砧教会説教2017年10月1日
「復活は生きている神への信に基づく」
マルコによる福音書12章18~27節
サドカイ派の人々が登場する。彼らはファリサイ派と違って、口伝の律法を認めず、モーセ五書の権威しか認めない。そして復活や天使のような存在も認めない。要するにユダヤ教においては保守的なグループである。ファリサイ派が市民階層を中心とするのに対して、神殿の祭司階級と近かったとされる。
その彼らが、イエスに奇妙な質問をする。一人の女性が、兄弟の多い家に嫁いだものの、夫に先立たれ、その後その弟と結婚するが、その弟も、またその弟も死に、最後は女も死んだという。すると復活したとき一体その女は誰の妻になるのか、と問う。このような問題が生じる以上、復活信仰を受け入れることはできない、というのが彼らの考え方である。彼らは復活した後の世界が今の世界と同じようなものだと前提してしまう。
しかし、イエスは彼らの問いかけ自体が思い違いであると切って捨てる。そしてイエスは「死者の中から復活する時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」という。復活した命は、地上の人間とは違うという。天使のようになる。つまり神にちかい完全な存在になるのだから、そもそも彼らは結婚などしなくてよい。だから、その女の人は誰の妻でもない。したがって、サドカイ派の人々が問題とするような事柄は論外である。
その後イエスは、死者の復活に関してモーセの書の「柴」の箇所に「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と自己紹介した箇所を引き合いに出す(26節)。そして、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と宣言し、再び「あなたたちは大変な思い違いをしている」と批判した(27節)。
さて、26節以下のイエスの言葉は、にわかには理解できない。なぜ、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という言明が「生きている者の神」であるのか?そしてなぜこのことが復活とかかわるのか。
前者の問いについては非常に単純である。アブラハムに現れた、イサクに現れた、ヤコブに現れた、ということは、現に生きていた彼らに現れ、それぞれに祝福をあたえ、彼らをこの世において導いたということを示唆している。つまり、イスラエルの神は、生きている者に働きかける「神」である。そして、ある時代、ある社会において、神はこの生きている人間たちに、気づかないかもしれないが、本当は働きかけ、導いている。では、死んだ者の神ではない、という言明はどのように解釈すべきだろうか。
これもまた素朴なことを言っているように見える。つまり、イエスの言う神は、死者の世界をつかさどる神、陰府の支配者としてのサタンとは違うということである。かえって、サタンも含めた死の力を克服する神である。背景にはこの時代の強い二元論があるのだろう。善と悪、光と闇、天国と地獄。こうした二つの観念の対立はそれぞれの領域、世界を前提する。その結果、両側にそれぞれ神がいるような理解がなされていた。しかし、イエスは悪、闇、地獄などの世界の自立など認めてない。それらも含めてすべて、天地を創造した一人の神の支配のもとにあるといっている。だから、死んだ者の神などではない。それどころか、そもそも死んだ者の神などいないのである。それゆえ、最終的には、死んだ者は、死んだ者の神でなく(もともといない)、真のヤハウェに裁きを受けるほかないということだ。
ただ、ここではイエスの言う神とサドカイ派のいう神、それぞれ神ということばで違う者を指しているのだろう。だから、イエスは「たいへんな思い違いをしている」と繰り返している。このイエスの批判は重要である。私たちもまた、神とその支配を考えるとき、たとえば大きな災い、思いもよらない病などによって人々が死んだとき、このことも神の業であり、受け入れるほかないのだとか、あるいは逆に神も仏もないなどと一種の合理化を行う。あらゆるものを支配するという言葉によって、結局何を納得しようとしているのかと言えば、この災いは「宿命」なのだ、結局人生は運任せなのだということ、つまりニヒリズム、あきらめである。一見、神の全面的支配を称えているように見えるが、それは自分を納得させている、あるいはあきらめている、あるいはそれ以上にモノを考えることをやめているということである。イエスはこのような、自分を納得させるための神ではなく、「生きている者の神」をうちだすことによって、死や悪に取り込まれずに、あるいは安易な納得をせずに、あきらめずに、前進することを強く促しているのである。だから、イエスの神は、世の中を支配しているものにとって、サドカイ派のような貴族的でこの世的な人々にとって、不穏であり、危険であったのだ。
