日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

HOME  砧教会について  牧師紹介  集会案内  説教集  アクセス


砧教会説教2017年11月19日
「わたしたちの歩みがキリストを伝えている」コリントの信徒への手紙Ⅱ 2章14節~3章6節
 わたしたちの行動は常に何らかの目的を持っている。朝起きる、食事をする、仕事に行く、夜には寝る。朝起きるのは、その日の活動を始めるため、食事は活動のエネルギーを蓄えるため、仕事に行くのは報酬を得て明日以降の暮らしを支えるため、寝るのは、疲れを取り、翌日に備えるためであろう。行動することには目的が前提されている。
 しかし、目的を持たない行動もある。プラトンはそれを歩行と舞踏になぞらえた。歩行は絶えず目的地に向かう。つまり着いた先に何かなすべきこと、あるいは価値あるものがある。しかし、舞踏はそれをやり終わった先には何もない。舞踏という行動の先には目的がない。かえって舞踏はそれ自体が目的となっているのである。
 では舞踏それ自体が目的であるとはどういうことなのだろうか。おそらくこういうことではないだろうか。舞踏とはそれを演じる人の目的であり、それを見る人の目的である。これと似ているのは音楽であろう。一般に時間芸術といわれるが、こうした芸術は演じられる時間こそがすべてであり、残るのは余韻だけだ。目的とは終わりという意味である。芸術はそれ自体が目的であるなら、それは終わりである。つまり完成である。このような構造はなにかを示唆している。誰でもそうと思うが、私は優れた芸術に触れるとき、生きていることの充溢を経験する。すなわち、感極まるとき私たちは涙を流すのである。
 芸術による充溢、あるいは歓喜の涙はおそらく、永遠というもの一面に触れたことの感激であろうと思う。つまり、時間の中にありつつも、その時間を超えた最も高貴なもの、最も美しいものに触れたのである。
 私たちは目的をもって生きているのだと言ったりするが、生きていった先に何があるのだろうか。一人の人間が生きていくことを歩行の比喩で語るなら、生きていくことの目的は死である。私たち一人一人は死にゆく存在である。それは無に帰る、土にかえる、天に帰るなどと表現するが、要するに生き物としての姿をおえるということだ。そこには何かなすべきこと、価値あることが待っているとは思えない。しかし、生きるということは死を目的としているのではない。生きるということは、生きること自体を目的としているのである。生きるということは実は舞踏と同じであると言ってよいのではないだろうか。
 したがって、朝起きること、食事をすること、仕事をすることはそれぞれ生きることを目的としているのであるが、その生きることの目的は、死ではなく、生きること自体である。だから、生きている一人一人の命(いや、動植物も含めよう)は、いかなるものであれ、かけがえなく、大切なのである。
 しかし、それでも、生きているということは常にその死という限界と表裏をなしている。だから、死を終わり、つまり目的(行くべきところ)と勘違いすることが起こってしまう。したがって、どうせ生きても死ぬだけだ、だからまじめに生きても、泥棒して生きても、同じであるというような人生理解も出てくる。しかし、死とは単に限界であり、それは土俵の俵のようなものであり、それを踏み越したらご破算というだけに過ぎない。相撲も、土俵で相撲を取っている時がすべてなのである。もし相撲に土俵もなく俵もなければただ永遠に疲れるだけで、何の感動も生まれないだろう。すなわち、死という限界は私たちにかえって感動を与えるのである、いや正確に言えば、永遠の何かに触れる機会を与えるのである。
 したがって、かつての中世の神学者は死を思え(メメント モリ)といったが、それは結局生きることにおいて神をとらえよ、あるいは神を垣間見よと言っているに等しい。だから、生まれて間もなく命を終えた者も、若くして命をなくした者も、その者が精いっぱい生きたという事実において、あるいは周囲の者たちがそのように感じ取れたなら、それは一つの完成を見ているのであると解釈しうるのである。他方、長い人生であっても、それが舞踏や相撲のように理解されていないなら、それは意味を失った時間であるにすぎない。
 これは以前も話したかもしれないが、私が山梨の短大で教えていた時の、チャペルセンターで学生活動をしていた一人の学生との会話を忘れることができない。ある時、彼女は交通事故を起こした(車通学が結構多かったので時々あった)。たいした事故ではなかったが、多少相手ともめているというので、話も聞いた。その時、何気なくわたしは、交通事故で無くなるのは悲惨だ、地震など自然災害なら仕方がないが、というようなことを言ったところ、彼女はきっぱりと、「私はそんなのはごめんです。交通事故で死ぬというは、少なくとも人間として活動していたのであり、仮に巻き込まれたのであるとしても、人間とのかかわりの中で生きたということなのだから、私はそれでもよしとする」という趣旨のことを述べたのである。彼女はあの時すでに、生きることそのものが目的であることを私などよりはるかによくわかっていたのであった。わたしはその時からその学生を自分の「師」とすることにした。ちなみに、もう立派な母親になっている。
