日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2017年10月29日
「争いの源を愛で包む」コリントの信徒への手紙Ⅱ 2章5~11節
 教会の破綻を防ぐことに腐心するパウロは、自分の働きかけが「人間的な考え」に基づくものという誤解を受けないよう、周到に弁明している。今日の箇所に先立つ1章12節―2章4節はそうしたテキストである。その中でパウロは「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、私がまだコリントに行かずにいるのは、あなた方への思いやりからです、わたしたちはあなた方の信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です」と述べているが、これは直接行って、力ずくで立て直すというのではなく、あくまで協力者として言葉によって援助するという姿勢を示している。言い換えると、各教会の主体性を尊重しながら、教会の一致を図るということである。
 すでに「コリントへの手紙Ⅰ」においても教会内部の抗争の問題が扱われていたが、その後の収拾にかかわる事柄がこの手紙で扱われているように見える。ただ、具体的な状況はこの手紙からは必ずしも明確になるとは言えない。奥歯にものの挟まったような、あるいは隔靴掻痒といった印象である。しかしそれも当然、これは当事者に向けて書かれた手紙なので、具体的文脈は当事者及びパウロにとって自明なことなのだから。
 さて、今日のテキストは見出しに「違反者を赦す」とある。この見出しを付けた人はコリントの教会において何らかの律法違反とされる行為を行った人がいることを前提にしているが、具体的なことはわからない。パウロはただ「悲しみの原因になった人」と抽象的に語りだすだけである。この言葉には注意が必要である。5節後半には、「あなた方すべてをある程度悲しませたのです」とあり、ここでもおこされた「違反」行為によって共同体全体が悲しんだのだという言い方をしている。しかし、これはもちろん婉曲的な表現である。ここでの悲しみとは本来「怒り」と「憎しみ」であったはずである。コリントの教会は指導者争いがあっただけでなく、教会としてどんな儀式をやるのかとか、つまり偶像や捧げものに対してどんな態度をとるのかということについても様々な見解あったように見える(Ⅰコリント9-11章参照)。それらの問題が紛糾する中で、一部の人が何らかの突出した、明らかな律法違反を行ったのだろう。ユダヤ人も異邦人もない、新しいコイノニアにおいて、信仰の表現はいまだ一定していない。しかし、そうした突出した出来事に対してどのように振舞ったかと言えば、それは一種のリンチのようなものなのだろう。6節には「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です」とある通りである。それが身体的なものか、精神的なものか、社会的なものかはわからない。むち打なのか、呪いなのか、排除なのかわからない。いずれにせよ、これは「悲しみ」ではなく「怒り」あるいは「憎しみ」に基づいている。
 しかしパウロは、このことを全体として「悲しみ」と呼ぶ。なぜか。それはこの共同体が本来、キリストの共同体であり、神の愛に基づく共同体であるはずなのに、それが忘れられて、内部に不和や争いが生じると、一転して「怒り」「憎しみ」に覆われてしまうこと自体が、神の視点から見れば何とも「悲しい」事態であるからだ。つまり、「愛」「慈しみ」のコイノニアであるはずのものが破綻してしまうことが、パウロにとって大きな「悲しみ」なのである。それゆえ、彼は以前に「涙ながらに手紙を書いた」(4節)とさえ言っている。私はこれを大げさな言葉と訝ったり、あるいはそれなりの修辞的表現だろうなどと思っていた。しかし実はそうではない。パウロという恐ろしく配慮に満ちた伝道者にとって、教会のあらゆる困難、対立や紛争は、神の悲しみ、そしてキリストの悲しみとして感じられていたのである。それゆに、彼は罰を受けた者が「悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきなのです」と勧告するのである。つまり、違反者の側も罰によって悲しんでいるはずだとみなしている。もちろん、違反者の側は罰によって「痛んでいる」のであり、かつ相手に対して怒っている、憎んでいるとさえいえるだろう。しかし、パウロはこのような事態をやはり、「悲しみ」として受け止めるのである。
 ただし、正確に見るなら、パウロはやはり罰を与えることは仕方がないとみている。それは「あの罰で十分です」と言っていることから、共同体を混乱させた責任は負うべきであるということだ。そのことを踏まえたうえでの、「悲しみ」であることに目を留めておくべきである。
