砧教会説教2017年12月3日
「命の光を輝かすために」
コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章6~18節
アドベントを迎え、キリスト教の新しい一年が始まった。神の栄光がキリストを通して確かに輝きを放つことを改めて確かめるときでもある。
さて、アドベントに直接つながるのでもないが、「命の光」を主題に一言お話ししたい。
前回6節まで読んだが、改めて6節から読むことにした。7節からだと、意味が分かりにくいからである。
前回読んだ3章7節以下では、モーセの顔の輝きについて、それが過去のものであることを執拗に語っていたが、4章6節ではキリストの顔の輝きにはっきりと言及する。この輝きは神の栄光であるという。
「闇から光が輝き出でよ」と神が命じたこと、つまり創世記の冒頭の記事に言及し、その光が人間の内にも与えられており、しかもその光が「キリストの御顔に輝く栄光を悟る」ことを可能にするという。創世記をもとに図式的に語っているように見えるが、同時に抽象的であり、意味を取るのが難しい。たぶんこれはギリシア的な思考方法であるように思われる。つまり、物質的である人間には魂があるが、それはイデア、つまり理想の一部を記憶しているとはいえ、魂自体は不完全なままだ。しかし、その魂は完成された世界、イデアの世界を求める力を少なくとも持つ。それがエロースであり、それを動因として、魂は完全なものへと届こうとする。このような思考をパウロも用いているように見える。前提として、私たち一人一人には神の光が与えられているが、それが今までは神の栄光を映すモーセの顔の輝きを恐れるあまり、覆いをかけ、その代わりに律法によって間接的に神を知り、かつ服従したのであった。しかし、そのような覆いとは別に今やキリストが現れた。そして、すでに与えられていた神の光のかけらによってこんどは神の似姿であるキリストの輝きを知ることができたのである。要するに自分の内にあった光が、律法の束縛から自由になり、キリストの栄光に直接あずかることができるようになった。
このキリストの顔の輝く神の栄光を悟る光が「土の器」に、すなわち人間の内にあるということ、これがパウロの出発点である(7節)。ユダヤ教徒にあっては、その内なるに光は覆いがかぶせられており、つまり、直接神の栄光を見ることはかなわなかった。そして文字すなわち律法によって自らを縛ることによって、ただ神に忠実であることを表明することだけが求められた。しかし、真の救いは、やはり直接神の栄光にあずかることであるが、もちろんそれは不可能である。しかし、神の栄光をこの世にあって示して見せたイエスの出来事にあずかること、このことが実は神の栄光にあずかることとなのである。このことはもちろん、パウロの勝手な思い込みともいえるが、このような自由な構想を提示できたのは、彼自身のあの回心に根拠を置いているように見える。
パウロにとって「キリストの御顔に輝く神の栄光」とは最終的には復活のキリストの姿、そして天にあって神の右に座す栄光のキリストであろう。しかし、なぜそれほど「栄光」にあずかりたいのだろうか。彼が救いと理解する神との直接的な関わりの回復をなぜそこまで追い求めるのだろうか。彼自身の個人的な悟りと幸福を求めるなら、こんな回りくどいことを語る必要もないし、そもそも広く人々に向けて宣教活動する必要もない。自分だけで聖書を読み黙想し、あるいはヨルダン川で水を浴び、断食をし、悟ればよいだけではないだろうか。しかしパウロはこの手紙の通り、ひたすら信徒に呼び掛ける。つまり他者にむかって、あるいは共同体全体に向かって語り掛ける。それはなぜか。それは人々が生きているこの世自体が人間の真実を覆い隠していること、そしてそのことに人間自身が気づいていないことに対する愚かさと危うさがまず挙げられるよう。さらに、本来そのことに気付いているはずのユダヤ教徒自身が、文字によって、つまりモーセの律法によって、自らを限定し、拘束し、しかもその外側にいる人々を受け付けずに、自己救済に汲々としているのである。ヘレニズム世界(異教世界)もユダヤの世界(神の民)もともに、つまりすべての人間が、自分のなすべきこと、つまり生きていることの意味と目的を見失っていることに、パウロは真に愕然としていた。しかし、パウロの憂いと嘆きは、じつはイエス自身のそれでもある。パウロ自身も、おそらくイエスと同じように、この世が真の救いを求めていることを感じ取っていたのである。そして、イエス自身が神の子として真の救いを成就するためにすでに来たこと、そして実際に成就したのだと信じたのである。それゆえ、あらためてパウロはその真の救いの完成を延べ伝えるために旅を始めたのであった。とすると、パウロのこの執拗な語り、しかも抽象的な語りの背後には、実はイエスが強く意識していた民衆の具体的な困難に対する彼の強い意識があり、かつそれは地上世界全体の最終的な裁きの到来の確信と重なり合い、同時にそこからの救いと解放が意識されていたに違いない。
