日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2017年7月23日
「子供と金持ち―神の国の入国資格―」マルコによる福音書10章13~31節
 キリスト教は救済宗教と言われる。救済とは非常に幅広い意味を持つが、その核心は「この世に生きる人々の罪や汚れを取り除き、あの世、つまり肉体の滅んだあとの魂の行き場所で悩みや苦しみなく、永遠に幸せに生きる」ことであろう。前提には、この世の人生は様々な苦しみ悩みにさいなまれ、汚れているという認識が人々にあるということだ。しかし、なぜそんな風に苦しみ悩みにあふれているのだろうか。
 キリスト教の前夜、いやもう少し前から、この世を覆う人間の力は巨大になっていた。古代オリエントから地中海世界に至る文明の繁栄は世界を包括する。それに伴ってこの世に生きることの理解の仕方も次第に統合されていった。つまり、世界了解の仕方が同じようになってきた。そしてこの世を生きるのは苦しいことだ、悩み多きことだという、おそらくは支配され、農奴となった、膨大な被抑圧民の思い、痛みに基づく世界了解が非常に普遍的なものになっていった。そしてこの世界の向こう側、この世に生きる肉体の滅んだあとの魂の世界を想像し、肉体を持ってこの世を生きること自体が苦しみのもとであり、それゆえ、その後の世界では安らかに生きることもできると考えた。しかし、単に肉体の滅んだあとに自動的に安らかに生きられるのであれば、何の問題もないが、この世の苦しみ悩み汚れを魂そのものから取り除かない限り、それらを持ち越したまま生きることになる。その解決に救済宗教が介入する。
 しかし、このような観念的、想像的な救済にとどまらず、今ここでの物質的、肉体的救済を求める動きも当然存在する。病気、差別、隷属、貧困、飢餓などを癒し、取り除くこと。これは一種の「世直し」である。次の世界、あるいは想像的世界を視野に入れつつも、今ここでの救済を実現すること。これはイエスの時代では、ユダヤ教の武闘派、ゼーロータイ(熱心党)によって代表される。彼らはローマに支配されたユダヤ世界の国家的自由を取り戻そうとした。もちろんそれを武力闘争によって。もちろん彼らも、この戦いにおいて死んでいく者たちの「あの世」あるいは来るべき世界において祝福されるはずであるという信仰を持っていた。つまり、義のために迫害された者として。
 このように、この世界の在り方・秩序そのものの変更を迫ることによって、苦しみ悩みを大幅に改善することができるという考えがある。それどころか、民族の解放と律法に忠実な生き方はあらゆる悩みや苦難をなくすはずだという、これまた観念的な救済観念を抱くことになる。
 このような世界にあって、イエスはユダヤ教の周辺から、新しい救済の道を示すために現れた。イエスは肉体の滅んだあとの、つまり死後の世界を語るわけではない。むしろ、今ここに救いの世界を実現しようとしたように見える。それは数々の奇跡物語にある通り、現実の病や障害を癒したことに示されている。そしてそうした人々を差別する社会の在り方、人々の心の縛りの様なものを解体しようとする。つまり、彼の奇跡物語に示されているのは治癒への驚きではなく、人々の心を縛ってきた、そして人々を分断してきた力を取り除いたことへの驚きである。それは死後の救いということではない。また、物質的な解放ということでもない(もちろん肉体的な癒しも併存するが)、人間の心の在り方そのものを転換することである。そのことを行動で示した。だから彼は医者として評価されるのではなく、この世全体、単にローマ帝国やユダヤ教の制度的支配という問題ではなく、古代世界全体に蔓延する民衆の苦しみや悩み、汚れといった苦難を一気に解き放つ、あるいは転換させる力それ自体として評価されることになった。それゆえ、彼に対する評価は多面的になる。ひとつには、彼は現実の制度的支配(ローマ帝国やユダヤ教律法主義)に対する政治的反抗者、病気直しの神、そして民衆を悩ます宗教的な罪や汚れを取り除く宗教的メシアである。
 しかし、一方でイエスは神の国を語る際、それは肉体の滅んだあとの世界のようにも語る。さらに言えば、個人の肉体の滅びだけでなく、この世界全体の終わりも同時に考えている。しかもこの世界の滅びの近さを強く意識していると同時に、新しい世界の到来をはっきりと意識している。つまり、この世の終わりとはその先もないということではなく、罪と汚れに満ち、人間同士がいがみ合うこの世界に代わって新しい世界の到来を確信している。それゆえに、その新しい世界に入るための資格を彼はいろいろと語るのである。この際、イエスにおいては、想像上の新しい世界は彼が作りつつある教会、つまり新しい共同体と重なっているように見える。つまり来るべき神の国は、すでにイエスの周りに出現しているのでもある。ということは、イエスにとって、この世界で新しい生き方、つまり罪や汚れを取り除かれた生き方を実際に行うか、少なくともそのように誓うことが求められているのである。それが来るべき神の国、全体的な世の転換の後に生き延びるための条件であるということだ。
