日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2017年11月12日
「世の中は大きく変わるもの」マルコによる福音書13章4~23節
 10月22日の選挙は一体何だったのか。結局、民主党が分解しただけで、与党の三分の二は変わらない。予想されていた通りであった。この間、東京都知事の小池百合子氏が希望の党をつくり、一波乱起きそうなったが、それはあっという間にしぼんでしまった。選挙は祭りである。だからメディアは選挙特番を組み、大騒ぎしていた。そしてなんだかんだ言いながらも自分も一部乗せられたような気もする。
 祭りとは、一時の憂さ晴らしである。すくなくとも、日本ではそうである。そして選挙が祭りであるなら、それも憂さ晴らしである。だから、一週間もすると、なんだか落ち着いてしまう。要するに、憂さ晴らしが行われ、また日常を生きていくことができる。
 しかし、本当にそれでよいのだろうか。民主主義の実現は、この祭りの実現に矮小化されてしまっていいのだろうか。そして、この結果に、全て委ねてしまってよいのだろうか。とうぜん、よろしくない。民主主義とは、選挙のことではなく、人々がデモをおこない、あるいは教会が社会に向かって声を上げ、あるいは公務員が自由に政治的意見を言え、人々が年齢や性別にかかわりなく、いつでも意思表示できることを意味する。選挙が大きな政治的意義をもつのは当然だが、裁判所や行政機構にむかって、あるいはそれらを通して異議や意見を申し立て、その努力によって、具体的に社会を動かすことのほうが、私は重要だと思う。選挙して、あとは議員、特に与党の議員にお任せしてしまう、あるいは白紙委任してしまうことであってはならない。それゆえ、今度の選挙結果は、「後の祭り」として何となく忘れ去られてしまってはならないし、どうしようもないことだと投げてもいけない。むしろ、この事態を新しい始まりとして、本気でそれに立ち向かう必要がある。今回の結果から予想される今後の課題は言うまでもなく憲法の改正であろう。私たちは戦後民主主義と呼ばれる長い平和の時代を享受してきた。しかし、戦後70年余を経て、戦後民主主義の限界にぶちあたっている。平和ボケ、アメリカの核の傘、中国の台頭、北朝鮮の脅威などいろいろと課題、難題に直面している。そして戦争を遠い過去としてしか感じることのできない世代が、社会の中枢を占めるに至って、20世紀前半の戦争の悲惨をほとんど想像の外において、国家の力の増強、すなわち軍事力の増強を是認していく。
 最近、元伊藤忠商事の社長で、その後中国大使を務めたことで知られる代表的な経済人である丹羽宇一郎氏が『戦争の大問題』(東洋経済新報社2017年)を著したが、彼は日本国民が歴史に学ぶことをしない、させられなかったことを非常に忸怩たることであると述べている。そのため、彼は戦争を知っている人たちのインタビューを重ねた。もちろん、このような課題はとっくの昔からいわゆる左翼の人々、学生運動を担った人々、そして市民運動を担ってきた人々によって担われ、多くの書物が記されてきた。そしてそうした蓄積が少なくとも20世紀末までは共有されていたと思われる。しかし、その後日本が深刻な不況期になり、世紀が変わってもその余波のうちにあり、漠然とした経済大国としての自信のようなものは失われ、中国の後塵を拝する時代になった。それはあっという間の出来事である。そのような期間を経て、余裕が失われると同時に、次第に国家が内向きとなり、しかも国家内部での分断、いわゆる格差が広がり、戦後の豊かさと民主主義的理想のようなものが多くの人々にとってどこか間違っており、絵空事のようなものではなかったか、との漠たる思いが沸き起こってきた。それはもちろん、ある勢力によって喧伝されたものであるが、しかし、日本国家が弱体である、経済的にも軍事的にもそうである、というイメージは確かに一般化した。そして、すでに戦争を知らない人々(つまり私の世代)が国家や社会の中枢を担う時代になって、このイメージを前提に、将来をどうするかという課題に取り組むようになった。その結果、非常に幼稚なナショナリズムに陥った。幼稚と言ったのは、それがヘイトスピーチに見られるような排外主義と差別主義に基づくものであるからだ。
