日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

HOME  砧教会について  牧師紹介  集会案内  説教集  アクセス


砧教会説教2017年12月10日
「慰めと解放の約束を信じて」イザヤ書61章1~4節
  2017年も残り3週間となりました。もうアドベントも2週目となりました。街中もクリスマス一色になっています。
 私たちの国は特にキリスト教の国ではありませんが、キリスト教のお祭りであるクリスマスは年末の行事として広く認知されています。キリスト教の禁令が解かれて、140年余り、日本のいたるところに教会があり、キリスト教に基づく教育施設があります。特に教育の力は大きかったと思います。しかし、現在はキリスト教に限らず、宗教的なもの一般が生活から遠ざけられているように見えます。想像を超えた「世俗化」が進んでいるように見えます。
 ところで、そもそもクリスマスを祝う本当の意味は何なのでしょうか。キリスト教において、イエスの誕生が大切なことだとして、なぜイエスの「誕生」がそれほど祝われなければならないのでしょうか。実は、特にイエスということに限らず、キリスト教の母体となったユダヤの世界では昔から本当の意味で世の中を立て直してくれる立派な人、あるいは人々の様々な困難や悩みを救ってくれる人を求めていたのでした。これをメシア待望といいます。メシアとは本来、油を注がれた者ということですが、その真の意味はユダヤ(古くはイスラエル)の困難を救う賢くかつ人勇敢な者、指導者であり、要するに王と重ねられたのでした。その中で最も有名なのはダビデ王であることは言うまでもありません。この王が非常に頼もしかったのでしょう。彼の名はずっと記憶され、メシアの代名詞にさえなりました。
 注意したいのは、王というのは古代イスラエルにおいては預言者を通じて神に選ばれた者として承認されなければ王になれないのです。王とは実際には軍隊を指揮する者ですから、極めて大きな力(軍事力)を持っていて非常に危険な人物でもあるので、その力を注意深くコントロールしようとしたのです。ですから、古代イスラエルでは王の力はほかの国々に比べて弱かったのです。そして王に期待されたのは外敵と戦って国を守るというだけでなく、王自身が神の言葉を受けて、その行政的権力によって正義と公平を実現することが求められたのです。
 やがて王国は北イスラエル王国とユダ王国に分裂し、オリエントの歴史の変遷に翻弄され、北イスラエルはアッシリアによって(前722年)、ユダは新バビロン帝国によって(前587年)滅ぼされてしまいました。そして人々の一部は捕囚となってバビロンに連行され、一部は離散します。しかしその中にあっても、彼らは自分たちの歴史を厳しく反省し、新しい国、新しい共同体を作ることを展望したのです。やがてペルシア帝国の時代になり、その展望が現実となり始めます。何と、ペルシア帝国はユダヤ人に帰還を認めたのです。しかし、その新しい動きの中で、様々な騒動も起こったようです。そして一人のメシア的人物が過大な展望のもとに独立運動を始めたが、それがペルシア王の怒りを呼び起こし、ある一人のユダヤの指導者的人物が全体の責任(罪)を負って、処刑されたのです(イザヤ書53章、苦難の僕)。その後、何とか一部はエルサレムに帰還し、共同体の復興を開始します。その中の一人がこの預言者で、彼は自分自身がメシアとして活動するという召命の体験とも見える言葉を残したのです。それが1節「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた」という言葉です。この人は自分がメシアであると宣言しているようです。
 しかしすでに読んでいただいたように、そこには戦争をして敵を破って国を作るとか勇ましいことは書いてありません。むしろこのメシアは神によって行われる理想的な解放と救いを宣言しているだけです。彼は神の意志を伝達する預言者のようです。
貧しい人に良い知らせをつたえさせるため(に神から遣わされた)
 打ち砕かれた心を包み、
 囚われ人には自由を
 つながれている人には解放を告知させるために(神から使わされた)
となる。先日砧教会として、ピアニストで作曲家の福田さんにこの節をコラールにしたいという希望を伝えています。荻野栄子さんの話では今年中にはおよそ仕上がるのではないかとのことです。この個所は、アドベントやクリスマスの季節に比較的頻繁に用いられるテキストです。
 さて、キリスト教は、そしてその前身のユダヤ教もまた、つねにこの世の悲しみや貧困を直視してきたと思います。そしてそのような困難が必ず解消されることを夢見てきました。しかし、人々の心に神の愛が、慈しみが、しっかりと根付かなければ実現しないこともわかっていました。そしてそのような働きに自分の身をささげる人を待望し、また、そのような働き人になろうとする人も現れたのでした。今日の預言者も、おそらくその一人でしょう。そのような人々の働きが積み重なることによって、自分たちの共同体は次第に形をもち、やがて堅固なものとなっていく。そのような希望をこの預言は語り続けます。かつてバビロンに敗れ、囚われ人になっていた人々に勇気を与え、もう一度希望を持つように促しています。今の苦境がすべてひっくり返って、喜びにあふれたものになるのだ、とこの語り手は宣言したのです。