 こうして、この世に神の国を映し出す場所を作り、そしてそれを通じて新しい世界を、希望をもって待ち望むことができるということになる。これはこの世界を見捨てるのでもなく、無視するのでもない。かえって、この世に大きな責任を持つことである。キリスト教は単なる死後の世界の安寧を約束するだけの救済宗教ではない。むしろ、この世界の罪や汚れを互いに確認し、それを乗り越える場所を形成することによって、来るべき世界の到来にそなえる。なぜならそこには裁きがある。つまり入国審査があるのである。キリスト教がなぜ、世直し宗教に見えるのかは、このような仕組みに由来する。この世を治すのではなく、滅びの決まったこの世にあって、この世を超えた生き方を実践することによって、逆説的にこの世を正していくのである。だから時に政治的解放運動にも見えるし、福祉の運動にもなる。あるいは医療の普及にも貢献する。しかしそれらを目的としているのではなく、あくまで、この世界を超えた次の世界の入国資格を得るための、あるいは得たがゆえの、活動なのである。
 さて、今日の二つの断章はともに、この入国資格をめぐるエピソードである。初めは、子供の祝福である。子連れの相談者、おそらくは母子を邪険に扱う弟子をたしなめ、「神の国はこのような者たちのものである」とまず語る。このような者とは子供だけでなく、この母子たちを指示している可能性もある。たぶん、無心に、あるいは心から、神の救いを求める姿をこの母子に見たイエスは、この世の習いを優先する弟子たちに激しく憤った。つまり母子などは二の次である。それなりに立派な人がイエスに近づく資格があるという感覚だろう。だから母子を叱ったのである。イエスは、我々はこの世の習いに潜む差別や貧困化の力を乗り越えた神の共同体をこの場に映し出そうとしているのがわからないのか、というのである。そして先に引用した言葉を告げたのである。そして続ける、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と。
 わたしたちはこの言葉の有効性を信じている。それゆえ、教会はいつもこの言葉に心を澄ましておかなければならない。この世の習いに従った教会への入会資格のようなものをいつの間にか持ってしまっていないか。いつの間にか、知らずに、招くべき人を遠ざけていないか。このことを特に私自身最近強く意識している。
 もう一つ、金持ちがイエスの前に登場する。彼はイエスを宗教的な権威と慕ってやってきたのだろう。そして、自分の完全さをアピールする。「善い先生」などと、いかにもげな世辞を言って、自分を正当化する。それだけで、イエスは少々カチンと来ている。その男は自分がどれほど律法に忠実で、まっとうな生き方をしているかを語り、永遠の命を受け継げるものと信じているようである。それなのにわざわざそのための方法を尋ねている。それを見透かしたイエスは小ばかにするのではなく、「慈しんで」彼に応える。彼が大金持ちであることを知っているイエスは、それをあきらめるよう促した。この男は悲しんで去っていく。その後に弟子たちとのやり取りが残されるが、弟子たちはこのような立派でお金もある人が神の国に入れないことを訝る。これは先ほどの母子の話と同じである。この世の習い、価値観で弟子たちは考えており、この男を当然立派であると感じている。しかしイエスは全く違った。彼は金持ちが何を意味するのかを知っていた。それはローマの金貨や土地やその他の権利を持っているということだ。そのことは古代世界にあって、イエスにとってすでに、明らかな罪である。イエスにとって、「富」というのは「日ごとの糧」とは全く異なる、人々を奴隷化する支配権のことなのである。そのことに鈍感である限り、神の国への入国資格はないのである。
 後にキリスト教世界では寄進や寄付の文化が根差すことになるが、これはこのイエスの思想の実現である。人々はこの世界において神の意志を実現することが、次の世界のパスポートであることを信じたのである。
 わたしたちの時代において、この世の終わりと神の国の到来をセットでイメージすることはやや難しいかもしれない。この世とは関係なく、死後の世界を思い浮かべるかもしれない。しかしそれはキリスト教的なものではない。キリスト教は常に、この世界で生きることの責任をはっきり意識し、そこにおいて悔い改め、この世の習いとは別の、神の国の律法、すなわち神を愛し隣人を愛することを実践した者にパスポートが与えられるのである。私たちは今、そのことをもう一度素直にとらえなおすべきだろう。世の中、お金がすべて、それに基づく権力がすべてという感じが非常に強くなっている。それと裏腹に、多くの人々は今どうしたらよいのか迷っている。そして際限なく発達する人工知能の力は、一層一人一人の力を矮小化させている。皆、分断する力の強さにたじろいでいる。
 しかし、イエスの時代も構図は似ていた。そしてイエス自身、その力によって犠牲となった。しかしそれで終わらない。復活信仰はかえってイエスと神の支配を明らかにしたのである。だから、その信仰とイエスが指し示す世界、イエスの言葉がある限り、いかなる困難も乗り越えていけるはずである。すでに私たちは入国資格を持っているのであり、この世のあらゆる艱難も、汚れも恥も、取るに足らないものに過ぎない。今ここにあるこの教会はそのことを証しているのであり、それを改めて意識しつつ、あらたな一週間を歩みたいと願う者である。