日本キリスト教団砧教会 (The United Church of Christ in Japan Kinuta Church)

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砧教会説教2017年12月17日
「天から与えられる住みか」コリントの信徒への手紙Ⅱ5章1~11節
 私たちは「住みか」を持つ。住みかとは、雨風をしのぎ、寒暑を緩ませ、体を休ませる場所である。それは石づくりのもの、木造のもの、草木でできたもの、それを加工した布でできたもの、そして人の手の加わらない、例えば洞穴のようなもの、といろいろである。パウロはここで、天幕に言及するが、これはもちろんパウロが天幕づくりを生業としていたことに関連するが、それだけでなく、イスラエルの牧畜民としての起源にかかわるものであり、パウロも含めたユダヤ人のアイデンティティの一部と関連するといってよい。 
 彼はその幕屋を「わたしたちの地上の住みか」と呼ぶが、これは実際の天幕暮らしを指すというより、地上での生活全体をたとえているように見える。しかし、単に地上の生活ではなく、地上にある「住まい」のもつ、ある種の安全性、快適さを問題にしている。しかしより根源的に考えれば、住まいとは命の営みを保証する最も重要な手段である。
 しかしキリスト者には別な建物が用意されているという。それが「人の手で作られたものではない天にある永遠の住まい」である。これは何をたとえているのだろうか。いや、たとえているのではなく、文字通りに考えているのだろうか。
これはパウロの特徴である二元論的な説明のひとつであろう。彼は例えば1コリ15章でも「朽ちるもの」「朽ちないもの」にわけ、後者を復活したものの比喩としてかたっている。あるいは本日のテキストの前の断章でも「外なる人」「内なる人」と分け、「内なる人」は「日々新たにされていく」と述べている。要するに本日の箇所でも、同じような内容を繰り返しているように見える。すなわち、「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと願って、この地上の幕屋にあって苦しみもがいています」と。パウロは常に、この地上の世界、この歴史の現実に対して、別な世界、地上を超えた世界、あるいは歴史の果ての世界を想像している。これは結局、パウロのニヒリズムを表明しているにすぎないように見える。彼には現実世界は「苦」でしかないようだ。
彼はキリスト者として迫害されている。そして教会も迫害によって傷をおっている。そのような状況において、つまりキリスト者が迫害されているという事実に眼を背けることができなかった。このような状況の中で、パウロはコリントの人々に書き送ったのだろう。したがって、この比ゆ的な表現はすべて、元来励ましのテキストであるように思われる。
さて、地上にあって苦しみもがいている、とやや極端な表現であるが、それは単に迫害によるものだけだろうか。パウロはコリントの教会の混乱を念頭に置いていたはずである。したがって、教会の内輪もめのようなレベルのこととみる可能性もある。しかし、ここではそうした現実的な事柄を指しているのではなく、現実から出発しつつ、それを無価値とし、ついに新しい光としての「天の住みか」というやや神話的表現によって、新しい世界に生きることを求めているようにみえる。
しかし3節以下を読むとそうでないことがわかる。「それを脱いでも、わたしは裸のままではありません」と宣言する。これはキリスト者には別な住みかが与えられているということであろう。しかも、外には迫害があり、うちには教会の内紛がある。つまり「この幕屋に住む私たちは重荷を負って呻いて」いる(4節)。しかしパウロはかなりきっぱりとした口調で「それは地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません」と告げる。つまり、かれは地上の世界から切り離されることを望んでいるわけではない。それどころか、「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」(4節後半)と語る。彼は自分たちの地上の住まいの苦しさを逃れるという形ではなく、天からの住みかを着ることによって、死を滅ぼすのだと言った。実に唐突なかんじがあるが、彼は地上の住まいが天から与えられる住みかによってとってかわることによって、私たちの命の営みははるかに強く保証されるのだと考えている。この天から与えられる住みかとはなんであるか。具体的なものなのかそうでないのか。具体的なものであるとすれば、それは教会それ自体である。教会こそは下と天上をつなぐものであり、そこに参加す」ることが「天からの住みか」に住まうこととなる。そして「死ぬはずのもの(人間)が命にのみこまれ」るのである。これは天からの住みかを身にまとうことによって、すでに死は滅ぼされ、永遠の命を受け継ぐことを意味する。しかしより本質的なことは、天からの住みかがキリストを意味するということだ。パウロにとって、キリストは新しい建物であり、衣でもある。がしかし彼は人間のメシアであるということ。
さて、このアドベントの時期、一年を振り返り、かつ希望を見つけるときである。そしてまもなく来るクリスマスとは、キリストの誕生である。これはパウロのたとえの解釈の一つの要素である。つまり「天からの住まい」としてのキリストである。キリストとは神の住まいであり、天から与えられたのである。私たちが天に行くのではなく、天のほうから地上への降りてきたのである。これをキリスト教では「受肉」と呼ぶが、それこそが「恵み」である。つまりわたしたちはこの地上を離れ、どこかへ去る必要はない、かえってこの地上において神の住まいを身にまとうことができるのである。地上において天の住まいを身にまとうことは何が利点であるか?それはもはや、地上の苦難、迫害にびくびくする必要がないということ。つまり勝利はすでに自分の側にあることを確信できるからである。仮に地上の幕屋が壊れても、キリスト者の安全と安心は保たれているのである。
このような安心の住まいが与えられていることを保証するのが「霊」であるという。これは洗礼を通じて、あるいは聖餐式を通じて、絶えずキリスト者に働きかけている神自身の力である。この聖霊の働きによって、天からの住まいは機能する。つまり教会は聖霊の働きに拠っているのである。
ただ、6節以下はどうも現世否定的である。「体を住みかとしている限り、主から離れていることも知っています」(6節)や、「からだを離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」(8節)という言葉は、もはや地上世界、肉の世界をあきらめているかのような趣である。それどころか、観念的な救済をよしとしているように見える。地上の住みかとは体のことで、そこにあるのは「魂」である。この魂が天からの住まいを受け取ることによって、死は滅ぼされるのである。
しかしパウロはさらに加えて最後の審判を想起させている。「私たちはみな、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしてきたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないのです」と述べ、信じて生きていくよう勧告する。
ところで、パウロのたとえ話を読みながら、私はこの時代の人々が何に飢えていたかがわかる気がしてくる。それは単にローマ帝国からの自由というだけでなく、この世全体に対する懐疑が見いだされ、まったく別の世界を望んでいたということである。それは生きることそのものへの疑問であったかもしれない。その疑問は答えがない限り、徒労に終わるが、もし答えが、あるいは答える者が現れたなら、世界は別の方向に進んでいくだろう。そしてその問に答えたのがイエス・キリストである。
私たちは今日こうして礼拝しているが、2000年前に現れたキリストを住まいにしているといってよい。キリストを住まいとすることは教会を住まいとするということだ。そしてそこにおいては、地上にあって朽ちる者でありながら、朽ちないものへと同時に変わっている。私たちはそのことを信じることによって、また新しい年への展望を開いていけるのである。そしてこの場所で命の営みを十全なものとすることができるのである。