日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2017年11月5日
「復活という希望」ダニエル書12章1~4節
 私は旧約聖書の勉強を続けておりますが、この書には宗教や政治、人生論について書かれている。しかし、それ以上に重要なことはこの書が自分たち(イスラエルの民)の来し方行く末、つまり、歴史と将来展望を核心に据えているということだ。ところで彼らは現実を生きるうえで、まず、過去に問いただしたといえると思う。しかし、過去は永遠にさかのぼることはできない。それどころか、もし永遠にさかのぼることができるなら、今を生きる指針を見極めることも永遠にできなくなる。このジレンマを逃れるには、過去は有限であることにすればよい。そしてその出発点にこそ、今を生きぬくための根本的な方法が結局隠されているのだ、と考えることにしたのです。それが天地を創造する神という話なのであり、その後のアダムとエバの話である。天地創造の神は、起源を明確化するための方便でもある。それゆえ、そこには後のイスラエルの歴史全体を規定する絶対的な「法」が書き込まれることになったのです。それは1、天地創造に先立って「光」つまり神の栄光がある。2、自然界のあらゆるものは天体も含め、神の被造物であるにすぎない、3、人間は神の形、4、安息日、5、人間は知識をもち、権力を持つ、6、神は創造を止めた、あとは再生産の形にした。それゆえ個々の存在は死すべきものである、ということ。これらを基本として、すべての現実を理解するといってよい。
 確認しておきますが、この創世記11章までの物語は、イスラエルの過去と現実、そして将来展望を可能にするためのいわば公理のようなものです。先に「法」と書きいたが、正確には公理と言うべきものである。
 さて、この公理としての創世記の原初史において理想とみなされるのは、エデンの園での暮らしである。しかしそれは知識を持ったことによって、終わりを告げた。そして人間は大地の奴隷となった。それは農耕社会とそれを支配する軍事的権力の存在を想起させる。つまり、世界は神と奴隷のようなものに分化していく。神は支配者としてイメージされているが、同時に「親」でもある。だから、神は人間に配慮し続けることにした。これが旧約聖書の神の理解です。神は天地創造して終わりというのでなく、その後も人間に働きかけ続けていくということです。イスラエルの歴史は、神とイスラエルの関係が常に続いているということを前提に進んでいると考えることに基づいている。
 私たちの文化では、神との絶えざる関係を前提として生きるという感覚はもはやない。もちろんいわゆる多神教的世界であるから、習慣的に様々な儀礼を通じて神々の世界とかかわっているふりをしているが、それは関係をしないために行っているのである。神々と関係するのは、要するに災いの降りかかりと同じだからだ。だから、敬遠するために儀礼をおこなう。要するに、神々とかかわりを持たないこと、持ったとしてもそれは遠ざけるためである。だから、日常に神々は入ってこないほうが良い。日本において世俗化がすすんだのは、もともと神々との関わり自体を遠ざけていたからなのだ。しかし、いまや神々を遠ざけるという意識自体がなくなった。これまでは慣習とか習俗となっているにせよ、神々をイメージすることができたし、神なんていないと思ったとしても、その言説の前提には神がなんであるかを知っているということがあった。しかしいまや、神と言う言葉からは喚起される内容がないのではないかと思う。したがって、祭りはただわけもなく喜んで騒ぐ時にすぎない(学校で教えていると実際にそういうコメントが学生からは多い)。
 多神教的世界はもともと神とかかわることを恐れているのだが、しかし、それゆえに手なずけ、敬遠するための技法としての祭りが盛んではあった。しかし、多神教の前提となる自然的世界の多様性や神秘性はほとんど剥奪されてしまったので、事実上、神々は無くなったに等しい。世界は均質化され、すべて平らになり、明るくなった。それは人間にとって実にらくちんな世界になったように見える。
 このような世界は歴史の終わりとしてイメージされることがある。つまり、将来を展望する必要がなくなったということ。それゆえ、日常を反復するだけになる。そしてそれは実際結構なことではないか。ありふれた日々をつつがなくいきること、目的など持たず、日々をありのままに生きること。日々是好日という達観した境地にと止まることはよいことだ。これはコヘレトの言葉に近づいていく。
 しかし、このような夢想はもちろん、真の現実によって即、破壊されていく。平らになっていく世界は、一部の人の力によってなされたのであり、鳥瞰できる人間にとっては平らに見えるが、地上に張り付いている人々は結局手も足も出ない、と言う意味で外見上のっぺりとして、平らに見えるが、その中身は深刻な抑圧や貧困、あるいは寂寥感と倦怠感にまみれている。その発露が、テロやネット上の罵詈雑言であるのは確かだ。人間は、平らにされ、均質化され、つまりは家畜化されることに、耐えることができないといえばわかりやすいだろう。
 さて、冒頭に述べたように、イスラエルの思想は、旧約聖書の創世記の初めの部分にある基本的な姿勢、公理のようなものに基づいているが、ここに欠けているものがあった。それが「復活」という考え方、あるいは信念である。
 イスラエルの思想は、実は古代帝国の支配の中でどのように生き延びるかという問題に対する回答である。多くの地域の文化は古代帝国の力による支配によって、ほとんど均されたといってよい。しかし、その中でほとんど唯一、それに抗して生き延びた文化がイスラエルの思想であった。それは単にただ心の中で考えていたということではなく、それを実践したということだ。聖書という巻物をつくり、そこに書かれた思想を血肉として生き、祭りを行って共同体を維持し、厳格な法律をつくり、それに忠実に従うことによって、自分たちを異形の集団となし、変り者として認知させた結果、均質化されていく世界において、唯一凸凹の部分となっていった。そしてその凸凹の思想の終着点として、復活信仰を組み込んだといえるだろう。それが今日のダニエル書の箇所である。
