日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2017年10月15日
「ポピュリズムの時代を生きる信仰者」マルコによる福音書13章1~13節
 キリスト教は常に世界の終わりを前提にこの時代や社会を見ようとする。終わりの地点からモノを考える。このような思考方法がおそらく西と東の世界を分ける大きな指標となるのではないだろうか。終わりから今を考察するということのさらなる前提は、当然、世の始まりがあるということである。初めがあり、終わりがある。しかし同時に、その終わりとは、「この世」の終わりであり、新たな永遠の世界がやって来ると考えた。したがって、この世の終わりとは、その先が何もないという意味では断じてない。
 さて、このような所謂「終末論」を基に据えたキリスト教はこの世を生きる人々のこの世での生き方を規定する。この世において次の世界にふさわしい生き方をした者は、この世の者でありながら、同時に新たな、永遠の世界へと入る資格を手に入れることができるとする。キリスト教の倫理は終末論を前提するのである。
 今日の聖書はこの終末論が強く意識されている断章である。イエスはファリサイ派や律法学者らとの問答を終え、神殿の境内から立ち去ろうとしたとき、共にいた弟子たちは神殿を眺めて、これを称賛した。するとイエスは弟子たち向かって呆れたように返事をした。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(2節)これは普通、神殿崩壊の予言とされるが、そんな大げさなものではないようにも見える。ただの戯言のような発言かもしれない。しかし、この言葉をマルコは真剣なものとして受け止めたのだろう。それにしてもイエスはなぜこのようなことを言ったのか。やがてこれがもとで逮捕されたように見える。つまり、今で言うテロ等準備法(組織犯罪処罰法)に引っかかってしまったということだ。
 弟子たちはこのような物騒なことが起こるとしたら大変なことなので、正確な時期を尋ねている。するとイエスは、かなり長い勧告をおこなった。今日は途中で切ったが、イエスの勧告は13章の最後まで続いている。そして非常に印象的な言葉を残したのだった。イエスは、要するにこの世の終わりを生きていることを常に意識して生きるように弟子たちに告げたのである。私たちはこの断章を読んでもほとんど言葉の重さを理解できないかもしれない。戦争や迫害、町の破壊など、私たちの多くはそれを実感として感じ取れる人は少なくなった。それでも、そうした事柄への想像力はまだ残されているとは思う。しかし、イエスの時代はそうした破滅と終わりを強く感じ取れる時代であった。
 ユダヤ地方は、紀元前63年(イエスより二世代くらい前)、ローマのポンペイウスによってユダヤ人の王朝であるハスモン家が滅ぼされ、ローマの属州となっていた(やがて部分的にヘロデの王権は認められるようになる)が、実質的にはローマの支配下にあった。その後エジプトがついに滅ぼされ(紀元前31年)、アフリカからパレスチナ、小アジアまでローマの支配は広がっていた。その現実の中で、イエスはユダヤ教の教えをその本質においてとらえなおし、現実のユダヤの支配者たちを厳しく批判した。そして、この世の支配が圧倒的に広がった中で、かえってそれを「終わりの始まり」ととらえたのであった。すなわち、この世の支配する悪の力が極まったのだから、そしてそれだからこそ、それに対する義の神、約束を守る神、苦しむ民衆を慈しむ神、すなわち伝統的なユダヤの神の介入が起こり、決定的な審判の時、すなわち世の終わりが起こるのであると本気で思っていたに違いない。そして弟子たちも、この世の終わりと神の国の到来を信じ、イエスに従った。
 そのイエスが神殿の崩壊を預言し、さらに終末のしるしについて語りだした。その内容はまるで巨大な悪が津波のように押し寄せてくるようなものである。
 さて、今日はタイトルを「ポピュリズムの時代を生きる信仰者」とした。よく言われるように今の日本には大衆迎合・大衆扇動的な政治家がたくさん現れ、人々を惑わしているように見えるが、いわゆるマスコミがそれを事実上宣伝し、うまく大衆を扇動してもいる。イエスは『人に惑わされないよう気をつけなさい』とまず勧告する。そして「私の名を名乗る者が大勢現れ、「私がそれだ」と言って多くの人を惑わすだろう」と言う。私の名を名乗るというのは、自分こそがキリストだ、この世を救う者だと叫ぶ者たちである。今般の日本の状況を見るにつけ、このイエスの言葉をどうしても想起せざるを得ない。誰もがとってつけたようなキリストのお面をかぶって、私が日本を救うのだと言っている。そして、「戦争の騒ぎやうわさ」を垂れ流し、あるいは恐怖や不安、怒りを煽り、危機を演出し、自分ならキリストになれると臆面なく叫ぶ。それに翻弄され、私も含めた多くの人々が、浮足立つ。
