日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2017年10月22日
「苦難には神からの慰めがある」コリントの信徒への手紙Ⅱ 1章1~11節
 パウロは紀元57年ごろ、この手紙を書いたといわれる。彼の晩年と言ってよい。二つ目のコリントの人々への手紙とされるが、このほかにも手紙はあったらしい。この手紙はマケドニアで書かれたらしいが、1-9章と10-13章は別々のもので、後者は前者の後に、改めて書かれたとみられている。前半1-9章は「和解の手紙」とされ、後者10-13章は「弁明の手紙」とされる(『新約聖書略解』山田耕太による)。
さて、本日の箇所には「挨拶」「苦難と感謝」という見出しがついている。パウロは同労者テモテの名を挙げながら、コリントだけでなく「アカイア州全地方」の「聖なる者」全体に宛てて、この手紙を書いた。必ずしもコリントの教会だけでなく、ペロポネソス半島南部に住むキリスト者にも読まれることを期待している。この地域は言うまでもなく、古代ギリシアの文明の中心地であり、ローマ支配下においても、重要な地域であった。その地域にキリスト教の教会が存在し、信徒もそれなりにいたのは私たちにとって素朴に驚きであるが、すでに何度かお話しした通り、その地域にもユダヤ教の共同体があったので、その一部がキリスト教に転じ、さらにその地の異教の人々を教化し、新しい宗教共同体を作り上げていたのである。しかし、運営の方針や指導者の対立などによって内部での争いが始まっていく中、パウロはこの状況を改善し、教会としてのまとまりを維持発展させるべく、慎重に、かつ非常に情熱的に活動した。その活動の一つにこのような手紙の執筆がある。
 挨拶は「恵み(カリス)と平和(エイレーネー)があなたがたにあるように」と結ばれるが、これは第一の手紙と同様である。決まり文句と言えばそれまでだが、これらは父なる神と主イエス・キリストから与えられるものであることをまず確認している。
 3節以降、具体性を欠いた「慰め」や「苦難」という語が繰り返される。これが何なのかは今一つはっきりしない。しかし、これまでの伝道の旅においてパウロは数多くの苦難(逮捕、入獄、むち打ち、誹謗中傷など)を経験してきたが、彼はそれらをすべて神の配慮によって乗り越えることができたことを思い起こし、実はその時々においてそこに神の慰めが働いていたことを知るのである。それでも、私たちにはその慰めが具体的になんであるかは、やはりはっきりしない。苦難の時の慰めとはパウロにとって本当は何なのだろうか。
 4節では、慰めは「神からいただく」とある。そしてその神からいただく慰めによって、「あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」と言う。さらに5節で「キリストの苦しみが満ち溢れて私たちに及んでいるのと同じように、私たちの受ける慰めもキリストによって満ち溢れているからです」とあるが、これもなんだかわかったようでわからない。
 ここには非常に大きな逆説、あるいは対称の論理があるように見える。つまりキリストのあの苦しみの大きさに対して、神の慰めも同時に大きなものとして与えられたということだ。それが何かと言えば、イエスの「復活」と「昇天」である。ここでの慰めとは、イエス・キリストが復活し、神のもとへと昇ったという救いの物語に基づいているのである。
 神の慰めとはキリストの復活と昇天である。この命題を心底受け入れることなしに、パウロの言う慰めは無意味である。このことが受け入れられたとき、6節前半の言葉が意味を持つ。すなわち「私たちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります」。つまり、苦しむときにこそそこにキリストの復活という慰め、あるいはもっとリアルに言えば復活したキリストの臨在があるのだから、それはあなた方にとっても慰めである。そして後半「また私たちが慰められるとき、それはあなたの慰めになり、あなた方が私たちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです」という言葉は、要するにキリスト者の苦しみは実は慰めとセットに必ずなるのだ、キリストのあの十字架の苦しみの後の復活と昇天を信じているならば、ということである。
 わたしたちは今日の聖書の前半は非常に抽象的すぎてその真意にたどり着くのは難しく思う。しかし、以上のようにパウロの生涯と信仰の根っこを思い起こすとき、慰めの意味もはっきりすると思うのである。
 ただ、それに加えておきたいのは、このパウロの信仰、十字架と復活、昇天といういわゆるケリュグマ、つまりキリストの出来事自体が救いの完成であるという命題だけに依存した慰めでは不十分であるということだ。