 ダニエル書は旧約聖書中、復活信仰をあからさまにしている唯一の箇所である。一般的にはこの箇所は紀元前160年ころのヘレニズム帝国であるセレウコス朝シリアの強権的支配と関係づけられている。ユダヤ教の凸凹を理解する意思のないアンティオコス4世は、彼らをヘレニズムの宗教性によって均そうとしたのであった。これに対してマカバイ家の勇士たちを先頭に戦争が始まった。ダニエル書はその時代の人々のうち、こうした暴力的な対抗とは一線を画する人々であった。彼らはおそらく、非常に空想的な信念を抱いた。イスラエルの神自体が次第に無力化されていく時代にあるなか、つまりギリシア的な合理的で明るい、しかし同時に権力的で横暴でもあるこの世の支配をどのように生きぬき、未来に向けて自分たちの凸凹を伝えていくのかを考えたとき、かれらは起源に戻るのではなく、新たな創造ともいえる「復活」という考え方に至ったのだろう。同時に、無力化されている神にたいして、その支配を代行する「神の子」としてメシア(油注がれた者)を前景化し、そのメシアによる地上世界の支配という姿を構想したのだ。そしてそのメシアの働きを信じる者はこの苦難の時を堪えて生き延びるべきである。無造作に命を捨てるのではない。神の子の介入する時を待つのである。このような全く独りよがりに見える思想が、かえって後のユダヤ教と、そこから生じたキリスト教を支えることになったのである。
 このような復活信仰が一体今の時代に意味を持つのかが問われなければならない。私は、かえって今こそ、この信仰をしっかりと持つべきであると感じている。それは先に述べたように、この世界の均質化と没個性化、そして動物化とさえいえる文明的段階において、再び「人間」となる、というか、この世界で生きることの限界、あるいは危機を意識して生きることが求められているからだ。
 他方、それとは別の観点から、この復活信仰を解釈すべきとも感じている。ユダヤ教もギリシアの思想も基本的に霊魂の永遠を認めている。これは復活とは違い、体を持たない魂の永続性と言うことである。これは実に素朴なことであり、人間の死という限界を突破する信仰概念である。これは死んでも魂は肉体を離れ、しかるべき場所に存在し続けるという信念である。その信念によって、私たちは自分たちが不在となった世界を想起しながら生きることができる。つまり死後の世界から、この世を見守ることが可能になる。そのことは同時にこの世界に対する責任を果たすべきであることの根拠ともなる気がする。つまり肉体は死んでも魂はこの世を見続けているのだ、ということである。
 このような素朴な魂の永続性という信仰は、当然いたるところにある。そしてこれが人間の一番の底の部分に置かれている気がしている。私たちはその信念によって、自分の死、自分の親しい人の死を慰めることができるのである。
 このことを基本としつつも、ユダヤ教はそこにとどまらなかった。彼らは「復活」すなわち失われた尊厳が回復されること、つまり世の中の罪によって壊された人々の完全な回復を神に託したのである。そして、苦難にあえいだ、自由を失った、あるいは排除され、抑圧された人々が、やがて立ち上がり、神の前において義とされる、つまり復権するという希望を加えたのである。このことがユダヤ教とキリスト教の強さの源である。
 日々の生活において復活信仰は必要とされない。せいぜい魂の不死と言う程度で十分である。しかし、一人の人間がこの人生を真に自由に生きることを望むとき、そしてそれが困難であると気づいたとき、そしてその困難を乗り越えていこうというとき、復活信仰は必要とされる。
なるほど、復活とは原則として希望にとどまるかもしれない。しかし、キリスト教はそれをリアルな現実とみなした。単なる空想でなく、イエスが復活したという「完了」のことばで、つまり実現しているとみなした。それゆえ、あまりの愚かさに多くの人々は馬鹿にしたのである。しかし、単なる希望ではなく、完了した、あるいは始まったという確信ほど強力なものはない。だからこそ、民衆的レベルでは異様なほどの「ありがたいこと」とみなされた。(もちろん復活より、本当は罪の赦しこそが先にあるのだが、これについては今は触れずにおこう。)
 もやはこのような信仰告白がまともに受容される時代は終わったが、これはしかし、無意味な言説ではない。それどころか、新しい創造と呼ぶべき事柄である。それでも、このような信仰は、力をなくしていくかもしれない。当然だが、人生が真に自由であり、十全なものとなったとき、その人はもはや完成したのであるから、復活も希望する必要がない。しかし、実は一人の人間が完成したように見えても、それは創造された世界の一部に過ぎない。それゆえあらゆる人間の自由と完成という究極の幻を想像する限りにおいて、復活信仰は終わることがない。
 私たちは召天者記念礼拝として故人、先達の人生を想起するが、それにとどまらず、キリスト者として生きた人々の信仰そのものに思いを致すとき、彼らが復活信仰をもってこの世を生き、自分とこの世の自由と完成を希望したことに思い至る。その時に、私たちも「復活」を真剣に受け止めることができるように思う。そして、この時において、「復活」つまり、自分たちの「立ち上がり」への勇気を獲得することができるように思う。それゆえ、年に一度であるが、彼らを前にして、私たちは「復活し完成したすがた」で、つまり義とされ、赦されたすがたで再びともに出会うことを真に望むことができるのである。そして今日の日の経験によって、新たに自分が立て直されて、明日を生きていくことができると思うのである。