 このような時代に、いわば最後の戦争世代ともいうべき、そして日本の20世紀最後の四半世紀を代表するような経済人が、日本の戦争の時代を痛切に回顧し、批判する文書を出したことは意味がある。もちろん、今頃になんだ、と言う言い方もできる。彼らこそが、この現在の日本の体制を担った側であり、その中枢にあったのだから。しかし、丹羽宇一郎氏の経歴を見ると、あのバブル崩壊後の伊藤忠を立て直したことがその嚆矢と言えるのである。つまり、彼は戦後日本の経済の最も深刻な問題に立ち向かったということだ。その問題の根っこには、結局戦前のまま変わらない日本のシステムがあったのであり、それゆえ彼は戦後の問題に潜む戦前の日本の問題を考えなければならなかったのだろう。そして、21世紀の幼稚な国家主義に対して、戦争の問題を真に自分たちの(ご自身の)問題として前景化しなければ、たいへんなことになるという危機感を持ったのであろう。この書は明らかに彼の遺言である。
 さて、歴史というのは何か教科書で習う昔の政治史とみなされている。それは単なる情報であり、自分と関係がないようにも思える。しかし、歴史とは自分を形作っているものであり、それなくしては今の私がないという言い方もできる。つまり、歴史を知らなければ結局自分がなんであるかもわからない。それゆえ、国家は国民に対して歴史教育を徹底する。そして一人の私人が国民であることを認識させるのである。そして民衆の側も、自分が「国民」であり、日本史の一部をなす意味ある人間であることを理解する。こうして一人の私人は国家の一員としての、そして悠久なる日本の歴史の一部であるという満足しうる意味付けを得ていく。このことを厳格に行ったのは明治政府であった。岩倉具視、伊藤博文など、明治維新を担った者たちは1889年には大日本帝国憲法を公布し、日本を近代国家として内外に打ち出したが、同時に天皇を神とする宗教国家として側面を強固なものとした。それは憲法からは独立した、しかも憲法よりも本質的に国民支配を実質的なものとする、天皇自身の言葉、つまり国家国民の最高神である天皇の勅語としてすべての国民に下賜されたありがたい訓示、すなわち「教育勅語」である(1890年発布)。これを教育(特に初等教育)に厳しく押し付けることで、中身よりも形式に絶対服従するというメンタリティを作り出した。そして、一切の批判を許さない、極めて強固な支配、ファシズムの素地をつくった。
 しかし、明治中期から末にはすでに多くのキリスト教の教会や学校も存在した。その中で、こうした精神支配、というか服従の強制にたいして、内村の「不敬事件」をはじめ、北陸学院その他でもそうした支配に対する違和感も当然表明されている(その程度ともいえる)。しかし、キリスト教の普及は、そうした国家主義に対するあからさまな批判勢力となったかと言うと、実際そうではない。なるほど、キリスト教は、一般に佐幕派とよばれる旧徳川方の武士たちの入信が多く、彼らは明治政府に批判的な立場をキリスト教という衣をまとうことで示せたように見えるが、外国宣教師たちは、単に日本全体のキリスト教化を目的としていたので、おそらく彼らのようなルサンチマンとは関係なく、日本の上層階級をキリスト教化することによって、幅広くキリスト教を伝えたのである。開明的な人々、特に地方の名士や地主たちが西欧文明の先端としてのキリスト教を受容していく。そして、女子教育にとりわけ力を注いだのである。だから、明治のキリスト教は当然、全体としては体制的であるほかはない。そうでなければ、政府との軋轢が大きすぎるからだ。
