砧教会説教2017年7月16日
「とても険しいイエスの勧告」
マルコによる福音書9章42~50節
今日の聖書の言葉は、全体として脅しの文句である。このような言葉の数々を古来、真剣に受け取ってきた。そしてこのような言葉によって、教会は人々の生活を律してきた。それにしても、一つ一つの言葉が強烈である。これは普通考えられるように、死後の処罰による脅しなのだろうか。
43節、45節、47節、48節には「地獄」という言葉が出るが(ただし48節は翻訳上出ているだけで、関係副詞である)、この地獄と訳される「ゲヘナ」という言葉、もともとの言葉は「ベン・ヒノムの谷」である。この地は、伝承によればモレク神崇拝の一環として、子供を供犠として焼いた場所であった(代上28章3節、33章6節)。エレミヤはこのベン・ヒノムの谷で「息子、娘を火で焼いた」ことにたいして、その場所が「殺戮の谷」と呼ばれることになると預言した(7章31-32節)。この場所は具体的な現実の場所であるが、このような経緯から呪われた場所となり、やがて深刻な罪を犯した者が投じられる火炎地獄のような想像的な場所に転じた。43節では、テキストは「ゲヘナに、つまり消えることない火の中に」となっており、ゲヘナの意味を説明している。
ところで、これは死後の苦しみの場所、罰の場所であるように誰しも受け取るであろう。しかし、これは訳語のせいではないだろうか。「地獄」と訳さず、「火あぶりの処刑場」と訳せば、想像上の場所ではなく、この言葉の元となった場所で行われた行為と結びつく。つまり人身供犠である。したがって、死後の世界、あるいは「陰府」ではなく、実際の処刑の恐怖を語っていると考えられるのである。これは非常に深刻な問題である。なぜなら、想像上の話なら、あくまで現実ではないから、それを信じなければ、どうということはない。しかし、実際の処刑であるとするなら、実に恐るべきことではないか。私はこの言葉を解釈するにあたり、当初は誰しも思う想像上の「地獄」の恐怖によって民衆を支配する言葉であると考えていた。そして今も半分くらいはそう考えている。しかし、もう半分は現実の処刑のようなものの実践であると考えざるをえない。
つまりイエスはこの言葉を語るとき、別に想像上のことを考えていたのではなく、実際の処刑のようなものをイメージしていたのではないかということである。というのも、彼自身やがて十字架につけられるが、これもまた想像上の恐怖ではなく、現実の苦痛と恐怖であったし、のちの殉教者たちも現実の苦痛と恐怖の中で、死んでいったのである。要するに、古代において私たちが想像するような地獄の場所は死後の世界の恐怖ではなく、全く現実の恐怖であり、地獄は現実の中にあったというべきであろう。それゆえ、かえって、その現実の恐るべき恐怖が死後にさえ投影されたのである。
イエスはこのような現実的な脅し文句を使った。例えば山上の説教には似たような言葉に度々出くわす。「兄弟に「ばか」と言う者は、最高法院に引き渡され、「愚か者」と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」(マタ5章32節)、「体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれないほうがましである」(マタ5章29節、30節)。これらは今日の箇所とほとんど似たような構図である。したがって、これも実際の処刑のようなことが念頭にあるように思うのである。
ではいったい、これらの脅し文句は何を目的としているのだろうか。今日の箇所では最初の言葉がカギである。「わたしを信じるこれらの小さな者たちをつまずかせる者」こそが、そのような罰を受けるとされる。この小さき者とはだれのことだろうか。直近のイエスの「お名前を使って悪霊を追い出している者」(36節)、その前の「このような子供のひとり」(32節)、さらに前の霊に取りつかれた子の父親などが考えられる。要するに、当時の現実において、もっとも小さくされた者やその家族、そしてイエスに連なると自称している人々である。彼らを「つまずかせる」ことが、罪である。要するに、これらの小さい者の権利を守らず、それをないがしろにする人々こそ、罪びとである。そしてこのような罪びとは厳しく処罰されなければならない。ただし、42節には地獄に落ちるのでなく、もっと実際的な方法で処刑される。すなわち「大きな石臼を首に懸けられて海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい」という。ただ、何より「はるかによい」のかは書かれていない。おそらくそのあとの句、「地獄の消えない火の中におちるより」はるかに良いということだろう。火で焼かれるよりも、短時間で窒息するほうがまだましであるということだ。
