砧教会説教2017年9月17日
「私たちにとって真の権威とは何か」
マルコによる福音書11章27~33節
イエスは再びエルサレムに上ります。神殿の境内を歩いていると祭司長、律法学者、長老たちがやってきてイエスに議論を仕掛けました。
「何の権威で、このようなことをしているのか。誰がそうする権威を与えたのか」と問います(28節)。これに対してイエスは直接答えることはしませんでした。その前に、彼ら自身に条件を出します。このことに答えたら、答えてもいいよ、というのです。イエスは彼らの土俵に上がる前に土俵自体を移そうとします。自分の土俵へと。イエスは洗礼者ヨハネのことを引き合いに出し、彼の「洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか、答えなさい」と問う。三者はどう答えたものか戸惑います。「『天からのものだ』といえば、『ではなぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。しかし『人からものものだ』といえば、……」と言葉を濁している。伝承者であるマルコは彼らの気持ちを推し量っています。「彼らは群衆が怖かった。皆が、彼を預言者だと思っていたからである」と。そこでこれら三者が「わからない」と答えると、イエスもまた、「わたしも言うまい」と応答したのです。
イエスは結局ここでは自分の行動の正統性の由来を答えることはありませんでした。しかしイエスはすでに2章10節でこう言っていました。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と。律法学者たちがいる前で、イエスは自分の権威によって行動していることを宣言していたのです。ただし正確には「人の子」の権威ですが。
本日の個所では、そのことを宣言することをやめています。要するに今度、「自分の権威によって」あるいは「人の子の権威によって」などと言ったら即座に彼らの罠に落ちることになるからです。つまり完全に冒涜の罪を問われることになるからです。一方、祭司長たちの側も軽々にヨハネについて判断するわけにもいかないのでした。なぜなら、彼らは、ヨハネが民衆の預言者であり、かつ洗礼による救済を行っていたのに、ヘロデの権力によって殺されてしまったため、民衆の怒りが非常に強いことを感じていたのでした。そしてその怒りが自分たちに向けられることもありうることをはっきりと意識していたのです。だから、ヨハネの権威を「人からのものだ」と言ったらヘロデによる逮捕と処刑を承認することになり、危険である。かといって彼の権威を天から、すなわち神からのものということもできない。彼らにとってヨハネは異端者なのですから。こうして三者は身動きが取れなくなり、イエスはひとまず神殿での危機を逃れるのです。
イエスは「人の子」の権威によって、つまり神から遣わされたメシア(キリスト)として、自由に苦境にある人々の救いや罪とされた人々の赦しを行っていたのです。見方を変えると、イエスは祭司、律法学者、長老たちの権威を認めていないということです。このことは極めて重大なことです。当時のユダヤ教の支配的権威に反旗を翻した。これをやや極端に言えば、宗教的権威や権力に対する挑戦です。今日の単元を読むと、イエス自身、いわば確信犯として行動していたことがわかります。ところで、イエスに敵対する側であるユダヤ教の体制側の人々も、単に自分たちが正統な権威であるという一方的な主張をしているわけではない。彼らもまたモーセの律法を守り、祭儀的伝統を守っているが、こうした立場は、実は昔から続くオリエントの世界帝国の支配を生き抜いてきた自信、そして現在のローマ帝国の支配にあっても、何とかエルサレムの自治と宗教的自律と守っているという自信(もちろん妥協の産物でもあるが)に裏打ちされているのです。したがって、簡単にこの体制を壊されては元も子もなくなるのだという危機意識を持っています。彼らは、当時の状況にあって、それなりの強い信念を持ちながらぎりぎりのところで現実の体制を維持していたのでした。したがって私たち読者は、新約聖書だけを根拠にユダヤ教とユダヤ人を悪者にして差別していくことは当然できません。のちのキリスト教ヨーロッパは深刻なユダヤ人差別を引き起こしますが、これは非常に問題であることは言うまでもありません。
さて、イエスの権威は「人の子の権威」であるといいましたが、これはメシアの到来という当時の終末論的歴史観のもと、ついに最終的な救済者が現れるとする信仰に基づいています。イエスは自分がその救済者(すなわちメシア)であるという確信だけを根拠に活動し、それ以外の理由付けを行わない。これはかつて荒れ野の奥に現れた神に従ったモーセとほとんど同じです(出3章)。モーセの場合は「私はあなたとともにいる」という神の約束だけに信を置き、それ以外のことを恐れることはありませんでした。イエスの場合は、天からの聖霊によって神自身が受肉したとされ言われるので、正確にはモーセとは違いますが、彼もまたもはや何も恐れるものはない。彼らにとって、この世の権力、この世の権威とされているものは、完全に相対化されているのです。
