砧教会説教2017年10月8日
「キリスト教の二つの掟」
マルコによる福音書12章28~34節
神は死者の神ではなく、生きている者の神であると告げたイエスは、次いで律法学者の一人から質問された。先ほどはサドカイ派の人々からの質問で、今度は律法学者からである。12章13節ではファリサイ派とヘロデ派の人々からの質問であった。イエスは当時のユダヤの主要な勢力から次々と質問を浴びせられている。実際の経過なのか、マルコが整理して並べたのかはわからないが、いずれにせよこのような公の場で質疑や討論が行われたのである。
さて、律法学者は「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねた。この律法学者は11章の27節で出てきた律法学者たちの一人なのだろうか。もしそうなら、この問いかけもイエスを陥れようとするものと考えられる。というのも、このような問いは、イエスのようなおそらくユダヤの律法に精通した人間に問うような問いではない。いや、それどころか子どもでさえ答えは決まっている。答えは当たり前だからだ。私たちはこの問答をひとまずまじめな問答と受け取るが、この情景の内部にいたら、これはほとんど冗談の問いである。ユダヤの人々は申命記の6章4節の言葉をそらんじている。そしてそこにはモーセの命令が書いてある。
イエスは当然、その言葉を告げる。少しだけ加えてあるものの、当然の答えである。
しかしイエスは、それにとどまらず、もう一つ加えたのであった。それはレビ記19章18節の言葉である。イエスはそれを「第二の掟」と呼んでいる。
この問答は一体何なのだろうか。律法学者の問いかけは、「あらゆる掟のうち、どれが第一」であるかであった。つまり申命記6章4節を確認したかったに過ぎない。そして答えはそれを満足させるものだった。それなのにイエスは問われてもいないことを語り始めたのであった。それがレビ記19章18節である。なぜ、イエスはこのような付け加えをあえてしたのだろうか。
第一の掟はモーセが民に向けて命令した最初の言葉である。単に最初という意味で「第一」であるともいえるが、これは根本、原則、すべてに先立つものである。その内容は新共同訳では「私たちの神である主は唯一の主である」と訳されている。この部分は命令ではない。十戒の第一戒を確認する宣言である。この箇所のギリシア語は申命記のヘブライ語をほぼ正確に訳すが、もちろん「主(キュリオス)」に変えてある。これは本来「ヤハウェ」である。つまり新共同訳を下敷きに書き換えると、「私たちの神であるヤハウェは、唯一のヤハウェである」となる。しかしこれでは日本語としてやや変である。ヘブライ語をそのまま訳せば「ヤハウェはわれらの神、ヤハウェ一人」である。これのほうが十戒の第一に対応している感じがわかる。要するにユダヤの人々にとって神とはヤハウェだけである、という宣言である。そしてそのあとに命令が来る。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。この命令をユダヤの人々は永遠の命令として受け取っていた。そして、それをどうしてそのようなものとして受け取るべきなのかも知っていた。なぜ愛すべきかを知っていた。
しかし、私たちは、いや聖書のこの言葉に初めて出会った人たちは、この文言だけを見て、神とは唯一で、それを愛せと言われても納得いかないのではないか。私は授業で、キリスト教の二つの掟としてこの二つを学生たちに示す時がある。すると返ってくる問いは、二つ目はわかるけれど、第一のほうは全く納得いかない、なぜ第一があるのかわからない、というのが相場である。
つまり第一の掟とされる、最も大事なものがわからないのである。しかしそれは当然である。この第一の文言の最初の命題は、神が唯一であると言っているのではない。我々の神はヤハウェであって、わたしたちにとって神はヤハウェ一人であるということである。なぜヤハウェかといえば、このヤハウェが私たちを「エジプトの国、奴隷の家」から救い出した神だからである(十戒の全文、出20章2節)。つまり、救いの神がヤハウェであるという前提が納得されていないから、第一の掟を理解することができないのである。ユダヤ人にとって(古くからの伝統から言えばイスラエルにとって)、ヤハウェは自分たちの命の恩人であるという感じだろうか。しかしユダヤ(イスラエル)の神ヤハウェはそのような特殊な事情、出エジプトという歴史的出来事だけに限定されるのでもない。もしそれだけなら、この神はユダヤのアイデンティティの根拠となるだけであろう。しかしそれだけではない。この神は「天地万物の創造の神」、「歴史を導く神」、そして「イスラエルを選んで、その救いや解放を告げ知らせる民とした神」なのであった。だからこそ、その神を「愛せよ」すなわち最も大切にせよ、かけがえのないものとせよという命令に従うこちら側の態度が成り立つことになる。
この第一の掟は、その掟に先立つ事柄、出エジプト(民の解放と救済、すなわち自由であることをもたらす)、世界の創造と歴史の導き(世界と人間のいわば親としての神、つまり人間も世界も最終的に神に服する)、そしてその救いと導きを自覚して生き、ヤハウェの民としての自覚を持ち続けること、これら三つをまとめて「愛せよ」ということであった。それゆえ、そのことは文化も歴史も異なり、時代もはるかに隔たった世界の人間にはそう簡単に納得いくものではない。だから聖書の宗教をその本質において納得し、受け入れるというのは非常に難しいともいえる。しかし、これがなければ聖書の宗教(ユダヤ教、キリスト教、ひいてはイスラム教)もないのである。ともあれ、この第一の掟の解説はここまでにして、なぜイエスは問われてもいないことをあえて発言したのかの問題に移りたい。