 正直にいってどのような歴史的背景があるのかはわからない部分もありますが、この預言者も含めて、イザヤ書にはこうした希望の言葉がたくさんちりばめられています。
 このことは何を示すのでしょうか。キリスト教も、その前身のユダヤ教も、自分たちが苦しんでいること、たとえば貧しさ、悲しみ、そして病や飢饉といった自然の災害も、それらは必ず乗り越えていけるのである、あるいはそこから救われて、豊かな世界へと行けるはずであると信じていたということです。彼らは、自分たちが変わるということを信じていたのです。では、なぜそのような期待や希望を持ち続けることができたのでしょうか。
 それは、何度も繰り返すようで恐縮ですが、自分たちがもともと奴隷のようなものであったということを、痛みとして、あるいは屈辱として強く意識したこと、そして本当は別の生き方もあることを想像したこと、そしてそれを形にしたこと、そのことを記憶したことによります。それが出エジプトという経験と、神との出会いと契約です。これは別に難しいことではありません。私たちは誰かの何かの奴隷ではなく、一人一人が神の前で神だけを恐れ、かつ一人一人は当然不完全で欠けのあるものであることを認めて(罪をみな担っている)、互いが平等であることを確認するということだけです。私たちは自分の限界を認めることがなかなかできませんが、皆それを持っている。それは身体的な障害といったことではなく、あるいはその他の能力の限界といったことではありません。人間はもともと弱さや破れを抱えているということです。そして最終的に、生命として時間という限界も当然持っているということです。それをキリスト教は「原罪」と呼びました。誰しも持っている欠けた部分、弱さ、あるいは醜さといってもよい。そのことを前提にしつつ、しかしそれを超えていくこと、そしてそうした弱さや醜さを互いに認め合うことによって、平和で安全な、そして互いに助け合っていく共同体を作ることができたのです。それを教会と呼んでいますが、それは別に建物や具体的なキリスト教の教会である必要もありません。たとえば学校でも福祉の施設でも、いま述べたような平和で互いに助け合う共同体である限り、教会であるのです。エクレシアとは教会のことですが、それはもともと「集会」であり(ギリシアのポリスの統治のための集会の意味では「民会」と訳す)、その内実に従えばコイノニアと呼ばれます(どちらもギリシア語)。英語ではコミュニオンと訳します。それは互いがいたわりあって交流することができる関係のことです。もっとわかりやすく言えば「ともに飯を分かち合う」ということです。先月(11月)の3日に私も理事の一人である「社会福祉法人泉会」が新しく上北沢に知的障碍者施設を建てることになりましたが、その名前は「コイノニアかみきた」といいます。そこはこのコイノニアという、集まる者たちが互いにいたわりあう場であることを直に名前としたのです。
 やや話がそれましたが、ユダヤ教もキリスト教も、いろいろな人間の困難や破れを、エジプトから自由になったという小さな経験を根っこにして、乗り越えていけるものと考えたのでした。それはもちろん、自分たちの弱さを認めること、罪を認めることと一体です。それがなければ単なる独りよがりに過ぎません。そのような自己否定の機会をどこかに持っていないと、人間は再び傲慢、高慢になり、共同体は壊れていくでしょう。
 さて、今日のアドベント礼拝の話をまとめたいと思います。私たちは、実はそれぞれ悩みや欠けた部分、そして醜い部分を持っています。そしてそれが積み重なり、大きくなると、自分自身も家族でも、そして社会でも生きにくくなり、果ては自分も相手も、壊れ、時に戦争にさえなります。しかし、互いにそれらを認めあい、その部分を互いに補い、あるいは庇い、あるいは援助しあうことができれば、まったくい逆に、非常に安定した、そして豊かな、かえってのびのびした世界になるのです。
 その要となるのが、キリスト教ではイエスの歩みであり、彼の生涯はすべて、いま述べたことを指し示すことでした。そしてそのことを、身をもって示したのでした。それが十字架と復活に象徴されました。それはすべての人間の慰めと解放を約束するものです。それゆえ、彼の生涯をその誕生にさかのぼって、さらに彼の誕生の預言にまでさかのぼって祝うことにしたのです。アドベントとはそうしたイエスの到来を想起するため、「アドベント(到来)」と呼んでいるのです。私たちは彼の到来の喜びをあと2週間、しっかりと味わいたいと願うものです。