日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2017年11月26日
「古い「わたし」から自由になっていく」コリントの信徒への手紙Ⅱ 3章7節~4章6節
 パウロの手紙は全体として、ユダヤ教から改宗してキリスト者になった人々に向けられている。したがって、今日の箇所もいきなり読んでわかるというたぐいのものではない。もちろん、印象的な部分を切り取って、寓意的に解釈し、自分たちへのメッセージとして利用することもできる。しかし、それではパウロの真意を理解することにはならない。
 しかし、その時代のユダヤ教徒に向けられた言葉だとしたら、それを私たちが理解したところでどれほどの意味があるのだろうか、という疑問も浮かぶ。これに対して私が思うことは、パウロの時代のユダヤ教徒向けに語った言葉もまた、それを丁寧に紐解けば、実は私たちに向けて語っているものでもある、ということだ。つまり、非常に特殊な対象について語りながら、同時にそれは普遍的でもあると思うのである。
 今日の箇所の前半で、パウロはモーセの栄光についていろいろと語っている。これはそのまま読んでもよくわからない。すでにこの前の段落で、「文字」と「霊」を対峙させていたが、これは単に律法と信仰を対照させているというのではなく、文字に書かれた規則やマニュアルを絶対的な基準とみなして硬直化していく人々に対して、自分の内側に誠実さや愛を身に着けて自由に、主体的に行動する人々を対照させているのであると思う。つまり、ユダヤ教徒とキリスト教徒を対照的に提示しているというより、もっと一般的に理解してよい文言であると思われる。
 さて、テキストを見てみよう。パウロはモーセの顔の輝きについてくどいほど語っている。これは出エジプト記34章29節以下の一見奇妙な挿話に基づいている。モーセがシナイ山に上っている最中に民は金の子牛をつくって偶像崇拝を始めたことに対し、山から戻ったモーセが怒って最初の石の板を破壊してしまったのだが、その後厳しい粛清が行われ、そのうえで再びシナイ山に登って新しい石の板に(おそらく別の)戒めを刻んだという(34章10-28節)。その後山から下ったモーセの顔が、民が近づけないほどに輝いていたというのである。これは二度目の十戒(のようなもの)を頂いたモーセを極めて高く評価し、彼自身を神の栄光を体現する者として描いている。神と面と向かって対話しうるモーセはその栄光を反映するということだ。
 このような伝承に対してパウロは、このモーセの栄光を「つかの間のもの」と呼んで、二次的であり、格下の力に過ぎないとみる。この輝きは、「霊に仕える務め」の栄光に比べれば取るに足らないのだと宣言する。モーセの栄光はあくまで律法(掟や命令)の力に基づくが、これは結局人々を罪に定める務めを最高の価値としているだけである。これに対して、「人を義とする務め」はさらに栄光を与えられるのだという。つまり、人間を外から縛る力よりも、つまり、罰によって人間を矯正する力より、内在的な自己変革、自己否定、自己を神の霊にみたされることの力に価値を置いたということである。
 この顔の輝きに対して、民はモーセに顔を覆ってもらうことによってそのまぶしさ、すなわち神の恐ろしさを防いだのだというが、パウロはそのような覆いによって隠されているものを受け止めることなく、ただ文字に記された掟を受けいれるだけでは不十分である、それどころか、その覆いを取って、一人一人が神の栄光を反射すること、つまり一人一人が神と向き合うこと、正確には神の霊に直接満たされることによって自由になるという。
 このことはヨハネによる福音書における「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ伝8章32節)という誤解されやすい言葉の本来的な意味を明らかにしている。つまり、真理(アレーテイア)とは「覆いを取ること」を意味するが、ユダヤ教の文脈でいえばモーセの顔の覆いを取って、直接に神の栄光を民が反射することによって、それぞれが自由になることなのである。モーセを媒介せずに、直接神とかかわるということでもある。これはユダヤ教の文脈ではあまりに恐れ多いことだ。このことについて、やはりヨハネ伝で、ニコデモとイエスとの対話の中で述べられている。すなわち「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それどこからきてどこへ行くのか知らない。霊から生まれた者もその通りである」(ヨハ3章8節)。風すなわち神の霊はそれに満たされたものを自由にするということだ。しかし、石の板の文字に生きている者には、その来し方行く末はわからないと、憐れみつつもきっぱりと宣告したのであった。