さて、第二の掟は「『隣人を自分のように愛しなさい』」である。これはレビ記の引用である。レビ記19章は「あなたたちは聖なる者となりなさい」という命令から始まっている。そして共同体の平和と安全を具体的に守るための掟がまとめられているきわめて重要な箇所である。イエスが引用した箇所の前にはこうある。
「13あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。14 耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。わたしは主である。19:15 あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。16 民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である。17 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」
私たちはイエスの引用した箇所から「隣人愛」ということばを割と普通に使いながら、隣人とはだれかとか、愛するとはどういうことかなどと自問したりするが、実は答えははっきりしている。このレビ記を見ると隣人愛とは共同体の一人一人の尊厳を具体的に守ることである。そのことをまとめて「隣人を自分のように愛せ」と言っているに過ぎない。労賃を先延ばしにしない、体に障害を負った人々の尊厳を守ること、裁判の公正、隣人の命に係わる偽証はだめ、心の中で憎むのではなく、率直に相手をいさめること、復讐を退け、恨みをいだかないこと。このように書いてみると、イエスの山上の説教がおおむねこれらを踏襲していることがわかる。またパウロの愛の賛歌も一部これを援用していることにも気づく(愛は恨みをいだかない)。隣人を自分のように愛するとは、自分の尊厳と自由を守ることと他人のそれを守ること、そのことを常に課題とせよ、ということである。
ではイエスはなぜこれを加えたのだろうか。律法学者は「第一の掟」を言ってみてくれといっただけなのに。
その理由は簡単である。第一の掟だけだと結局、律法学者をはじめとする支配階級へのなんのインパクトもない、批判にもならないからだ。彼らには、自分たちはその第一の掟を忠実に行っているという自覚がある。問題は神ヤハウェを愛するということが彼らには祭儀を行うとか犠牲をささげるとか、そのための税金を徴収するとか、その他もろもろの制度の維持となっている点である。要するに神を愛するとは彼らにとって伝統となった儀礼を守ることである。しかしイエスは、神を愛するとは、神に創造され、神ヤハウェに救われ、共同体となり、兄弟となった人々が相互に助け合い愛し合う世界を実現することであると考えたのだ。神を愛するとは、隣人を自分のように愛することなのである。自分も隣人も神の息吹を与えられ生きるものとなったのであり、隣人は「永遠の他者」すなわち神ヤハウェであるといっても過言ではない。
イエスは第一の掟を言い換えたに過ぎないといってよいだろう。神を愛することと、隣人を自分のように愛することとは二つの別々ことではない。もともと一つのことである。イエスは、神を愛することはレビ記19章を実践することであると考えたのである。逆に言えば、そのような実践がなされているなら神は愛されているのである。
キリスト教の二つの掟は一つの内容を二つの表現にして簡潔まとめられたのである。これらは別な事柄ではなく一つの事柄である。
しかし、これをなにか別々の事柄であるかのように、多くのキリスト教はとらえてきたように思う。というのも、改めて宗教改革以後のキリスト教の深刻な対立、戦争、迫害を思い起こす時、このイエスの語った第二の掟が完全に抜け落ちていたことを思わざるを得ないのである。明日は修養会で、特別講演として東洋英和の深井智朗先生にお越しいただきこの時代の話を伺うことになるが、宗教改革が「信仰のみ」「聖書のみ」「万人祭司」を謳い、その結果深刻な事態に陥ったことの問題性を深く認識しておられるようだ。要するに「神と私たち」、あるいは「神と私」の絶対性ばかりが主張され、つまり結局第一の掟だけが主張され、第二の掟は全く却下されていたのである。このような悲惨な歴史を経なければならなかった必然もあるのかもしれないが、私はやはり、西欧のキリスト教の本流はイエスの語った第二の掟をおよそまともに理解しなかったように感じてしまう。この二つは別のことではなく、同じことの表現であることに気づけば、隣人を自分のように愛するということの実践がないところには、信仰などないと同じであることにも気づくはずだ。
32節以下でこの律法学者は恐れ入った様子で語っている。「先生、おっしるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということはどんな焼き尽くす捧げものやいけにえよりも優れています」(32-33節)。しかし、注意が必要なのは、第一の掟の宣言部分を分離して、第一を第二につなげている点である。この律法学者は第一と第二は一体であることを察知したのだろう。この二つが実現しているところでは、もはや犠牲もいけにえもいらないのであると、この律法学者は宣言している。これはもはやイエスと同じ立場に立ったということだ。それゆえイエスは彼を祝福したのである。
私は、これら二つの掟を常につなげて、あるいは一体のものとして受け入れること、このことを意識しつつ、キリスト者としての歩みを続けていきたいと願っている。