日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2017年7月30日
「キリストはすべての人に仕えるために来た」マルコによる福音書10章32~45節
 エルサレムへの途上、「イエスは先頭に立って」進んでいく。しかしそれを見て「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」という。エルサレムへと先立って進んでいくイエスに従うことを恐れたのである。その地はユダヤの中心であり、権力の中心である。すでに洗礼者ヨハネは殺されている。その地に向かって「先立って」進むイエスに従うことは、自分たちの苦難と迫害を予想させるのであった。
 しかしイエスは彼らを呼び寄せて三度目の受難予告を告げた。彼はイザヤ書53章に預言された苦難の僕の姿と自分を重ねる。ただし、三日後には復活すると預言した。この時、ヤコブとヨハネが発言した。二人は自分たちの願いを口にする。すなわち「栄光をお受けになるとき、私どもの一人をあなたの右に、もう一人をあなたの左に座らせてください」と。栄光を受けるとは、イエスが復活して王座に就くということを意味するのだろうか。この二人はイエスの受難の重さを全く感じ取っていないようにも見える。むしろ彼らはイエスがメシアであることを、この世界での新しいイスラエル王国のメシア、つまり王であると考えている。弟子たちも、そして彼らにしたがってエルサレムへと向かう民衆も、イエスが国を立て直し、自分たちを中心にした王国ができるのだと勘違い、いや彼らにとっては自然に、考えている。だから、弟子たちの一部は繰り返し、自分たちの地位をめぐって論争していた(9章33節以下参照)。そして今度の二人の発言もその文脈の中でのそれである。
 再びイエスは彼らをたしなめ始める。「あなたがたは自分が何を願っているかわかっていない。この私が受ける杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか」と問う。これはもちろん苦杯であり屈辱である。しかし、二人はその意味をおそらく漠然と理解したうえで(いや、いまだにメシアの即位の時受けるだろう杯と油注ぎ〔あるいは犠牲の血〕を想像しているのかもしれない)、「できます」と宣言する。
 イエスは仮にそうだとしても、「だれが私の右や左に座るかは私が決めることではない」と突き放している。ほかの弟子たちは二人の行動を知り、腹を立てたという。そこでイエスは皆を呼び寄せて語り始めた。「あなた方も知っているように、異邦人の間では、支配者とみなされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力をふるっている。しかしあなた方の間では、そうではない。あなた方の中で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者となり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と。この言葉もまた、キリスト教的生き方の基本となった。
 この言葉の背後には、もちろん神の国と地上の国の対比がある。神の国で偉くなりたい者、神の国で一番上になりたい者は地上の国では仕える者、僕となりなさい、という意味に聞こえる。今となっては、これは子供だましでしかないのだろうか。神の国という見えもしない国で偉くなっても仕方ないということにならないのだろうか。私たちはこの言葉を非常にありがたいというか、キリスト教らしいと思うのだが、なぜ仕える者、人の僕になることが「正しい」「善い」と言えるのか?ふつうはそうなりたくない。そのような地位から抜け出したいと願うのではないか。人に隷属することが、神の国での出世を約束するなどというのは、結局この世の中で「仕えること、僕であること」を我慢させるためのレトリックに過ぎないのではないか。これが、かつてマルクスが語った「宗教は民衆のアヘンである」ということの中身である。
 しかしイエスの言葉を正確に見ると、ここでは来るべき神の国、あるいは天国のことを言っているかのように見えて、実はそうではない。イエスは「異邦人の間」と「あなた方の間」を比較しているのであった。つまり、イエスがさしているのは目に見えない神の国、天国ではなく、今目の前に存在している私たちの集団(すでに共同体と言ってもよいかもしれない)のことを言っていたのである。したがって、この集団の中ではすでに偉い者はいないということである。なぜなら、みんなが仕える者となり、みんなが僕となるなら、偉い人も支配者もいないということである。実は、神の国は人を支配し隷属させるものがいないということなのである。ややレトリカルな言い方だが、「偉い」とか「上になる」という言葉に意味がなくなったとき、その国の人々はみんな「偉い」のである。それは結局みんなが「尊厳」を持つということである。そのことに同意した世界はすでに神の国になる。
 この話を読みながら、わたしは1年前の相模原市の「津久井やまゆり園」での事件を思い起こす。 昨年7月26日、「津久井やまゆり園」(相模原市)で障害者19名が惨殺され、27名が重軽傷を負うというまことに残虐な事件が起こった。あれから1年、その衝撃は次第に薄れつつあるかのようです。この事件を覚え、犠牲となった人々への祈りをささげつつ、振り返って考えたい。
 前代未聞の事件であるにもかかわらず、あの事件の被害者の名前は伏せられていました。たいていは被害者の名は真っ先に報道されるのが普通である。ではなぜ、伏せられたのか。それはそこが重度の知的障害を持つ人々の養護施設だったからだろう。しかも事実上、家族や社会から隔離された場所である。このような障害者を持つ家族のプライバシーに配慮したのです。つまり、そのような家族の一員を持つことを知られること、その人を施設に入れていることが知られることなどによって、偏見を持たれることへの恐れだと思う。そのことに配慮したのだろう。