 しかし、それにもかかわらず、やはりキリスト教は力があった。それは歴史のとらえ方の違いによると思われる。先に述べたように、歴史は国民一人一人を形成する、したがって国民は国家の歴史の一部である。しかしながら、歴史とはキリスト教においては国家や民族の歴史ではなく、神の支配の歴史なのであった。それは地上の歴史、それぞれの国家や民族、それより小さな部族や氏族の歴史といったものではない。キリスト教が考える歴史とは、地上の歴史を超えた神の支配の歴史である。言い換えると、肉の歴史に対して霊の歴史である。物質的歴史ではなく、精神の歴史である。したがって、キリスト者は、肉の歴史としての日本国家の歴史に属し、それによって自分を形成されているが、同時に精神の歴史において神の支配を前提としているのである。そして、後者が前者の前提とされるとき、国家の歴史は相対化され、批判的応答の対象となるだろう。
 こうして、キリスト教はその本質において、日本国家において批判的勢力になる契機を持っているのであった。しかしこのような契機はとうぜんながら、キリスト教の始まりにおいて存在したのである。それは旧約聖書から新約聖書まで、通底している。そのような契機、あるいは見方、は今日のテキストにも反映されている。
 今日の箇所は実は、イエスの時代よりも後の時代を反映したものと見られる。「憎むべき破壊者」への言及は、イエスの時代よりも、40年後のユダヤ戦争時のユダヤ総督ティトス(後に皇帝となる)を想起させる。この戦争において、ユダヤ軍は深刻な敗北を喫し、エルサレムは破壊され、ユダヤ人はエルサレムに入ることさえ禁じられたのであった。
 このような深刻な時代にキリスト教、特にマルコの共同体はこのようなテキストを残した。著者は現実の歴史をもう一つ別の歴史、神の支配の歴史からとらえている。だからこそ、この津波のような攻撃に対して、ひたすら退避するよう促す。これは地上の歴史の物語に巻き込まれないためである。そしてメシアを、すなわちユダヤをローマから解放する戦争のメシアに期する人々、軍事的指導者を喧伝する人々に惑わされないよう促している。この著者にとって、このようなメシアは地上の歴史に巻き込まれている偽のメシアであって、それに従うことは結局命を失うことになるということだ。
 一方で著者(もちろんここではイエス自身とされているのだが)は、自分たちが「選ばれた人々」であるという確信を抱いている。この確信がなければ、結局地上の歴史に巻き込まれていくほかはないのである。イエスの時代から使徒の時代はキリスト教が大きな試練に遭遇したのは当然であるが、これはその時代の大きな変貌、自分たちの精神的故郷が再びなくなっていくというきわめて深刻な経験も含まれている。しかし、この新しい共同体は、そうした地上の歴史、肉の歴史とは別の支配を確信していたのであった。それゆえに、多くの人々が巻き込まれ、その命を失っていく中にあって、未来へと命をつなぐことができたのだと思う。このような歴史理解はもちろん、旧約聖書の時代から連綿と続いているが、当時のユダヤ教の大勢は、肉の歴史と神の歴史を混同したのかもしれない。
 さて、最後に私たちの時代に戻ろう。この20年で日本も世界もあっという間に変わってしまった。いや、昭和一桁の人々から見たら世界はまるで変わってしまった。肉の歴史、物質の歴史はあまりに大きく変貌する。そして多くの人はそれがすべてであると思い、それに翻弄されていく。しかし、聖書は創造の主、ヤハウェなる神の支配を前提にしている。そしてあらゆる地上の歴史の出来事を支える神の歴史支配という別の視点を堅持する。その視点を根底に据えながら、私たちキリストに連なる者たちは、このナショナリズムが蔓延し、閉じていく社会、憲法がずさんに改正されようとする時代にあって、その危険を察知し、それとは別の歴史を想像することがなされなければならない。そして、まさかと思うことが起こってもなお、それとは違う世界を展望する精神の力を持ち続けるべきである。わたしは今そのように考えている。