砧教会説教2017年9月10日
「祈り、求めることの力について」
マルコによる福音書11章12~14節、20~26節
今夏は、3週間の休みを取りましたが、あらかじめ為すことの計画していなかったので、ほとんど呆然と埼玉の家で過ごしておりました。したがってなんの成果もない、ただ、焦りとむなしさに満ちた休みとなりました。夏前の異常な忙しさの反動かもしれません。。
一つ学んだことは、たとえ午前中でも日が出ていたら畑の草取りは止めるべきである、ということ。父が免許返上したため、10キロほど離れた畑の草刈りをしに数日出かけましたが、すでに日が昇ったあとでは午前中でも涼しいなどということはなく、あっという間に熱中症に近づいてしまい、ひたすら水と塩気を取りながら、何とか刈り終えましたものの、結局その日は午後もダウンするほかなく、非常に無駄をしたのでした。たった、150坪の畑も9か月も放っておくと、深刻な事態です。それを手鎌一本でひたすら刈っていると、ある種の爽快感も生じてきます。無謀な一途さが一時、快楽に至ることの証明であるのでしょう。ただし、現実に戻ると、この畑をもはや今後有効に利用できそうもないことに思い至り、結局畑の近隣の農業者に耕作をお願いすることになりました。以前放置されていたものを私が開墾し、14年間父が使いましたが残念です。
さて、この間の主日のうち、24日は来客の接待ため自宅におりましたが、8月20日は比企郡小川町の教団の教会に参りました。ここは故渡邊重夫先生がかつて牧会していた教会です。私も補教師になったころ、先生と知り合い、そこで説教をしたことがあります。25年ぶりに参りました。かつての建物は牧師館に改装され、会堂は道を挟んで北側の、信徒が寄付した土地に新築されており、様変わりしておりました。教会に立教大の同級生が来ており、久しぶりにお話しすることもできました。砧教会とほぼ同様の規模でしょうか。9月3日は近くの聖公会の教会を訪ねてみました。妻が半世紀以上前に通った幼稚園の教会で聖ルカ教会と称します。時々園児も参加するため長椅子は子供用で、やや座り続けるのがしんどそうですが、聖公会の礼拝は立ったり座ったり膝をついたりと、目まぐるしいので、椅子のことに気を留めるどころか、プログラムを見ながら今度はどうするのかに気を取られっぱなしです。
礼拝後、信徒や司祭とお話ししましたが、驚いたことに幼稚園も教会も、町の郊外に移転してしまうというのです。かつて町の表通りの一等地にあり、明治のレンガの建物で、残っていれば文化財となるはずの建物でしたが、今から46年前に百貨店建設ための買収に応じてしまい、その百貨店の裏側に移動したのですが、この度は町の中心から離れ、ついにかろうじて残っていた町のシンボル(もちろんかなり影が薄いのだが)としての役割も捨てて、比企の台地と低地(田んぼ)のちょうど境目、関越自動車道路のインターにほど近い場所に移転するのです。すでに9月1日に起工式も終え、工事も進んでいます。
その日、46年前に百貨店に買収された当時の司祭の記念日に近い日であったため、彼の親族が参加しておりましたが、司祭は亡くなるまで、「私はあの(レンガの)教会を壊してしまった」と悔やんでいたとのことでした。たしかに、大きな決断だったと思います。おそらく皆で祈り、決断したのでしょう。そして祈り決断したことは、確かに実現された。その決断が本当にふさわしいものだったのかはわからない。しかし、実現されたことは覆すことができない。戻ることはできない。今度の聖ルカ教会の決断がどのような成果を生むのか、あるいは生まないのかわかりません。しかし、私はかつての決断の時の司祭のような後悔が生じないよう祈るだけです。
さて、夏の報告はこれくらいにし、今日の聖句を考えてまいりましょう。
今日はよく知られた「宮清め」のエピソードを省いた、いちじくの木への呪いの話に絞って考えてみます。ちなみに、マタイ伝ではこのいちじくの話は短くまとめられ、宮清めの記事の後に置かれています。
さて、イエスは何とも独りよがりな呪いの言葉をいちじくの木に投げかけています。葉が茂っていたので実がなっていないかと近づくと、葉だけで、実はなっていない。そこで、この木に向かって呪うのです。「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」(14節)。その後イエスと一行は神殿に上り、イエスが神殿で一時狼藉を働き、その後郊外へと逃れます。翌朝、例のいちじくの木を見ると、根元から枯れていたという。弟子たちがそのことを報告しますと、イエスは「神を信じなさい。はっきり言っておく。誰でもこの山に向かい、『立ち上がって海に飛び込め』を言い、少しも疑わず、自分の言う通りになると信じるならば、その通りになる」(23節)。「この山」とはおそらく都エルサレムの立つ山を指すのでしょう。したがって、この山が「立ち上がって海に飛び込む」というのは、エルサレムの破壊、滅亡を意味するでしょう。イエスはこの、いわば呪いとしての祈りの実現を確信するよう促している。祈り(この場合は呪いであるが)はそれを確信することによってやがて実現するというのです。これは私たちから見るとかなり危うい気がいたします。しかし、何度か指摘しておりますが、私たちが礼拝の初めに読む詩編は、その多くがこのような呪いの祈りを含んでいます。イエスはこうした、呪いも含む詩編の祈りを当然よく知っていたでしょう。したがってイエスがここで語ることは別に不思議なことではありません。ユダヤ教の集会ではこうした呪いも祝福も含む祈りが絶えず反復されていたのです。それは自分たちのへの迫害、悲惨な敗北、民族の離散などを引き起こした人々や国々に対する、いわば復讐の祈りであるのですが、これは自分たちを奮い立たせるためであり、かつかつての悲劇を忘れないための手段です。それは一般にルサンチマン(怨恨感情)と呼ばれ、否定的に見られますが、ユダヤ教はあえてそれを中心に据えているように見えます。そして常に均衡の回復、失われた自分たちの権利、あるいは死んでしまった、殺されてしまった人々の名誉の回復の実現を期するのです。