 しかし、イエスはこのような騒ぎや噂に慌ててはいけない、気をつけなさい、と述べる一方、「そのようなことは起こるに決まっている」と言っているのである。ここは注意が必要である。というのは、こんなうわさに惑わされるな、そんなことは起こりはしない、だまされるな、と言ってくれたならすっきりするのに、あるいは頭を冷やして惑わされないようにしようと思えるのに、イエスは慌ててはいけない、しかしそういうことは起こるに決まっていると語るのだ。イエスにとって、この程度の騒ぎや噂のレベルで取り乱すべきではない、もっともっと深く真剣に起こるべき事柄に備えよと言っている。もう起こるに決まっているというのは、驚くほどの冷徹な判断であり、それゆえより一層の確かな備えをしなくてはならないということだ。
 わたしたちはいわゆる「平和憲法」を守ってきた。しかし戦争の噂や流言飛語が飛び交い、憲法を改正し、軍事力を強化し、国家の防衛力を高めるべきだという言説にからめとられている。北朝鮮が危険だ、中国が危険だ、他方アメリカも戦争を煽っている、だから大変なんだと、多くの政治勢力が言っている。他方、そのような噂や煽りを信じてはならない、あれは危機感を煽って国家主義を強化するための方便であると批判する者たちもいる。要するに、あのような噂や騒ぎはそう簡単に起こりはしないのだと考えている。
 しかし、イエスは前者のようなただ惑わす者ではない、かといってそんなことは起こらない、人を欺く方便だという側の者でもない。彼はそんなことは起こるに決まっていると考えているのだ。その上でどうするかを考えよというのである。このイエスのこの箇所を読むとき、私たちの政治指導者はどちらも非常に甘いのではないかと思う。このようなことは起こるに決まっている、という最悪の判断がないまま、一方は危機を煽り、かたや危機は迫っていないかのように語る。
 わたしは昨今のポピュリズムの跋扈する今般の政治状況は、どちらの側も真の危機、危機の深刻さをわかっていないのではないか思い始めた。危機を煽る側は、軍事力強化や集団的自衛権を行使すべきと勇ましいが、本当にそんなことをすれば、どんなことになるか想像しない。他方、憲法改正に反対の側は呑気に軍事力はいらない、平和憲法があるといっているが、それは全く内輪の話であって、危機の深刻さに対し無力であるように思う。
 そのようなことは起こるに決まっているというのは、すでにイエスは覚悟しているということである。自分も含めて深刻な迫害にも遭うだろうと。それを見越したうえで、対処するというのがイエスの立場であった。すなわち、戦争や天変地異、飢饉が起こり、そして迫害があるとしても、それでも「福音があらゆる民に延べ伝えられねばならない」と言うのである。私はこの言葉に驚かざるをえない。イエスはやはりこの世の終わりを確信している。それゆえにこそなのか、この世の命から神の国の命へを生まれ変わることを求めているように見える(ただし、本日の箇所では言っていないが)。
 もちろんこのような生まれ変わりはひどく観念的であるし、同時に無責任でもあるように見える。しかし、イエスはこう言っている。官憲に引き渡され、連行されても「何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない」と。その時は「聖霊にまかせなさい」と、つまり出たとこ勝負でよい、ということだ。もちろんこれもまた無責任な話ではある。しかし、イエスはこの断章の最後にこう言っている。「また、わたしの名のためにあなたがたはすべての人に憎まれる。しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と。これは本当にイエスの言葉なのか、それともすでに迫害を経験しているマルコ教団がイエスに託して語っているのかわかりにくい。しかし、イエスの言葉として理解するなら、この言葉は、ポピュリズムの時代、すなわち大衆扇動が行われ、侮辱や弾圧によって多くの人が傷つく時代、その時代にあって、その波にのまれ、その力に自分も参与してしまうのではなく、かえってその時代にありながら、その場の目先の利害のようなもの、非常にあやふやな国益とか自分自身の利益に目がくらみ、周りを敵視していく動きから、抜けることを求めているのである。
 しかしそのような強さと冷静さを人は持てるのだろうか。実はその力が、終末の到来とそのあとの新しい世界の確信である。やがてそれをまとめてパウロは「信仰、希望、愛」と呼んだが、この三つを真ん中に置き、それに基づく実践を行うこと、つまり、福音を伝え、それを生きることが肝心である。たとえそれがパウロのように牢獄にあったとしても、それを核心に据えるなら、その人は生きるのである。
 わたしたちは今ポピュリズムのさなかの選挙期間にいるが、この選挙などで、何かが決まるわけではない。それどころかすでに大変な時代になっているのであるから、むしろこの茶番の後の、来るべき嵐に備える必要がある。どちらにころんでも、「そういうことは起こるに決まっている」というイエスの冷徹な展望を私たちは求められている。そしてそのような救いようのない展望でさえも、それを乗り越える道があるのだという確信を再度確かめながら、前を向いて、主なる神、先立つキリストを目標として、この危機の時代に福音を述べる伝えていくことが大切である。