「片方の手がつまずかせる」「片方の足がつまずかせる」「片方の目がつまずかせる」という表現はわかったようでわからないが、これらをすべて「わたしを信じる小さな者の一人」につなげるとすれば、イエスにとって最も大切なのは「わたしを信じる小さな者」である。それは彼にとっては子供たちであり、重い皮膚病の人であり、重い婦人病の女性であり、悪霊に取りつかれた本人やその家族であり、差別されていた取税人であった、これを守るためには最大限の処罰で応ずるほかはない。もちろんこれは非常に大げさな表現であり、レトリックであっただろう。しかし、イエスにとっては彼らを虐待し差別し排除すること、彼らの人生を先に進ませないこと、このことが最大の罪であった。そしてそれは単に個人の問題ではなく、この社会、この世全体の罪でもあった。言い換えれば、彼らの人生を躓かせないことが、神の命令なのである。
しかしながら、これは当然別の文脈でも使われることになる。この「わたしを信じるこれらの小さな者」を自分たちの集団であるとみなしたとき、このテキストは恐怖のテキストになる。正確には「イエスを信じるわれら小さき者」と読み替えたときであるというべきである。つまり、後のキリスト教共同体の中で、それをつまずかせる者、教会共同体の教えや秩序を乱す者、あるいはキリスト教共同体の外にいる異教徒たちの力を「つまずかせる者」と解釈したときである。
ごく最近、樋口洋一「キリシタン遺産にかいまみる不寛容」(『聖書と神学』29号、日本聖書神学校キリスト教研究所、2017年7月、57-81頁)を読んだが、島原の乱のキリシタンたちの悲惨と同時に、実は彼ら自身が単なる殉教者ではなく、加害者でもあることが指摘されていた。彼は島原の乱はキリシタン弾圧に対する抵抗、島原藩主松倉氏の圧政に対する農民一揆、宗教戦争(キリシタン一揆)との見方のうち、第三の「宗教戦争」と見るのがよいという。つまり、キリシタンの弾圧に対する抵抗というより、キリシタンの力で島原の異教を排除するという強い意志が働いていたとみるのである。その証拠に、多くの寺が焼かれ、強制的改宗、僧侶や代官の殺害が行われたことを挙げる。私もにわかには信じられなかったが、島原の乱には抵抗というより、積極的な戦争、しかも部分的ではあろうが、非常に強権的で残酷な面があったのである。これは、異端や異教の排除と弾圧という当時の西欧のローマカトリック教会の一般的な方針を地で行くものであった。実はキリシタン大名の有馬氏は40以上の寺院を破壊し、仏塔や墓石を日野江城の階段に転用し、それを踏みつけるよう設計したという。つまり、仏教寺院は偶像崇拝の施設故、破壊されなければならないのである。
「わたしを信じるこれらの小さな者をつまずかせる者」は片手を切り落とすどころか、殺害されることさえあった。徳川幕府が強制改宗を迫ったことはよく知られているが、それはかえってローマ教会の方針を援用したものに過ぎないのである。再洗礼派に対し、洗礼か死かを迫るルター、命乞いをするセルヴェトスを火あぶりにするカルヴァン、異端審問によって処刑される中世末のユダヤ教徒、魔女狩り。そして日本のキリシタンによる寺院の破壊と僧侶殺害や強制改宗。このようなキリスト教の負の側面を改めてこの聖句を通して考え直さざるを得ないと感じるのである。
さて、イエスの言葉に見られる一種の不寛容な言葉は、それを自分の都合で用い始めたとき、非常に危険であり、恐るべきものである。聖書はやがてこれ自体が律法であるかの如く扱われ始め、その解釈をめぐって争われるだけでなく、ある言葉が特定の解釈に沿って実践されていく。その結果、1世紀パレスチナのイエスの生きた現実とは全く無関係に、言葉自体が教会的権力によって都合よく利用されていった。いまでも、その傾向はそれほど変わっていないように見える。それゆえ、私たちはイエスの言葉を可能なかぎり、彼の生きた文脈の中で理解し、その字面の語ることだけでなく、その言葉のもつアイロニカルな意味、ユーモアを含めて理解し、解釈する必要がある。
では、今日の言葉はどのように理解し、糧とすべきだろうか。
やはり、最初の言葉に戻るほかはないと思う。「この小さな者の一人をつまずかせる者」に対する厳しい態度。この言葉への敏感さである。イエスは子ども、重い皮膚病の人、広く世の「貧しい人々」、本田哲郎神父の言葉を借りれば「小さくされた者たち」を、先に進めなくする力を呪ったのである。しかしこれはあくまで「呪い」であって、この言葉自体が実現されることを望んではいない。なぜなら、彼は「腹を立てるな」「復讐してはならない」「敵を愛しなさい」と言っていたのである。それゆえ、これは自分の仲間たち、弟子たちに対する勧告であり、戒めなのである。そしておそらくはイエス自身に対する鼓舞でさえあるだろう。これを別な共同体や敵、異端にたいして適用するのは完全にお門違いである。それでも、わたしたちは、聖書というテキストにつねに敏感でなくてはならないと思う。そうでなくては、この書物の最も大切なものさえ、見捨てられてしまうかもしれないのである。