しかし、イエスは自分の信じる神こそが、モーセの神であり、先祖の神であると考えた。死んだ者たちの神とは実はイエスにとってサドカイ派たちの神である。つまり、彼らこそ、「死んだ者」であると皮肉ってさえいるように見える。聖書の神はそのよう神ではない、本来命を支え、人々の苦しみを聞き、自らこころ痛め、人々へと働きかける神である。ところが、この貴族的なユダヤ教徒は人々の苦しみ、痛みを放っておく、いやそれどころか、あいつらは自分の罪で苦しんでいるのだ、それゆえ差別すべきだと考えている。イエスはこのような、自分の支配に都合よい「神」とそれを後生大事に守っている人々を厳しく否定したのだといってよい。
今の私たちにとってもこのイエスの姿勢は実に目からうろこである。私たちは本当に「生きている者の神」を信じているのだろうか。何でもかんでも神の思し召しなのだ、だからあきらめるほかない、お任せするしかないと、つい信仰者ぶってはいないだろうか。すべての悲惨や困難、これらすべて神の支配であるとカッコよく言い放ってみたいが、それは結局自分を納得させたいだけではないのか。私は牧師であるから、ついついそう言ってしまいたくなる。慰めとして、あるいは励ましとしてさえ。しかし、今日のイエスの言葉を本気で考えてみると、イエスは「生きている者の神」を言上げすることによって、今の困難、悲しみ、苦痛を乗り越えていく信仰的生き方をもう一度取り戻させようとしていると思えて来るのである。一見、分断するような言葉、死んでいった者たちを置き去りにするかのような言葉に響くのだが、それは全く違うのだろう。死にとどまっている者をもう一度命へと「復活」させるほどの力を持つ「生きている者の神」、真に生きている神、創造し、かつ贖う神をイエスは人々に、もちろん私たちにも、気づかせようとしているのであろう。
それゆえ、あらためて「復活」信仰について確認するべきであろう。サドカイ派の人々にとって復活とは矛盾を含むがゆえに、あり得ないと考えた。それは例に出した複数回結婚した女性の所有をめぐって、もし復活してしまったらその女の人の所属に矛盾をきたす。死んだ者は復活しないという前提があるから、別の人の妻になれたのであり、生き返ったらそれは重婚の大罪となってしまうではないか、という理屈であった。しかし、イエスはそもそも復活とはこの世に続いているのではないという。このあたりのイエスの理屈は黙示的である。つまり復活とはこの世界に続いているのでなく、新しい世界での出来事なのだ、そしてこの世の契約などはすでに無効である。これはひとまず理屈であるが、この発言もまた、その真意はやはりこの世の秩序、この世の習い、これらを突破する思想であることは明らかである。天使のようになるとはかなりわかりにくいが、黙示的思想においては、そしてのちのキリスト教においても、このような想像的な要素によって、人々に希望を与えたのである。
もちろん、こうした黙示的な世界観はあまりにも空想的であり、かえって人々にマイナスの力を及ぼすことになるが、今はその問題には踏み込まないでおきたい。ひとまず、復活とはこの世の支配を超える非常に強力な宗教的観念であるということを確認したい。イエスはこのような「復活」こそ「生きている者の神」を信じたものにとって当然の権利であるとさえ考えていたのかもしれない(そして、パウロはそれが実現したことを「宣教」したのである)。
わたしたちはこのわかりにくいテキストをやや深読みしたが、「思い違いをしている」というイエスの言葉の衝撃だけは心にとめておきたい。そうしないと、「生きている者の神」をいつの間にか漠然とした運命の力と混同させてしまうからである。