 人生に意味を与えるのは人間と関わることだという視点は当然といえば当然だが、そうしたかかわりには当然負の部分もあるに違いない。それでも、そのかかわりにおいてしか人生は人生にならないというのは確かなことであろう。
 さて、今日のパウロの言葉は、キリスト者としての人生とは何かを語る。14節の「神に感謝します。神はわたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」という言葉がすべてである。私たちキリスト教徒は、その一人一人の行動が「キリストの知識の香りを漂わせている」というのである。私たちの人生という舞踏のすべてがそうだとは言えないかもしれないが(そして私などほんのわずかに過ぎないが)、キリスト教徒はそのような香りを漂わせていることによって、自分の人生をはっきりと意味あるものに変えているのである。それゆえ、その人生は充溢している。豊かなのである。そしてその豊かさは、実に永遠なるものに触れているという意味で、優れた芸術と同じであるといってもよい(もちろんややほめすぎだが)。
 さてその香りとは何だろうか、これは比喩なのでそこを明らかにしておかなくてはならない。それがその先である。15-16節ではかなり厳しいことも言う。「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです」。イエス・キリストの十字架の贖いを信じ、悔い改め、同時に神によって義なる者とされ、赦された者は、すでに永遠の命を約束されている。その生きている姿が、いわば香りとなる。これはおそらく、古からのなだめの香りとしてささげられた燔祭の香りではなく、永遠のメシアとなったキリストに注がれた、あの香油、ナルドの香油のかぐわしさを暗示する。そしてその香りは、しかし、人々を分けてしまう。この点が厳しい点である。ナルドの香油はメシアとなることを示すと同時に、イエスの葬りをも暗示した。したがって、この香りはイエスを信じた者にとっては「命から命に至らせる香り」、永遠の命だが、イエスを認めることのなかった人々にとっては滅びを暗示するのである。すなわち「死から死に至らせる香り」、永遠の死に導く香りである。キリスト者はそうした基準、あるいは境目、いや灯(ともしび)、世の光なのである。だから、神の言葉を売り物にするのではなく、つまり職業的宗教家のようなものとして語るのではなく、あるいは、律法をしっかり学んだうえで、立派に語るというのでもなく、ただ、信仰に基づいて神の言葉を語るだけで十分なのである(17節)。
 これに続けてパウロは問いを語る。そのような働き手として、誰かをわざわざ推薦すべきなのかと。つまりパウロは立派だから、あるいはコリントの人々は立派だから、などと推薦する必要があるのだろうか、と。しかし、そんな必要はない、とパウロは自ら答えている。どうしてそう言えるのか?
 この答えが素晴らしい。パウロはこう言う。「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」と。
 これはかつて預言者エレミヤが預言したことであった。すなわち
「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミヤ書31章31-34節)。
すでに律法は外にあるのではなく、心のうちに刻まれたのである。だからわたしたちは外から、教師から、親から、あるいは牧師から、何らかの決まりを示されてそれに従うことによって正しい者とされる依存的な生き方を乗り越え、誰に言われるともなく、すでに神の心を、神の思いに基づいて主体的に生きているのである。
 パウロは「わたしたちはキリストによってこのような確信を神の前で抱いています」という。もちろん、それは独りよがりであってはならないし、またそうなるはずもない。なぜなら、「キリストによって」そのような私たちになったのだから。そして次のように締めくくる。
「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」
わたしたちを生かすのは、律法という文字に書かれたものではなく、私たちの心に注がれたキリストの霊(聖霊)であるということだ。
 要するに、私たち自身が日々生きているその振舞いの一コマ一コマは、キリストを伝えている舞踏のようなものなのである。やや大げさだが、私たちの日々の営みがすでにキリストを伝えているのである。それゆえ、私たち一人一人のキリスト者はすでに伝道者でもあるということだ。
 プロテスタント教会はそのことにあらためて注目したのであった。しかし、それはすでに神自身があの「シナイ山」でモーセに語ったことだった。すなわち
「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」
わたしたちは日々、その生きざまを通じて、キリストを宣べ伝えている。私たちはすでに永遠なるものにつながっているからである。