イエスもまたこの伝統にはっきりと立っています。そして次のように続けます。「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、その通りになる」(24節)。このような勧告を、キリスト教は受け入れてきました。それは祈りの効用です。祈りは実現する力を持つということ。しかも、祈りにおいて祈られている内容はすでに実現しているということ。もちろん、このような勧告は絶えず誤解や曲解を生み出します。周りの人々は、祈れば何でも実現するなら、医者も弁護士もその他の技術者も、必要ないなどと批判し始めます。一方、祈る側も一部本気でそうした人々とかかわることをやめてしまう。つまり、祈りを医術や法的技術や科学技術を超えた、しかし同時に「技術」として理解してしまうのです。
これは根本的な誤りです。祈りは技術ではない。祈りとは現実の状況(個人の病そのほかの不幸や理不尽なこと、民族や国家にとっての迫害や危機)をはっきりと表に出し、意識し、それを乗り越えようとするための最初の、しかも最も強力な手段であり、しかもそれ以上ではない。けれども、その祈りなくしては、何事も始まらず実現しない。しかしそれは「技術」ではないから、それによって治ったり、戦争に勝ったりするのではない。だから「呪い殺す」などということもあり得ない。
それでも、このいちじくの話は不穏です。なぜなら、イエスの呪いが実現したように書かれているからです。すなわち「根元から枯れてい」たからです。これを理解するにはマルコのテキストの正確な理解が必要です。簡単に言えば、マルコの書き残したいちじくの話は、前半は単なるいちじくへの戯言のようなイエスの発言ですが、今日省略した宮清めの後では、葉っぱだけ茂って遠めには実がなっていそうな木だったのに近づいてみたら実がなっていないいちじくが、実は都エルサレムであることを暗示しています。そして枯れてしまったいちじくは、やがて破壊され行く(マルコにとってはすでにユダヤ戦争で破壊されてしまった)エルサレムを指しているのでしょう。マルコ伝は、だから、宮清めを間に挟んだのです。
マルコの描く弟子たちは、祈りや呪いの力を(技術として)信じていたのかもしれません。それでもマルコ自身は、祈りの意味を転換しています。それが25節の言葉です。「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすればあなたがたの天の父も、あなたがたを赦してくださる」と。要するにここでは呪いの祈りを排除せよといっています。これはマタイ伝では山上の説教にその本質が記されています。いうまでもなく「主の祈り」です。祈りは赦しを前提に始める必要があるということです。
おそらく25節を付け加えたのは、ある種の誤解、敵対するものや憎むものに対する呪いのような祈りによって、本来、敵でもなく憎む者でもないような人々に対する無用な対立、そしてそれを超えて呪いという、他者の死や不幸を神に祈ることの根源的な危険性について、このイエス自身が一番わかっていたことをマルコは意識したいたのでありましょう。だからこそ、マルコはやや唐突ではありますが、25節を加えたのだと思います。
一方、24節にもどると、祈りはその中身が実現した、あるいは実現しつつあるものと信じて祈りなさいとありますが、祈りとは実は希望のことであるといったほうが良いのです。希望とは、実は理想としてそれぞれの心の中にすでに実現しています。だからそれを外に表すことだけが残されているのです。しかし、実はそれを多くの人々は、「できっこない。あり得ない」などと、初めからあきらめさせたり、邪魔をしたりします。これまでの過去の習慣や伝統なのだからと諭し、あるいは押し付けて、前に進ませることを妨害するのです。しかし、聖書の宗教は、祈り(すなわち希望を神に語ること)によって、人間を前へと、より良き場所へと連れてきたのです。私たちは、そのような祈り求めることをこれからも続けるのです。キリスト者の最も大切なこと、それは赦しつつ、祈ること、希望を常に持ち、それを形にしていくことなのです。もちろん、その実現の行動を「私の力によって、とか自分の努力や能力によって」という驕った姿勢で行うのなら、それはキリスト教ではありません。実現した後も、常にそれが恵みによるのだという謙虚な思いを忘れてはなりません。カトリック教会もプロテスタント教会も、そして源であるユダヤ教も、その所は一緒です。
祈り求めることの力の誤解に常に注意しつつも、その真の力を忘れず、祈るべきこと、希望を絶えず心に置きたいと願う者です。