日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2017年9月24日
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」マルコによる福音書12章13~17節
 イエスは今日の箇所に先立つ12章1-12節で、祭司長たち、律法学者、長老たち
の滅びを暗示するたとえ話をして、彼らを怒らせた。しかし彼らは、イエスを捕えることはまだためらっている。彼らは群衆を恐れていたのである。そこでいったん彼らは退場する。すると今度は、「人々は、またイエスの言葉尻をとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ党の人を数人イエスのところに遣わした」という。この「人々」とははっきりしないが、先ほどまでいた祭司長たちの仲間であろう。イエスを危険人物とみなし、できるなら抹殺したいと願っている。彼らは慇懃な姿勢でイエスに問う。「先生、私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。治めるべきでしょうか、治めてはならないのでしょうか」(14節)。
 この問いは群衆の前でなされている。公開質問である。これは政治的な問いであり、この問いにうかつに答えることは危険である。もし不用意に発言し、それが群衆を怒らせたり、失望させたりしたなら、自分のこれまでの働きは水の泡である。それゆえ、「イエスは彼らの下心を見抜いて」とマルコは解説している。
 この問いがなぜそれほど尖った問いであるのかは、私たちにはわかりにくい。事情はこうである。エルサレムはユダヤ人、ユダヤ教徒の都であるが、独立した国ではない。もちろんヘロデ王もいるが、かれはローマ帝国の傀儡に過ぎない。要するに、エルサレムを含むユダヤ地域はローマ帝国の版図の一部である。したがって、ローマ帝国に、すなわちその主権者である皇帝に、人頭税を納めなくてはならない。このことは当然多くのユダヤ人にとって不満なことであったが、この世の支配はローマによって行われているので、それに逆らうことは命に係わる。だから、これを納めないという選択は実際には不可能であった。しかし、一部の過激な人々にとって、特に熱心党のような反乱や革命を志す集団にとって、ローマに税を納めることに当然否定的である。このような集団は、おそらく都の外に何らかの拠点をもって、ある種のコミューンを形成したのであろう。
 ローマに税を納めることは、根本的にはよくないことである。なぜなら、ローマはユダヤ教から見れば偶像崇拝の国家であり、いまや皇帝も神格化されているので(皇帝礼拝)、これに税を納めることは、十戒に、特に第一、第二戒に触れることになる。それを納めることは自分たちの自由、誇りを捨てることであり、自分たちの神を捨てることにさえつながる。もし治めることをイエスが正当化したら、イエスのこれまでのメシア的働きは一気に色あせるだろう。そして民衆はイエスから離れていくだろう。
 他方、律法に忠実になって納めなければどうなるか。たしかにこれは気概あふれる行為である。しかし、普通に考えれば蛮行である。つまり、ローマによって過激な罰をうけることになる。仮に民衆が扇動されれば戦争の機運を高めてしまう。それはユダヤの支配層にとっては非常に危険であるから、納めるなという発言は、明らかに現在のユダヤ体制に対する反逆者となり、彼をとらえることができる。ローマへの反逆者として。
 イエスは、彼らの問いに正面から答えるなら、どっちにせよ窮地に追い込まれるのである。だから彼は慎重に答える。そこで彼はローマに納めるための銀貨を持ってこさせ、暗示的に答えたのである。その答えが今日の題目にした言である。
 イエスは言う。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」。銀貨には皇帝の銘と肖像が彫られている。ローマ帝国が発行し通貨として流通しているのだろう。銀貨であるから、それ自体にもちろん価値があるが、原則、通貨としての価値である。イエスはこの貨幣の由来を問題にした。この通貨は要するに皇帝のものだ、だから皇帝に返すのだ、と主張した。つまり税を納めることとは関係なく、この銀貨の発行者の権威を承認している。これは要するに税を納めることに同意しているといってよい。しかし同時に、彼は「神のものは神に」と続ける。これは何を意味するのだろうか