他方で、イエスと弟子たちの働きによって広がったキリスト教は、このような救いや解放への強い意識ないし志向のため、かえって深刻な迫害も被った。なぜなら、新しい共同体、神の栄光を真に受け止め、自分たちの罪を深く意識した、平和的共同体をつくって、この世の習いとは別の新たな価値観で生き始めたからである。要するに「世の秩序」とは別な「神の国」の姿を実現し始めたからである。それは当然地上の価値観とは対立する。その対立を超えて生きることは可能だろうか。
それに対する答えが8節以下である。まず8-9節で「 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」と語る。これは単なる主観的言明に過ぎない。これに続けて、どうしてそのような忍耐と希望を持ちうるのかを語る。すなわち「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」(10-11節)と。パウロは、すでに「イエスの死を体にまとっている」というが、これは逆説的である。つまりこの世で迫害され、ある場合には死ぬとしても、それは「イエスの命」が現れるためであるからだ。これは極めて危険な発想でもあるが、要するにキリストの救いにあずかる者はすでにこの世に対して死んでいるのであるから、現実の迫害に遭遇したとしてもそれは逆に自分の「神の国での命」、天にあるイエスの命が実現しているのである。このイエスの命が自分に重なっているなら、当然その人は永遠の命にあずかっていることになる。
パウロにおいて、具体的な一世紀前半の時代のローマ支配の終末論的意味付け、すなわちこの世界の最終的な破滅と新たな世界の到来が本気で意識されている。だから彼のテキストはきわめて抽象的でありながら、それは魂を揺さぶるものとなっているように感じられる。つねに、命と死を意識しているからだ。それは観念的なものであると同時に、物質的でもある。両義的なのである。それゆえ、どちらか一方に傾くと、陳腐化してしまうだろう。
12節では「こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります」と語る。これはいま宣教活動に従事している「わたしたち」、つまりパウロたちにおいてはイエスの十字架の死が働いており、その宣教に預かっているあなたたちには当然復活の命がはたらいているという意味だろう。13節では詩編116編10節(ただし70人訳)を引きながら、「同じ信仰の霊を持っているので、私たちも信じ、語って」いるのだという。そして「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」(14節)と語り、コリントの信徒を強く励ましたのであった。パウロたちもコリントの信徒たちも、「ともに恵みを受け、神に栄光を帰すようになるため」である。
それゆえにパウロたちは落胆しない。「たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(16-18節)。パウロは迫害の中にあっても、あるいは教会内での紛争に翻弄されても、それらは一時の艱難でしかない。「外なる人」は衰え「内なる人」は日々新たにされていくという。これは美しい言葉だが、危うくもある。律法に基づいて、厳しい枠に自らをはめて生きていく人々は衰えていく。なぜなら、彼らはいつまでも神の栄光に直接触れることができないからだ。したがっていつになっても永遠の命にいたることができない。しかし、内なる光によってキリストの顔に輝く神の栄光を悟ることができるのなら、日々新たにされていく、すなわち発展していくであろう。
だからこそ、見えるものではなく、見えないものに目を注ぐのである。ユダヤ教は原則として「声」であり、その次は「文字」である。しかし、キリストにおいては見えないもの、すなわち未来の救済を確信しているからである。この確信はもちろんすでにイエスにおいて実現したことである。
私たちはこのパウロの信仰を受け継ぐことができるだろうか。これほどまで浮薄となり、本物も偽物も区別のつかない時代にあって、本物に出会うのはかなり難しい。しかし、私たちはすでに本物に出会っている。聖書を通じて、私たちは真の意味での救いを経験した。それを皆で深く共有すること、そして自由を互いに持つこと、これしか、この時代を超える道はない。私たちはひるむ必要はない。なぜなら、すでに約束のもとにいるからである。かえってこの信仰を確かなものとして、明日からの新たな週を歩んでいきたい。