表現があるが、これは恨みつらみの表現ではなく、正義の回復ということには必ず報復がなくてはならないということの当然の表現であるとみられる。つまり抑圧された人々の救いということは、それ以前に破壊されていた均衡を取り戻すために報復を(たとえ観念的であるとしても)必要とするということである。だから、マリアの賛歌もそうなっているのである。
 ところで、先に述べた通り、ディアスポラの復権ないし回復とは「帰還」ではなく、その場所での新たな社会の建設である。このことは非常に重要である。すなわち、領土国家としてのイスラエル王国を回復するという、いわば相対的な神の国を建てるというのではなく、世界に散っているイスラエルのディアスポラ一人一人が神の使者ないし代理となって世界を変えることが念頭に置かれているのである。これはおそらく、はるか後の世界革命の理念とさえ言ってよいものだ。この思想はやがてキリスト教において明確化されるが、実はすでにこのペルシア時代のテキストとみられるミカ書の預言において示唆されているのである。
 わたしたちはこのようなミカ書の言葉を読むとき、なにか大きな希望を持てる気がする。それぞれの場所、地域、歴史がある中で、キリスト者として生きることは、特にこの現代日本では極めて少数であるから、ひどく心もとない気もする。それゆえ、どこか大きな樹の下に帰って、安心したい、つまりエルサレムに帰って民族として固まって生きたい、というような思いに似たものを持つかもしれない。しかし、ヤコブの残りの者は「多くの民の中にいて、主から下りる雨のよう、草の上に降る雨のようだ」という言葉を真剣に受け取るとき、その場その場で、その時その時において、自分たちが命の神ヤハウェに繋がる力そのものであり、時には「獅子」でさえあるのだ、ということから大きな力を与えられるであろう。
 ミカ書のこの預言は、おそらくディアスポラの預言者が書いたと思われる。それぞれの地域で格闘している者たちを互いに励まし、かつ未来の神の支配を展望しながら書いたのだろう。
 わたしはこの預言を改めて読みながら、この5章後半のテキストの力に驚いている。そして今の日本を生きるこの教会にとって大きな励ましになると思うのである。