 障害を持って生れることは、その本人が非常に深刻な差別の対象となる可能性がある。そしてその人を生んだ家族も同時に差別を受ける。それは優生思想に基づく、遺伝的な疾患に対する恐れから生じる部分がある。しかし、それよりも深刻なのは、そうした障害者を支えることが社会や国家の「負担」となり、そのような負担の結果、国や社会が弱くなり、不経済であるといった観点に基づく支配者側の差別と排除の論理による部分であろう。もちろん、こちらも優生思想を根本に持っている。しかし、それよりも、経済的な論理に影響されている。この事件の犯人もそのような観点から、実行計画を練り、それを衆議院議長公邸は首相官邸に手紙を届けている。
 障害を持って生れた人はたいへんだろう。さらにその家族もたいへんだろう。だから、本人や家族をできるだけ楽になるよう支えていこう、ということにはならず、かえって、この不運・不幸な人はこの先たいへんだから(本人も周りも)今のうちに命を終えさせよう、となる。このような事件はいたるところに今でもある。あるいは本人だけでなくその親ともども無理心中することもまれではない。特に現代日本では格差社会となり、激しい貧富の差が生じている(もちろん西欧に比べればまだかわいいものらしいが)。世の中は非常に便利になり、食物もあふれている。しかしなぜか多くの人々が不安と焦りに包まれている。それは仕事が減り、いつも椅子取りゲームにさらされているからだ。それなのに障害者は、あるいは生活保護受給者は、何もせずお金をもらっている。彼らは特別扱いされ、「既得権益」に浸っているなどという「やっかみ」の対象なってしまった。だから本人も家族もそうした視線や声からできるだけ遠ざかりたいと願う。それどころか、自分たちの存在を否定したくなる。その結果、悲惨なことも起こる。しかし、それ以上に社会的な差別感情が強まり、さらに妬みややっかみが強まると、物理的に排除しようという機運さえ生じる。このようなことは民族差別を助長するヘイトスピーチに顕著であるが、こうした少数者に対する攻撃は、やがて実行に移されていく。
 すでにナチスドイツのT4作戦で知られているように、障害者の安楽死計画は実行されたのである。医師(特に精神科の医師)や看護師たちが粛々と大量殺戮を行ったのである(20万人)。このような措置が社会の進歩に不可欠であるといった社会進化論的正当化によって。もちろん、戦後は人種差別と優生思想に対する厳しい批判と反省を通じて、障害者の人権の擁護と確立に向けた運動が広がり、展開し、前進したのであるが、それでもグローバル化と情報化社会の圧倒的な勢いによって経済的な不平等が一般化するにつれ、多くの人々の不満が高まると、その「はけ口」として優生思想にもとづく差別と排除が始まる。
 しかし、このような差別と排除は、結局それを叫んでいる人に降りかかってくるだろう。人間はあまねく年老い病気になり、障害も増える。それが早い人も遅い人もあり、あるいは生まれつきの人もいるだけのことであり、そのことに気づけない人だけが排除を叫ぶのに過ぎない。人間は良くも悪くも「平等である」ということだ。だから、キリストは言った。まず、「与えよ」と。出し惜しみしたり、あんな人にやるのは無駄だなどと、自分を正当化したりするのではなく、私もあなたも似たようなもの、あるいは自分もあなたと入れ替わることもありうるという、原初のおおらかさを持つことを強く促したのである。だいたい、今の時代、多くが不安を感じ、不満を感じる原因は、ただ一つ、富の分配の失敗なのである。その失敗の責任を問わず、あるいは取らずにいることが最大の問題なのである。生活保護にせよ障害者年金にせよ、福祉労働の賃金にせよ、このような最も重要で基本的なところにもっともっと「与えよ」と言いたい。いまやまともに仕事をしないで金儲けしている個人や組織が大きすぎるのであり、その是正が必要なだけ。それに気づいても、なかなか先に進まないのは、多くの人が、ばかげた幻想を抱いてしまっているから。自分だけは大丈夫だ、こっち側(つまりうまくいく側)にいるはずだ、言ってみれば自分だけは特別だ、という根拠なき思い込み。これは非常に厄介だ。もはや家族自体が非力となっているので、かえって自己幻想は肥大化する。
 ここで、今日の聖句に戻りたい。イエスは与えることを勧告したが(ルカ伝6章38節。マタイ伝7章7節以下も参照)、それではまだ不十分である。だからさらにイエスは言った。皆に仕える者、すべての人の僕となりなさい、と。もちろんこれはマルクスが曲解した(というより、民衆を支配するために用いた後のキリスト教の論法なのだが)、あるいはニーチェが言った「奴隷の道徳」というのではなく、かえってこの世界を真に「強い」ものとする勧告であるといってよい。なぜか、人を差別し、自分は上にいるということをみんなが意識する社会を想像すればよい。その社会はいつも自分が下にされる、隷属させれられることにおびえ、また誰かをそのようにし続ける社会であり、無限に殺伐としていくほかないのである。これは間違いなく社会の弱体化を促す。当然である。人々が相互に信頼しあえないのだから。
 仕えること、僕となること、これはなにか一方的なことのように見えるが、そうではない。援助する者(仕える者)とされるものは常に入れ替わりうる。一人の人の生涯という時間では一方的に見えるかもしれないが、もっと大きなスパンで眺めれば、結局お互い様となるに決まっているのである。あまりに短絡的な時代にあって、人々は急ぎ、すぐに結論と結果を求めるが、そのようなものは刹那的なものでしかない。
 わたしたちは「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために来た」という最後の聖句をわたしたちへの勧告と見なければならない。私たち自身がそのように仕える者とならなければ、結局イエス一人にすべてお任せで終わってしまう。イエスを身代金としてささげてしまった私たちは、今度はその身代金を取り戻す働きをしなくてはならない。それがキリスト教徒の使命でもある。