 イエスはおそらくどちらか一方の答えに限定したとき、当然危機に陥ることを知っていた。だから、彼は捧げるべき相手を分けたのであろうか。表面的にはそう見える。イエスは少し前の論争場面では答えをはぐらかしていた。
 しかし、おそらくイエス自身の真意はそうではなかったと思われる。地上の権威である皇帝と、地上の権威を超えている「神」の権威を分けて見せたのである。そのうえで、地上の権威の象徴としての銀貨、それを集めたものの一部を税として納めることの宗教的意味を剥奪した。すなわち、そのような問いを問うユダヤ教的な根拠を無化したのである。そして、そのようなローマの権威・権力を過剰に意識し、それに反発したり、それに媚びたりすること、そしてそれらの態度のどちらに与するかで争うこと、多くの者がそのような争いや反発にエネルギーを費やすことのむなしさを明らかにして見せたのではないだろうか。だから、イエスは単に二つの命題を並列しているのではなく、地上の権威や権力に自分たちの神、自分たちの信仰が翻弄されることのないように戒めいている。つまり、後ろの命題「神のものは神に」ということをもう一度想起せよといったのである。
 そのことに直感的に気が付いた相手は、だから、この答えに驚いたのである。
 もちろん、本当はローマの支配に服することは苦痛であり、恥辱である。しかし、イエスはそのことにこだわるあまり、自分たちの大切なもの、ユダヤ教の本質をこの苦痛や恥辱のゆえに置き忘れていくこと、そして地上の権威権力にたいする反発や迎合という姿勢の危うさを指摘した。これはかつて預言者イザヤが、アッシリア帝国の襲来にともなって一喜一憂し、迎合(アハズ王)したり反発(ヒゼキヤ王)したりする当時のユダ王国の指導者に、私たちが信を置くべきなのは誰なのか、何なのかを問いかけ、「落ち着いて静かにせよ」と言い、「信じる者は慌てることがない」といった深い信仰的態度とよく似ている。イエスは、浮足立ちつつも、自分たちの権力にこだわり、イエスを陥れようとする人々に、かえってことの本質を明らかにし、彼らを説得しようとさえしたのである。
 もちろん、このようなイエスの姿勢が奏功するわけではない。多くの人々は単純な、あれかこれかの問いに弱い。事柄を単純化して、一方に導こうとする。しかし、イエスは地上の権威権力に対する仕方については、この箇所のように、全く別の次元から答え、人々に新しい道のありかを示すのであった。
 この言葉を現実的に解釈したのは、いうまでもなくパウロである。彼は「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(ローマの信徒への手紙13章7節)。ローマの権威のもとで、ローマ世界で伝道する彼は、時の体制に逆らうことはできない。それゆえ、現実的な勧告をおこなった。そして時を経て、この言葉は政教分離を象徴する言葉となっていく。
 いわゆるルターの二王国説。霊と肉、霊のことは教会に、肉のことは地上の王(要する領主)に任せる。このような姿勢から、宗教のになう領域を限定すること、そして互いの領分を侵さないこと。これを政教分離というが、これは宗教も守る面と、宗教を弱める面がある。今日はこのことにこれ以上不意入りしないが、このような分離をイエスは思い描いたのではないことだけは確実と思う。イエスは、地上の権威権力にこだわるあまり、そのような権威権力が根本的は相対的であり、やがてそれらは滅んでいくのであり、最終的に神の支配が優るのであることを忘れてしまうことになることを戒めているのである。
「神のものは神に」このことを実は今の時代も強く意識しなくてはならない。今の世界ほど、地上の権威権力に翻弄され、すべて「皇帝のものは皇帝に」ということ以外に思いが及ばないからである。言い換えればすべてがお金に置き換えられ、それがすべてになってしまったように見えるからである。私たちが今日のこの言葉をもう一度とらえなおし、その真意に至り、そして地上の権威権力の外、お金の支配の外に目を開くとき、あのイエスが思い描き、同時に彼の行いによってもたらされた、本当の幸福、本当の命、そして慈しみと愛に満ちた世界を見出し、かつそこに生きることができるのである。私はそのように信じている。