 マタイの記録するイエスは、その最初期の教えにおいて、すなわち「山上の説教」において、次のように語った「心の貧しい人は幸いである。天の国はその人の者である。悲しむ人々は幸いである。その人は慰められる。……義のために迫害される人は幸いである。天の国はその人たちの者である」と。すでにイエス自身、苦しみ悩み迫害され苦しむ者にこそ、慰め、天の国、憐れみが用意されているのだ、と宣言していたのである。イエスはその言葉によって、すでに人々に未来の救い、すなわち希望を宣言していた。つまり大きな慰めをすでに与えたのであった。イエスは、自ら語ったその言葉を中心に据えて、自ら茨の道を歩んだ。それはその歩みそのものが、希望へと、救いへとつながっていることを確信していたからだ。イエス自身が復活の希望を確信していたのである。
 イエス自身は単なる慰めの命題を語っただけのようにも見えるが、彼自身がその命題の通りに歩んだ。しかし、それは主観的にはそれで十分だったのかもしれないが、つまり、この十字架の苦難は自分の最終的な救いを保証するものだと信じたかもしれないが、それを見ていた人々には敗北であり、単なるみじめな苦難であり、無益にさえ見えたかもしれない。しかし、空の墓の伝承と復活信仰は、新たに弟子たちにおいて、慰めと希望、救いとなったのである。それゆえ、キリストに倣う、すなわちキリストの十字架を自ら背負うことが究極の慰めであると考えたのだろう。そしてパウロも同様である。
 実は8節以下に、以上のことについて簡潔な説明がある。パウロとその仲間のアジア州での迫害や苦難は「死の宣告を受けた思いでした(9節)」と振り返っている。そして「それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」(9節)と述べ、信仰が救いになることを改めて語る。その結果が、今こうして手紙をしたためているパウロ、すなわち生きているパウロなのである。それゆえ、「これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に希望をかけています」(10節)と語ることができたのである。
 さて、私たちはパウロの生涯のような伝道の苦難とはほとんど縁がないよう見える。彼が自分の選んだ人生なのだからしょうがない。そんな風に捨て置くこともできる。しかし、パウロの苦難とは、実はイエスの苦難と同じであった。もちろんイエスを宣教することだから、働きの形は全く違うように見える。しかし、イエスが神の国を宣教したことと、パウロがイエスを宣教することは本質的には同じである。要するに、この世の困難の終わりが来ること、そして新しい世界は始まっていること、それゆえ、今の人生をすべて改めて、この世の終わりに、すなわち最後の裁きの時に備えることである。同時にイエスの出来事においてすでに完成しているのであり、あとは各人が決断すればよいだけだ、というのである。もちろん、イエスはかつての旧約聖書の出来事を前提にしているのに対して、パウロはイエスの出来事を前提にしているので、外見的には全く違うように見える。しかし、私は本質において同じであると思うのである。神の救いの業はあの「出エジプト」において始まり、「十戒」によって完成している。しかし時の流れの中で忘れられたり、曲解されたりしている。しかし、それはあくまでその本質において福音、すなわち救いの実現であるということだ。しかしイエスはその宣教の途上においてとん挫したように見える。しかしそれを受けた弟子たちやその後のパウロは、イエスこそ新たなメシアとして、すなわち彼自身の登場を福音そのものと見立て、彼の死と復活にあやかることによって、いかなる苦難も乗り越えられると信じたのであった。
 その苦難とは、やがて人間のあらゆるみじめさ、貧困さ、心の貧しさ、悲しみ、恥辱までも含むことになる。そのような包摂されたあらゆる苦難は、それ自体を受け入れること、すなわち苦しむことを回避しないこと、すなわち苦しみに徹してしまうことによって、それは全く反対の局面へと転じていくのである。それを復活と言う。その転じる局面において十字架のイエスに出会うのである。それはもちろん、神からの慰めであるといってよい。十字架のイエスの苦しみに出会うとき、私たちは逆説的に慰めを獲得する。同時に、その復活を信じることによって、救いをも獲得するのである。
 私たちはふつう、苦しみを減らし、あるいは忘れ、快楽を増やそうとする。そしてその結果さらに別な苦しみを作り出してしまうことが多い。それは快楽や喜びはたいてい自分勝手なものだからだ。パウロはそうした一人よがりになりがちな人間の集まりの一つに過ぎない、キリスト者の共同体に対して、苦しみを担うこと、そしてその後に真の神との和解があることを告げることになるが、それと同時に、苦しみを担うことによって、かえって慰めを得、やがてその共同体(この場合はコリントの教会)における和解が完成することを期待するのである。
 苦しみを苦しみ、その中でキリストと出会うこと、そのキリストの苦しみが慰めとなり、希望となるという逆説的な事柄の真実に気づくことが大切だと、この手紙の冒頭を通して学ぶものである。