 それでも、パウロはそこに立ち止まるのではない。その先を考えている。すでに述べたとおり、彼はあらゆる困難を「悲しみ」としてとらえることを通して、対立や諍い、争い、そして排除、分裂といったことを乗り越えようとする。これはパウロと言ういわば第三者の知恵のようにも見える。罰する側の行為も罰せられる側の痛みも、本来神の地点から見れば、それは「悲しみ」である。なぜなら、神の霊が与えられた、すなわち神自身の分身のようなものであるはずのキリスト者たちが、結局苦しんでいるのであるからだ。外から見れば、全く悲しいことなのだ。
 パウロはこうした視点を、コリントの教会員に持つように勧めているのである。8節では「ぜひともその人を愛するにように(アガペーン)してください」と勧告する。いうまでもなく、イエスのあの命令を念頭においている。パウロはそれゆえ、「あなた方が万事について従順であるかどうかを試すためでした」と語るが、これは当然イエス・キリストに従順であるという意味である。パウロは最終的にキリストを裁きの基準にする。当然と言えば当然だが、実際は人間の判断、教会の力関係の中での人間の判断によって裁くことになってしまう。それを何とか乗り越えるために、パウロはキリストへの従順と言う言い方で、人間的な判断、人間的な感情に身を任せることの限界と危うさに気付かせようとしたのである。放っておけば、そうした人間的判断によって、その当事者だけでなく、それ以外の人々も混乱し、やがて解体してしまうだろう。だからこそ、その当事者を愛する、すなわち、共同体の仲間としてやっていくよう促した。
 そのことを明確な言葉で言い直しているのが10節の「あなた方が何かのことで赦す(カリゼステ)相手は、私も赦します。私が何かのことで人を赦した(ケカリスマイ)とすれば、それは、キリストの前であなた方のために赦したのです」と言う言葉である。
 後半はなんだかパウロの権威が優先されているように読めるが、ひとまず、パウロはキリストとの仲介者の役割をしているという自覚からきているとみておきたい。つまり彼は「預言者的」なのである。これは神と人との間を執り成すものとしての、非常に困難な役目であり、決して権威があり、優位にあるのではなく、かえって苦難を背負うという立場である。それでもややわかりにくいが、要するに、共同体の内部において、深刻な対立、あるいは違反者に対して多くの者がいわばリンチ的に罰してしまうという行為、その他もろもろの困難が起こっても、対話がなされ、あるいはそれなりの罰を受けたのちには、「互いに赦しあう」ことが最も大事なことだということ。
 なぜなら、もしそれができないなら本当に危険なことになるからだ。パウロは続ける。「私たちがそうするのは、サタンにつけ込まれないようにするためです。サタンのやり口は心得ているからです」(11節)。彼はサタンのやり口を心得ているという。サタンは人々の怒りや憎しみにつけ込み、人々を感情のとりこにしていくだろう。やがてその巨大なエネルギーによって、共同体を破壊するであろう。
 パウロはそれゆえ、「悲しみ」を強調したのである。共同体を破壊する力は外部からくることもあるが、その多くは内側から起こっている。その力は怒りと憎しみである。それを引き起こす原因は多様であるが、それを放置し、その為すがままであれば結果は同じ。すなわち、破壊や殺戮、排除や差別である。これをパウロは、サタンにつけ込まれると象徴的に表現した。すでに新約の時代にサタンは人格化されていたが、実際には、これは人々を対立させ、破壊や殺戮、排除や差別へと導く力のことだ。
 パウロはこの力の及ぼす領域の広さを知り抜いていたように見える。それはもちろん、イエス自身がそうであったことによるかもしれないが、私は彼自身がその力に翻弄されていたからこそ、そのことの恐ろしさを知り抜いていたのだと思う。いうまでも、私は彼自身が、キリスト教の迫害者だったことを念頭に置いている。彼はステパノ殺害に賛成、原始キリスト教を迫害していた。この深刻な経験を、やがて反省的とらえなおし、彼は「悲しみ」と「愛」と「赦し」の人間に変わった。その転換の局面に十字架のイエス・キリストが存在したのは言うまでもない。パウロもまた、怒りと憎しみの人間だったのだ。
 私たちは、家族、地域、国家といった多様な共同体に重層的に生きている。それらは人間的な思惑によって今、激しく翻弄されている。伝統的な共同体は壊れて久しい、しかし、それに代わるものは見えないし、それどころか、グローバル化の終わりに近づいた今、独りよがりな力、憎しみや怒りに根差す「サタンの力」に覆われ始めている。
 その中にあって、私たちはこのパウロの悲しみに基づいた手紙を読んでいるが、この手紙のメッセージをその真意において受け取るとき、教会という共同体はこの世界の要になっていくと思う。もちろん、教会自体がかえってサタンの力の源泉になってしまったこともあるし、今だってその可能性は大きい。しかし、イエスの十字架とパウロの悲しみを深く思い知るとき、私たちの共同体は、やはり本当の赦しと愛に基づく喜びの共同体となるのである。その共同体こそが、この世の様々な共同体の、いわば「鏡」となるのである。それゆえ、私たちの教会の使命は、相変わらず、重い。そして、それゆえに、わたしたちは、誇りをもって歩むことができるのである。