 パウロは今日の聖書箇所の前半の締めくくりにおいて、見方を転じている。モーセの顔の覆いは、実は自分たちが自分に被せている覆いであるとしたのである。彼にとってモーセの覆いというのは比喩であって、結局自分自身で自分を見えなくしているようなものだというのである。そして極めて重大なことを語る。すなわち「わたしたちは顔の覆いを取り除かれて、鏡のように主を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます」(3章18節)と。ここでいう「主」とは当然、キリスト・イエスのことである。一人一人がキリストと同じ姿になるとまで彼は言った。パウロは自分たちキリスト者がだれかに、あるいは何事かに、あるいは何らかのモノに従属するのではないということ、私たち自身が復活のキリスト、天に上り神の右に座すとされたキリストの姿になるのだという。これは気宇壮大な、実に神話的な表現、いや黙示録的でさえあるといってよい。
 このようにコリントの人々を元気づけ、なだめすかして、あるいは勇気づけた後で、パウロは自分たちの任務の遂行をあらためて宣言する。すなわち「憐れみを受けた者として、この務めをゆだねられているのですから、落胆しません。かえって、卑劣な行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます」(4章2節)。彼は非常に謙虚になって、コリントの人々の良心に信を置くという。そして、一人一人が本当に自分らしく生きることができることを願っているのだろう。
 しかし、である。3節以下では「滅びの道をたどる人」に言及し始める。これは福音を認めない、あるいは理解しようとしない、あるいは理解できない人を指しているようである。彼らにとっては「福音の覆いがかかっている」ようなものだという。しかもこの覆いは「この世の神」がそのような覆いをかけたのだというのである(4章4節)。パウロはあきらかにキリスト者とそうでない者と分けている。これは教会の外のことを言っているのか、それとも教会内部の分裂を意味しているのか分かりにくいが、おそらく前者であると思う。パウロはこのように言いつつも、そうした人々にしっかりと証ししていくべきであると考えている。5節以下はそのことを示す。つまりそのような人々のために、私たち一人一人の顔の輝きがあるというのである。
 さて、以下私たちにとってこのテキストでのパウロの訴えがどのような意味を持つかを最後に考えたい。パウロは自分の元来の基盤であるファリサイ派的律法主義と決別した。それは外にある規範に倣うという生き方を捨てたということだ。同時に、イエスの出来事を追体験し、さらに観念的にとらえなおすことによって、自分の生き方の転換を行った。彼にとって新たな命はすでに律法を必要としない、神の霊とともにあって、自由な命である。このような自由な命のありかを、私たちはこの時代においてどのようにとらえたらよいだろうか。
 私たちの時代、すべてが文字に置き換えられている。すべてが規則、あるいは手順表(マニュアル)によってどうしたら間違いなく仕事をやれるか、どうしたら無駄なく、かつ得するように生きられるか、にとらわれている。さらにすべてが効率化の名のもとに数値化され、序列化され、客観化されていく。様々な事柄が標準化され、それを基準にすべてを計ろうとする。このような社会に至って、私たちは「主体」として立ち上がることができない。自我さえ拡散していく。多くの人間はせいぜい欲求の束としてあるのみで、その欲求に見合った何かを消費するだけである。多くの言葉やモノが消費され、消えていく。そして人間も軽薄な言葉とモノに変わっていく。ビッグデータは人間の潜在的な欲望、あるいは傾向を明らかにしたが、その活用を誤れば、人間をリモートコントロールできるようになるだろう。そして人間の遺伝子データも読み取られ、その人の人生を予測できるようになりつつある。
すべて文字に置き換えられているというのは、すべてプログラムされているということである。私たちは意識的も無意識的にもそうしたシステムに忠実であるあるほかないのだろうか。そしてあらかじめどうなるかがわかっている人生、あるいはこれしか選択肢がない人生をただ生きるだけなのだろうか。
 そんなことはない。文字に支配され、規則や確率的データに支配される部分はあるとしても、当然絶対ではない。人間はそのような力、自分たちを束縛する力を本質的に嫌う性質がある。これは自由への渇きということだろう。
 パウロは窮屈ではあるが、名誉でもある律法の民として生きてきたが、それは神の前での自分の限界を意識し続けたからであった。しかし、律法を順守するだけでは救いには至らないことを悟ったのである。私たちもまた、このような時代の限界、あるいは本末転倒を真面目にとらえなおさなければならない。キリスト者は、このパウロの比ゆ的語りの真の意味、すなわち神の前での自由を生きることが大事なのである。そのような生き方、鏡としての生き方を、パウロは求めていたのだろう。私たちはそれにこたえる義務があるように思う。