今年は宗教改革500年の記念の年ですが、ルターにおいて始まったこの運動の本質は結局、自分にとって真に従うべき、根拠とすべきものは何か、つまり真の権威とは何かという問いに答えることにありました。私たちはプロテスタント教会に属しています。かつて浅野順一先生が始めた渋谷の美竹教会は旧日本基督教会に属する教会で、カルヴァンに始まる改革長老派の流れに属するのですが、ルターにせよカルヴァンにせよ、それまでのローマカトリック教会の権威、その中心にある使徒的権威を否認したのです。つまり教皇を頂点とする公同の教会制度、ペトロから続く使徒的伝承と権威は二次的なものであり、人為的であり、作為的である。それゆえ、真の権威である神とその言葉に直接連なるのが正しいのである。こうして「信仰のみ」「聖書のみ」「恵みのみ」という標語のもと、プロテスタント教会が成立し、ミサでなく礼拝が行われ、使徒的権威を帯びた神父ではなく、本質的には信徒である牧師が導く団体ができてきたのです。もちろん、これはやや理想的にまとめており、実際はグラデーションです。日本の「無教会主義」キリスト教のように、サクラメントもなし、教会もなく、したがって牧師もいない、信徒だけの団体もありますが、これは究極のプロテスタントの姿かもしれません。
私たちの教会はカルヴァン派の流れということはできますが、実際は浅野順一先生の預言者的信仰をもとにしたのであり、したがって我が国のプロテスタント教会が結局のところ持ってしまったある種の権威主義、つまり洗礼や聖餐式に重きを置き、教会の制度に執着するということには冷ややかであるといえます。このことは何を意味するかと言えば、真の権威は結局歴史的に作られてきた規則や制度にあるのではなく、ただ私と神との信頼関係の存在それ自体に基づくのだということです。信頼関係といいましたが、それは人間同士の関係の比喩ではなく、神の前では私は全く無力であることを知ったとき、同時に神は私を受け入れてくださったのだと感じられるような境地のことです。それをルターは信仰によって義とされると言ったのでした。そのような気づき、自分の生き方の深いところでの転換を経験したとき、私たちは本当の権威に基づいて、この世を生きることができるのです。そして、このような権威のもとでは、もはや地上でのあらゆる事柄を恐れる必要がない。そこには「死」さえ含まれています。死とはこの世に属するものであるというのがキリスト教の立場ですが、これは簡単に言えば、創造者である神の権威のもとにあることに気付いた、あるいは信仰を持った人は神に赦され義とされているのだから、すでに永遠のもとに復活しているのであり、この世の「死」を乗り越えているということです。この世にとらわれている者にとって、死は最も強い恐れを引き起こします。しかし、神の権威のもとにある者は、もはやこの世の権威にとらわれることはない、ましてやこの世のものに過ぎない「死」を恐れることなどないのです。この世の権威や権力がなぜ怖いかを考えればすぐにわかります。この世の権威や権力が強いように見えるのは、それらが最後に提示するのが、お前の命はどうなるか分からないぞ、という脅しだからです。つまり「死」です。権威や権力にひれ伏すのは、結局はそれらが人の命を奪う力を根底に持ち、それを使うからです。
しかしキリスト教は、この世の力としての死を乗り越えました。それはキリストの復活信仰に基づくのですが、これはこの世を生き続けるというようなことではありません。永遠の命と一言で言いますが、今の自分が永久に続くなどということでありません。そんなことならご免こうむります。そうではなく、全く新しい世界に生きるというか、そこへと復活するということです。それでも、そのような復活は、時にこの世のことなどどうでもよいという独りよがりな信仰と勘違いされることもありますが、それは全く誤りです。なぜなら、復活を信じる者は、信じるがゆえにこの世を充実するよう生き始めるからです。復活信仰とは「上がり」ではなく、かえって「スタート」を呼び起こすというか、改めてスタートラインに立つといえばよいでしょうか。今困難にある者が、それを超えていく勇気を持つということともいえるでしょう。
この時代、そして今日の日本において、この世の権威や権力にのみこだわる人がほとんどとなっています。なぜなら、残念ながら、まともな宗教が力を失い、今の現実にすり寄った甘い言葉を語る勢力に皆がなびいているからです。しかし、世の中甘くはない。それどころか、多くの人々は甘い言葉に騙されていくのです。大陸から離れた小さい島、山ばかりで生産力は低いという地理的制約を忘れ、ただひたすらこの世の知恵、人間の知識に頼ること、これを国家意思としているが、この権力と権威は自分自身を死へと追いやることになるだろう。それゆえ、そのような勢力と一蓮托生であることの危うさに気付くこと、いいかえれば真の権威を見出すこと、もっと言えば私たちキリスト教の力が発揮されること、これが今一番求められているのです。